其の十四 結城無二三と結城禮一郎
14話目です。よろしくお願いします。
一
こうして伝道師に戻った結城無二三だが、其の話は彼の故郷の山梨に即座に伝わった様だ。
無二三が八幡村で田舎伝道をしていた時に知り合った、飯島信明と中沢徳兵衛が「是非とも山梨に来て下さい!」と懇請する。
無二三は人を引き付ける力が在るのか。
根岸の講義所と山梨の日下部教会側で無二三の取り合いと為る。
結局、無二三は故郷に戻ることを選択し、東京には学校通いの長男の禮一郎、長女のトヨ、次女のマサを残して、一家で山梨へ帰郷する。
日下部教会では既に牧師が居たので、飯島と中沢は無二三を東八代の石和へ落ち着かせた。
明治二十九年(1896年)の頃である。
この年には末子のスエが生まれ、無二三とマツのスエに対する愛情は、目に入れても痛くない程で、非常に可愛がった。
この山梨での無二三の活動は同年中に甲府へ、明治三十一年(1898年)に日下部へ、翌明治三十二年(1899年)に勝沼教会へ転じる。
さて、東京に残った禮一郎は東洋英和学校(麻布中学)を明治二十九年三月に卒業する。
禮一郎は進路として、父と同じく伝道師を志したので、石和へと赴く。
ちょうど無二三たちはパンを焼いている処だった。
息子は父に進路の相談をする。
二
「ほぅ、伝道か。遣りたいんなら止めんぞ」
禮一郎は父の言葉をしっかりと聞く。
「人間、何を遣っても何かにぶち当たる。俺なんぞは色々な道を辿って来たから、今やどの道を通っても同じだと判るが、お前の齢で未だそんな悟りきったことをするのは勿体ない」
無二三の表情はやや厳しく為る。
「好いか、『伝道師』と云うのは、昔の世の坊主よ。戦で人を殺した者が就く職業だ。学校を出て坊主をするのは妙な話だと思わんか。まぁ、親子で伝道をするのは俺たち位だから、日本でのキリスト教の歴史に名を残す程度は出来るだろうがな」
禮一郎は父が自身と同じ道に入ることを遠回しに否定していることを理解する。
そして三年後。結城禮一郎は新聞記者と為り、結城家のもう一人の師とも云える、江原素六からの推薦を受け、彼は「甲斐新聞」の創立に携わる為に甲府へと遣って来る。
禮一郎が新聞記者に為りたての頃。
彼は晩年の勝海舟の元へ取材に訪れたのだが、海舟の開口一番は以下だったらしい。
「何だ? お前はあの結城の馬鹿の倅か!」
海舟がこう言うのも止む無しである。
嘗て無二三に伊豆大島での畜産業を紹介したのに、無二三はあの「大小切騒動」に参加する為、連れて行く牛を残し、勝手に山梨へと帰ってしまったからだ。
三
甲斐新聞の主筆と為った息子に無二三は久々に破顔して大喜びをした。
自分の息子を周囲の信者たちに紹介する。
「俺は二十三で甲陽鎮撫隊の軍監として故郷に帰って来た。こいつは二十一で主筆として甲斐に来た。軍監と主筆は位としては比べられんが、共に志としては立派である」
信者たちが居なくなってから、無二三は禮一郎と二人きりで話す。
と云っても、これも無二三が一方的に息子への今後のアドバイスである。
「俺は人から諦めが早すぎる、と好く叱られていた。確かに何か一つのことに執着していたら、成功を収めていたかも知れん。故に何かを掴んだら、決して手を離さず粘り強く従事すべきなんだ」
ここで無二三は一息つき、表情を柔和にして語りを続ける。
「だが、俺にはこれが全てとは思えぬ。人生とは成功することのみが目的では無い。物事への執着心が弱いのも諦めが早いのも、駄目なことでは無いのだ。然し、己を貫く野心。これだけは捨ててはいけない。野心を常に燃やし続けていれば、人間とは何時でも楽しく暮らせていけるのだ」
禮一郎は改めて父親を尊敬する。
「あぁ、これは生死と隣り合わせの世を送った人だからこその言葉だ……」
四
さて、生死と隣り合わせの生き方をしたある人物が、無二三が働く勝沼教会に現れた。
今井信郎である。
今井と無二三はあの江戸の講武所の頃からの付き合いで、今井は見廻組に所属し、共に鳥羽伏見の戦いに参戦していた。
今井は江戸へ戻ってからも各地で転戦して、遂には箱館戦争まで戦い抜いた歴戦の人物である。
維新後には無二三同様にキリスト教に改宗し、この頃は敬虔な信者で且つ農業に従事しつつ、静かな人生を送っていた。
彼は久々に無二三との旧交を温めに来たのだ。
そして、偶々この場には禮一郎も居た。
「禮一郎、この方が何時も俺が語っていた坂本龍馬を斬った男だぞ。記者として『いんたびゅー』をしたら如何だ?」
謙虚な今井は「詰まらぬ話です」と断ったが、禮一郎も改めて頼むと、当時のあらましを彼は簡単に語る。
禮一郎はこれをかなり粉飾して、一種の読み物として甲斐新聞に書いた。
特に今井が龍馬を斬った場面に至っては、芝居がかった大仰さだ。
抑々、当時の山梨の人々には「坂本龍馬」等と言われてもピンと来ない。
そして、問題が発生する。
この甲斐新聞社には京都出身の人物が居て、禮一郎のこの読み物が載った後に退社する。
京都に戻ったこの人物は「近畿評論」なる雑誌に、禮一郎のこの今井が龍馬を斬った読み物を其のまま載せてしまう。
明治三十三年(1900年)の頃である。
これを谷千城(1837年~1911年)が読んでしまう。
谷は土佐藩士で、あの甲州勝沼の戦いでは板垣退助を補佐していた。
何より、近江屋事件では、即死を免れた中岡慎太郎から、襲撃犯についての証言を直接聞いていた。
中岡の証言とこの近畿評論の内容は全く異なる、と怒り出した谷は「今頃、こんなでたらめなことを言うのは、今井信郎、売名の徒である!」、とまで糾弾する。
本作で度々引用している「旧幕新撰組の結城無二三:お前達のおぢい様」。
ここで、禮一郎は自分の書いた読み物がこの様な型で広まってしまったことに関して、今井には申し訳ないことした、と詫びている。
谷に対しても詫びているが、もう少し出所を調べて貰えば、「今井さんの売名行為では無い」ことが直ぐに判るのに、と苦言も呈しているが。
現在に至るまで、坂本龍馬暗殺事件の実行者や其の背後の問題が、専門家や歴史好きの議論百出と為っているのは、この結城禮一郎が甲斐新聞で著した読み物も一因なのである。
其の十四 結城無二三と結城禮一郎 了
続きます。
無二三も禮一郎も龍馬を斬ったのは、今井だとずっと信じていたようです。
今井は何度か「見廻組単独でやった」と証言していますが、その時々の存命中の見廻組関係者をかばう意味で、証言内容(特に実行犯)がややぶれています。




