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静かな復讐 奪われたすべてを、完璧に奪い返す  作者: 雫石しま


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第14話 幕を下ろすのは私

 パンドラの箱をそっと閉じ、私はLueurのバックヤードで白衣に袖を通した。ルーペを手に取る……白衣の袖口がわずかに擦れる音だけが、静まり返った作業室に響く。ルーペのレンズ越しに見えるのは、今日届いたばかりの原石の断面。淡い青みがかった結晶が、光を浴びて内部で細かくきらめいている。まるで、誰かの凍りついた涙のようだ。私は深く息を吐き、ルーペを置いた。


 向かいの席は整然と片付き、田川亜美の姿は跡形もなく消えていた。彼女は私の『Reborn Eternal』を盗作したとして、Lueurを解雇された。


 解雇の通知は、朝一番で届いた。Lueurの代表取締役からの短いメール。件名はただ「人事異動および契約終了について」。本文には、亜美が『Reborn Eternal』のデザインを無断で流用し、外部クライアントに提出した事実が淡々と列挙されていた。証拠として添付されていたのは、私が隠し撮りした写真とは別のもの。もっと鮮明で、もっと残酷なもの。


 監視カメラが捉えた深夜のバックヤード。亜美が拓也の膝に手を置きながら、私のスケッチブックを広げている姿。日付は三ヶ月前。私は知らなかった。自分のスケッチが、こんな形で回収され、武器にされていたなんて。


 けれど、今となってはそれがどうでもいい。亜美は消えた。Lueurから、拓也の人生から、私の視界から。


 田川亜美には、心理的苦痛と不倫の慰謝料請求300万円の、内容証明郵便を送った。盗作デザイナーとしての汚名を背負い、職を失った彼女にとって、これは重い足枷となるだろう。


 私は白衣のポケットから、スマホを取り出す。アルバムを開き、三枚の写真を1つずつ確認する。どれも暗くて粗い。でも、十分だ。拓也の表情、亜美の指先、グラスに映る二人の影。すべてが、そこにあった事実の欠片。


 削除するか。


 迷いは一瞬だけだった。指が画面を滑り、アルバムごとゴミ箱へ。確認のポップアップが出る。「本当に削除しますか?」私は迷わず「はい」を押した。


 消えた。


 これで、拓也と亜美の不倫の証拠は私の頭の中にだけ残る。誰にも見せない。誰にも使わない。ただ、私が忘れないために。


 ルーペを再び手に取り、原石に向き直る。『Reborn Eternal』は、Lueurの新作としてショーケースに並ぶ予定だ。最優秀賞のトロフィーは、棚の奥に置かれ、埃をかぶり始めていた。『Reborn Eternal』の次作を考えなければならない。私は深呼吸して、ルーペを覗き込んだ。ピンセットで小さなメレダイヤを配置し、傷跡の周りに星屑のように散らす。デザインはもう完成している。


 もう二度と、誰かに盗まれるようなものは作らない。もっと深く、もっと複雑に、もっと私だけのものに。作業台の端に置かれた小さな鏡に、自分の顔が映る。目が少し腫れている。頬がこけている。でも、唇の端は、ほんのわずかに上がっていた。


 拓也はまだ、私の知らないところで何かをしているかもしれない。でも、それはもう、パンドラの箱の中のものだ。私はそっと蓋を閉めたまま、ルーペの焦点を合わせる。光が、結晶の奥深くまで届いた。そこには、誰も触れられない、私だけの永遠が眠っていた。



 店舗が賑やかになり、女性スタッフが色めき立つ。髪を整え、バックヤードで口紅を直す姿もあった。なんだろうと振り向くと、そこに倉橋智久の姿があった。柔らかい微笑み、落ち着いた仕草に皆、浮かれている。


 彼はLueurのショーケースをゆっくりと眺め、店長に軽く会釈した。ダークグレーのコートを脱ぎ、スタッフに預ける仕草すら優雅だ。


 女性陣の視線が彼に集まる中、倉橋の目は私を探していた。「佐々川さん」名前を呼ばれ、私はルーペを置いて立ち上がった。白衣の袖を軽く払い、カウンターへ向かう。スタッフの視線が背中に刺さるが、気にしない。


「お久しぶりです、倉橋さん」


 彼は穏やかに微笑み、ケースの中の『Reborn Eternal』を指差した。


「これ、君の新作?」


 私は頷いた。


「はい。最優秀賞をいただいたデザインです」


 倉橋はリングをじっと見つめ、静かに言った。


「傷が光に変わる……美しい。君らしい」


 その言葉に、胸の奥が温かくなる。スタッフのざわめきが遠く感じる。


「今日は、どうしてこちらに?」


 彼は軽く肩をすくめた。


「新作を見にきたのと……君に会いにきた」


 女性スタッフの溜息が聞こえる。私は小さく笑った。


「嬉しいです。……少し、奥でお話ししましょうか」


 倉橋は頷き、私の後についてバックヤードへ。私はコーヒーを淹れ、2つのカップをテーブルに置いた。乾いたプラスチックの音が小さく鳴った。倉橋はカップを手に取り、静かに言った。


「あれから気になっていたんだけど、離婚の話はどうなったの?」


 突然の問いかけに言葉を失ったが、大きな溜息が重く胸に落ちる。


「まだ迷っています」

「……そう」


 私はカップの縁を指でなぞりながら、静かに言葉を続けた。


「離婚届は、もう私の欄にサインしてあります。ただ……提出するタイミングが、まだ決められなくて」


 倉橋はカップをそっと置き、穏やかな瞳で私を見た。急かさず、ただ待つような沈黙が心地いい。


「迷う気持ち、わかるよ。5年一緒にいた相手だ。簡単に切り捨てられない」


 私は小さく頷いた。喉の奥が熱くなる。


「パンドラの箱を開けてしまったんです。夫の浮気相手が意外な人で……」

「パンドラの箱……?」


 倉橋の表情がわずかに変わった。驚きではなく、静かな理解の色。


「それを知った今、離婚は「解放」なのか、それとも「敗北」なのか……わからなくなって」


 私はカップを両手で包み、温かさを確かめた。


「けれど君の光は、もう誰にも奪われない。……これから、どうする?」


 私はサファイアのリングを指で回した。青い傷が、光を屈折させて輝く。


「新しいデザインを描き続けます。傷も、闇も、すべてを光に変えて」


 倉橋は微笑んだ。凪のような、優しい笑み。


「応援してる」


 私は頷いた。


 離婚届は、私の手の中にある。私の人生は自分で決める。例えそれが「敗北」であったとしても、幕を下ろすのは私だ。サファイアが力強く煌めいた。


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