ほうれん草とマスのミルフィーユ2
その頃、ボリスは水車小屋の中に置いた樽に鍛冶屋の火で沸かしたお湯を注ぎ込んでいた。イザクも一緒に作業をしているが、そのイザクから手間賃として百銅貨受け取っていた。
「ボリス、君もストルカ国から来たって?」
イザクは湯の入った手桶を運びながら話しかけてきた。
「そうです。妹のアヴリルが身籠ったので環境の良いこの村に来ました。イザクさんは商いで各地を移動しているんですか?」
そうだと答えるイザクにボリスはずっと感じていた違和感を話してみることにした。
「その割には荷がありませんね」
「ああ、今は質の良い鉄鉱石の産地を探しているのだ。この辺りにあるかい?」
「多少は採れますがどうなんでしょう」
水車小屋の扉を開けると二人は中の樽に湯を注ぐ。あと二往復くらいはしないとならない。
「風呂があればあの宿屋は完璧なのだがな」
話を逸らされたとボリスは感じた。とにかくイザクとその主ザライムは胡散臭い。この村や村人に関して興味があるようだが、自分たちのことは話したくないのか話を振ると上手いことかわされてしまうのだ。
(鉄の売買は確かに相当実入りはいいだろう。それにしても、身なりが良過ぎる。商人特有の雰囲気もなさ過ぎる。この人たちは一体……)
隠したいことがあるからなのか、イザクとの会話は弾まず、黙々と湯を運びボリスは水車小屋を後にした。
イザクは、宿屋に残って待っていたザライムを呼んできて湯浴みに手を貸していた。薄暗い屋内ではあるが、水車用の水の取入口があるため光は入ってきていた。
湯気の上がる樽にザライムが入ると、イザクは手桶に用意しておいた湯でザライムの黒く艷やかな髪を洗っていく。
「何か情報は?」
樽にゆったり浸かるザライムは前を見たままイザクに問う。
「これといって。皆、単なる村人として関わっているようです。きっと素性を知らないのでしょう」
ザライムは手を樽の中に入れ、湯を掬う。その湯で顔を洗って手で顔の水を切った。
「まぁ、相手は『知の司』」
「はい」
それはそうと、とザライムは話題を変えて、顔をイザクの方へと向けた。
「アリシャは連れて帰るぞ」
イザクは顔をしかめ「なりません」と、一刀両断する。
「なぜだ」
イザクは叱責されるかと思っていたようで、愉快そうに返すザライムに口を閉じた。言い返す準備は出来ていたのに、このような柔和な雰囲気でくるとは考えていなかったのだ。
「それは貴方様だってよくわかっていらっしゃるでしょう」
「わからんな」
イザクが黙って髪を洗っていくのでザライムは「ダンマリか」と小さく笑った。
「良いではないか。アリシャを魂が欲しているのだ」
イザクはそれにも答えない。黙々と髪を洗い、流していく。
「湯が温くなってきたでしょうから取ってまいります」
ザライムは無視を決め込むイザクに対抗し、返事はしなかった。だた面白いと呟くと出ていくイザクの足音を聞きながら再び湯を掬い、顔を洗った。
暫くすると水車小屋の戸がキィと鳴って外の光が差し込んだ。
「お前、誰の許可を得て中へと進むのだ」
ザライムは背を向けたまま、戸から足音を殺して忍び込もうとする者へ落ち着いた声音で言った。
「ザライム様が入浴されているとうかがい、それならば私がお背中をお流しすると申し出たのです」
一歩進もうとしたジャンヌにザライムは見ることもせずに警告する。
「娼婦は要らぬと言ったはずだ。私が振り向く前に大人しく出ていったなら──」
「娼婦ではございませんわ。一目見たときから貴方様に心の全てを奪われた愚かな女なのです。大胆な行動をとっているのはわかっております。だから、娼婦と思われてしまっていることも……。しかし私はただ貴方に」
ザライムは失笑し、首を横に振った。
「可笑しくて暫く思い返しては笑ってしまうであろうよ。話せば話すほどに可笑しな女だ」
「ザライム様! 私をどうか受け入れ──」
駆け寄ろうとしたジャンヌの服に、突然炎が生まれて引火した。
「キャアアア! 火が火が!」
ジャンヌはパニックになりながら火のついたスカートを手で叩こうとした。
戸が再び開くとイザクが桶を持って立っていた。
「女、消し止めたいなら川はすぐそこだ」
ジャンヌは無我夢中で水車小屋から飛び出して行った。バシャンと水の音がし、それを遮断するためなのか、イザクは後ろ手で戸を閉めた。
「イザク、女を入れるとは……アリシャを気に入った私への嫌がらせか」
「まさか。どんな理由があろうとあのような者を近寄らせるわけありません」
イザクは持ってきた湯を樽に流し入れていく。ザライムは遠ざかって行く足音に耳を傾けながら髪を手で後ろに撫でつけた。
「娼婦でないと言い切る度胸は感服するが、演じきれていると思っているならば哀れなことだ」
イザクは口元をゆっくりと緩ませ空になった桶を樽の横に置いた。
「それは我らも同じこと。ボリスという男は既に怪しんでおりますゆえ」
ザライムはハハッと声に出して笑い、ゆったりと振り返りイザクを見た。
「正体がバレても私は構わん。そうなったらアリシャを連れてここより旅立つだけだ」
イザクは「アリシャを連れて行くのはなりません」と、顔をしかめた。
「村娘を一人連れ帰るのになんの心配があろうか」
ザライムはイザクを挑発し楽しんでいるようだった。それに気がついていてもイザクは「なりません。それだけです」とキッパリ言い切った。




