35話『雨冷えの部屋』
濡れた髪からポタポタと滴が落ちる。
急に降り出した激しい雨が頭を絶え間なく打ち続ける。どこか懐かしい感覚に息が詰まりそうになる。
『どうして困らせるの』
まだ夕方なのに薄暗い空を見上げていると変な声が聴こえてくる。もう二度と聴くことはないと思っていた、自分に少しだけ似た高い声だ。
遠くの空が一瞬光る。雷だ。その光り方が切れかけの小さな電球の点滅に似ているように感じた。
指先が冷たい。喉が凍りつくように体内が寒くなる。きっといま口を開いて何か言葉を発そうと思っても、上手く発生出来ず震えた小声しか出せないような気がした。
重くて粘ついた感触が皮膚に付き纏う。落雷の音が鼓膜を劈く。爪を立てて握った手首に痛みが生じる
浸水してじゃぶじゃぶと響く靴の音と気持ち悪い感触を踏み潰しながら歩く。どこに向かっているんだろう、さっさと帰宅すればいいのに何故か家に帰る気が起きない。怖い。悲しい。怖い。
大きな雷鳴が響いて一瞬世界が白くなる。近くで雷が落ちたらしい。
白んだ視界の中に唯一形を残す大きな影があった。たしかそれは何の変哲もない木の影だった。青々とした葉が伸びて、枝が重力に逆らえず垂れ下がるような、柳のような形状の木だったと思う。
俺の目にはそれが人のように見えた。足先が地面についていない、僅かに左右に揺れる人の影だ。
「……ごめんなさい」
優しくて穏やかな微笑を浮かべた女の人に、もう二度と変えることの出来ない引き攣った表情を貼り付けたお母さんに対する謝罪の言葉が口から漏れる。
再度世界が光った時、俺の目に焼き付いた光景が現実のものへと切り替わった。見上げていた首吊り死体がただの木に戻る。
最悪な気分だ。今の出来事であることに気付いてしまった。
やはり鏡は嘘をついていた。毎朝鏡越しに見ていた自分の顔は自分の思い描いた表情ではなかった。
俺が自然だと思い込んで作り上げる笑みは、最期にお母さんが浮かべた歪な笑顔そのものだった。
「うおっ。どうしたお前、びしょ濡れじゃん」
玄関のチャイムを押して一分経つか経たないかぐらいかの所で扉が開き、中から部屋着姿の卜部が出てきた。
首にかけたヘッドホンから激しめの音楽が漏れている。雨の日の休日は部屋にこもってヘッドホンで音楽鑑賞ですか、優雅なもんだな。聴いてる音楽ジャンル自体は優雅さからかけ離れてはいるけど。
「シャワー借りていい?」
「いいけど、なんで俺ん家に寄ったんだ? ちょっと走れば自分ちだろ」
「そんなに近所でもないじゃん」
「てかこんな豪雨の日によく外出しようと思ったな」
「コンビニの帰りに降り始めたんだよ。貸してくれるなら早くシャワー浴びたい」
「お、おう。……同級の女子がシャワーを借りに来るとか、現実で起こるイベントだったのか」
卜部の呟きはあまり意味がわからなかったので反応せずに玄関に入れてもらう。このまま上がったら廊下を汚してしまう、どうしようと考えていたら卜部がタオルを持ってきてくれた。ありがとうと感謝を述べて水気を先に拭いておく。
「あ、瑠璃川。シャワー貸すのは構わないんだけどその服は……まあ妹のを貸すとして。下着はどうするんだよ? 他人の物を借りるの嫌じゃね」
「んー。んー……確かに」
「どうする」
「じゃあ妹ちゃんの服さ、ズボンタイプのやつ貸して」
「ズボン? 分かった。あ、濡れた服はそのまま洗濯機に突っ込んでいいよ」
「……ネットとかない?」
「ネット?」
「インターネットではなく。洗濯用ネットな。そんな下らないボケをかましたわけはないって分かってるけど一応言っとくね」
「……なるほど」
「洗濯ぐらいしなよ。親の負担少しでも減らしてあげな。で、ある?」
「えーと…………これか?」
「それだ。貸して」
卜部から洗濯ネットを受け取り、ついでに妹ちゃんの今は使っていないジャージも借りて脱衣場の扉を閉める。
「胸元きっつい」
シャワーを浴びてサッパリしたので妹ちゃんのジャージを着てみたのだが、サイズが少し小さいな。胸元の布が引っ張られて姿勢によっては腹が見えそう。下は問題ないけど上は……まあ猫背にすれば問題ないか。
てかさっき廊下歩いてる時家族の気配がしなかったけど、今日は卜部以外家に人いないのかな。卜部の家でアイツと二人きり、か。
「ふむ……」
脱衣場から離れ、洗面台の鏡の前でドライヤーを借りて髪を乾かす。卜部と二人きりかぁ。雨は全然止む気配ないし、まだここに居座りたいんだけどな。それだと卜部は気を使うかなぁ。
「あれ」
上手く笑顔が作れない。作る気が起きない、表情筋が重たい気がする。なんでだろう。
それになんか、表情に引っ張られてるのか妙に気持ちが晴れない。元より明るい内面はしていない自覚はあったけど、ノーマル状態より水準低めのメンタルで固定されてる感じ。
憂鬱っていう言葉を顕著に表したような精神状態だな。どうしたんだろ今日、生理ぶち当たりの日じゃないのに。
「……」
卜部の部屋に入ろうとして扉の前で立ち止まる。ノックする手を止めて、目線を落として自分の胸を見た。
ノーブラでノーパン。その状態でサイズ若干小さめの服を着ている。これって、卜部からしたら痴女認定を受ける格好なのでは? なんかやけに俺との距離感に拘ってる節あるしな。
言われなきゃ気にする事もなかったのに、体育で大転倒カマした卜部の見舞いに行った日からアイツにそういうことを意識するようになった。なーにが男女の壁だよ、人の事おじゃまイエローとか言ってくるくせに。
……乳首浮かないよな? 大丈夫だよな。それだけは確認しておかなくては。
「瑠璃川。風呂上がったのか」
「っ!?」
服の具合を確認していたら扉が開いて卜部と目が合った。即座にターンを決めて体の向きを変えることで背面を卜部に向けることに成功した。危ない危ない、変なことしてると勘違いされる所だった。
「なにゆえ部屋の前で一回転?」
「創作ダンスの予習! 今後の体育に備えて!」
「プライベートで練習するケース存在するんだそれ」
「そんな事より何の用だよ! なんでドア開けたの!」
「どういう質問? なんで自分ちでの行動の意図を問われてんの俺。普通に飲み物取りに行こうとしただけなんだけど」
確かに俺からするのは意味不明な問いかけを投げてしまった。
壁際に体を寄せて卜部の動線を空ける。卜部は俺が空けた動線をそのまま通るが、ふと足を止めてこちらを見た。腕を組んでそれとな〜く胸の前を隠す。
「瑠璃川」
「なにさ」
「麦茶かミネラルウォーターかスティックで入れるココアか抹茶ラテ。どれ飲みたい」
「……麦茶」
「麦茶了解。どうせこんな雨じゃ外歩きたくないだろ、テキトーにくつろいでなよ」
「そうする」
卜部とすれ違いで部屋に入る。
……どうしよ。本来は来る予定がなかったからどのポジションに身を置くか悩む。クッションを一つ借りて、床に敷いてベッドを背もたれにして座り込む。
「ふぅ」
「ただいま」
「おかえり。早いね」
「俺はペットボトルをそのまま持ってくるだけなんでね」
「雨の日にエアコンの効いてる部屋で凍ったアクエリってどうなん。かえって寒くならない?」
「エアコンの設定温度高めだろ。うちは今節電期間に入ってるからガンガンに冷やすことができないんだよ」
「十分涼しいけど」
「風呂上がりだからそう感じるだけっしょ。ほら」
麦茶の入ったコップを手渡され、卜部が人をダメするソファ的な物体に体を沈み込ませる。ヘッドホンから漏れる音楽は付けっぱなし。垂れ流しで卜部は漫画を読み始めた。
「なに読んでんの?」
「ドラえもんのパクリ漫画」
「なんだそりゃ。面白いの?」
「面白いんじゃね。ニッチな本屋の奥に雑に突っ込まれてそうなチープさがある」
「サブカルだなぁ」
「王道漫画は大抵アプリで手軽に読めるし。あえて紙媒体で読むってなったらそういう作品になってくるわな」
「ふーん」
そういうもんなのか。でもそれってスマホのデータが飛んだりしたら購入分が読めなくなって不便じゃないか? まあこのご時世、普通に使ってたらスマホのデータが飛ぶなんてそうそう起こらないことだけどさ。
することもないし、卜部は漫画に夢中であんまり話しかけてこないから退屈しのぎにスマホでSNS巡りをする。他人の投稿にあんまり興味はないし、既読感覚でいいねを付けてスクロールしてまたいいね付けての繰り返しだ。特段楽しさは感じないが、いい感じに作業感があって暇つぶしになるんだよな、これ。
「ふいー」
座り姿勢がしんどくなったのでクッションをもう一つ借りて床に敷いて寝そべる。少し肌寒くなってきたのでブランケットを借りてそれを掛け布団代わりにする。雨の日の入浴後というのはなんでこうも眠くなるのだろう。体が普段の2割増しくらいに重く感じる。
「人んちだってのに随分とくつろいでますね」
「なに〜? 京言葉?」
「隠された意図とかなく。男の部屋でよくそんな無防備になれるよね、お前」
「無防備かな」
「……自分の格好とか、状況とか、考えてみたら?」
自分の格好。……あぁ、布がめくれて腹が少し出てたや。腹だから別に気にするほどのことでもないけど、わざわざ指摘するあたりリアクションを求めてのことだと思うので一応その期待には応えておく。
「えっち」
「えっ、はっ!? いやいやいや! それは違くないか!?」
「男友達として仲良くやってきた私が相手なのに無防備とか言ってくるの、相当エロじゃん」
「えー……過去と今を切り離して考えてほしいわ。真っ当に女子やってる今のお前を男として見るとか無理難題だろ」
「無理難題なんだ?」
「そりゃ」
「私相手にそういう気分になったりするの?」
「……っ、ん!? はい!? なに!? なにが!?」
「なんでもなーい」
スマホ画面を眺めたままテキトーに流す。雨に引き摺られてるせいか憂鬱さは全然晴れないけど、それとは別にこの空間でだらけるのが若干心地よく感じてきた。卜部の言葉も話半分にしか聞く気が起きない。なんだか頭を使って会話したくない気分だ。
「卜部はさ。雨の日って好き?」
「え? 別に」
「じゃあ今みたいな感じは?」
「今みたいな、というのは?」
「こんな風に気を許してる相手と一緒にさ。することもなくだらだら過ごす日、みたいな」
卜部からの返答はない。テキトーに用意した話題ではあるけど、一応会話のラリーを前提にしてはいるので無視されるのはちょっとムカつく。スマホを持った姿勢はそのままに、チラッと卜部の方を確認する。
目が合った。慌てて目を逸らす。……ん? なんでいま、慌てて目を逸らしたんだ俺。逸らす必要ないだろ別に。
「嫌いでは、ないかな」
「は?」
「お前の質問への回答だよ。こういう時間は別に嫌いじゃない」
「……そっか」
やけにもごついた口調で喋る卜部に引っ張られてこっちも唇の動きが少し遅れてもごついた言い方になった。なんだこれ、なんか気まずい。
「瑠璃川は?」
「ん、なに」
「そっちはどうなん。こういう時間、好きなん? 嫌いなん?」
「雨の日は大嫌い」
「大嫌いまで行くんだ。まあ濡れるの鬱陶しいもんな」
「それもあるけど、諸々あって嫌い」
「へぇ」
そこで一回言葉を止める。相手の反応を伺う為だ。
逸らしていた目を出来るだけ泳がないよう意識しつつ、そっとまた卜部の方に視線を戻す。卜部は会話に区切りがついたと思ったのか、再び漫画に目を落としていた。
こっちへの意識が外れた、そのおかげで小さく感じていた緊張のようなものが和らいだので、俺もスマホに目線を戻しながらも出そうとした言葉をそのまま口にする。
「でも、卜部とこんな風にダラダラするのは好き」
「……っ、へい?」
「何その江戸っ子みたいな疑問符」
「素が出てしまった申し訳ない。で、今なんて言った?」
「卜部とごろごろ出来るのは嫌いじゃない」
嫌いじゃないと言い換えた。言った後に思った事だけど、たとえ相手が卜部といえ男相手に"好き"って単語を使うのは妙な気分になるから。
……なんだそれ。自分の思考にツッコミを入れたくなる。男相手にって、卜部と一緒に居る時の内面ですら自然に女っぽさに寄らせるようになったんだな、俺。肉体に引っ張られすぎてるなー。そのうち頭ん中の一人称も私になっちゃいそうな勢いじゃん。
「まあ、雨の日は嫌いだけど。今日なんかは雨さえ降らなければ卜部んちに行くこともなかったわけだし? そこに関して言えばたまには雨も役に立つと思わなくもない」
「へい」
また返しが江戸っ子口調。声も覇気がないし雑になってるな〜。
卜部の方を見る。ソファに体を沈ませて漫画を読んでいるのは相変わらずだが、さっきよりも深く沈みこんでいて全体的に脱力しているのが分かる。瞼が重たげだ、眠いのかな?
視線を斜め上に動かしたら卜部が小学生の頃から使っている勉強机の上にワックスとかジェルとかが何種類か乱雑に置かれてるのが見えた。最近髪型を整え始めたって感じがありありと伝わってくる。卜部もちゃんと思春期男子やってるんだなぁ。
「ねー卜部」
「はーい」
「部屋ん中物色していい?」
「なんで」
「一度も自由に物色させてくれたことないじゃん?」
「おー。お前もよく飽きずに毎回聞いてくるよな」
「女になっちまったいま、同い年の男の部屋にどんな宝が眠ってるのか気になって仕方なくて」
「珍しいもの置いてないけど」
「そうなんだ? 物色していい?」
「駄目」
「なんで?」
「なんでも」
「ちっ。眠そうにしてるからチャンスだと思ったのに」
「こう見えて耳が良いからな俺。仮にここで寝落ちしたとしても、動けばすぐに分かるからな」
「人が遊びに来てんのに寝るかね普通」
「事前連絡もなく来たのにお客様対応を求めんのか」
「そんな対応してくれたことあったっけな」
「飲み物出したりお菓子分けたりしてるだろ」
「私だってお前のゲームに付き合ってやってる。他に相手してくれる友達居ないんだろ?」
「クリティカル。ウィークポイントにギガインパクト。きあいのタスキ持っててよかった」
「今ので瀕死寸前まで追い詰められるのかよ。HP低すぎだろ」
「陰キャはメンタルが繊細なの」
「自分で自分のこと陰キャって呼ぶのやめた方がいいよとだけ言っとこうかな。よいしょ」
眠そうにしている卜部と話していたらこっちまで眠気を誘われたので、立ち上がって背筋をググッと伸ばす。
「ん〜……っ。ふう」
「急にエロい声出さないでくれるか」
「出してねえよ」
「審議だろ」
「女がちょっと変な声を出したらすぐエロセンサーに引っかかるのか? 童貞かよ」
「童貞だよ。うるせえよ。わざと吐息混じりに喋ってんのか?」
「わざとじゃね〜し。眠たくなると一気にキモキャラになるのなお前」
伸ばしついでに少し歩きたくなったので、ぐでーんと伸ばされた卜部の足を跨いで普段はあまり目を通さない棚の前に立つ。
「おい。変な所見るなよ」
「なんだよ変な所って。遮るものが何もない棚に仮に変なものがあったらそれはお前の問題だろ。隠してないじゃん」
「女ってちょっと官能的なタイトルとか表紙を見たらすぐにエロッて決めつけるだろ」
「なあ。ある程度は仕方ないとはいえ私の事を過剰に女扱いするのやめてくれない? あんまり女女って言われすぎるとまだちょっと抵抗あるしムカつくから」
「早く慣れると良いね」
「良くねぇ〜よ」
他人事だと思って軽く言ってくれるわ。まあ、過剰に病人扱いされたり気を使われたりする方が嫌な気分になるからそれと比べれば全然マシだけどさ。
ほんでなにこれ? タイトルがない小説っぽい本があるなって思って手に取ったら表紙が思いっきり皿に乗った全裸女性なんだけど。これはエロ本に区分されるものじゃないの? 少年漫画と少年漫画の間に挟まってて良い書籍ではないよね絶対。めっちゃ気になるから読んでみようこれ。
ドカッとベッドに座り込む。卜部の正面だ。足先が卜部の膝に当たった。そのまま「とりゃっ」と言って両足の指先で卜部の片膝を挟み込んでやるも、無反応。そんなに眠たいのか。
「ふーんむ……」
読書を初めて何分くらい経ったんだろう。本の内容はよく分からない、死体かマネキンの写真集だった。眺めるだけで得られる情報なんて何もない、お洒落なのか芸術なのかも分からない悪趣味な写真を数十枚見るだけの無駄な時間。
「卜部ってこういうのも好きなんだね」
返事はない。足先で突っついてみても反応しない。
「ねえ卜部。この写真集、続刊とかないの?」
言いながら本を閉じて卜部を見る。卜部は開いた漫画を顔に置いてゆっくり腹を膨らませたり萎ませたりしている。
顔に乗っている漫画を取り除く。卜部は目を閉じ安らかに寝息を立てていた。
静かな時間が過ぎる。窓の外から入る雨の音と、控えめな卜部の寝息。時折風が窓を揺らす音と卜部の首にかかったヘッドホンから僅かに漏れる音楽。
卜部の両親や妹ちゃんはいつ頃家に帰ってくるのだろう。鍵を開けるのを面倒くさがってチャイムを鳴らすタイプだとしたら、俺が玄関を開けないとだよな。
卜部のお母さんとは面識があるけど、お父さんと妹ちゃんとは女になってから会話したことがない。もし遭遇したら驚かれるよな……。
「おーーい。卜部ー」
控えめに声を出す。卜部は目を覚まさない。耳が良いとはなんだったのか、全くの無反応だ。
ベッドから降りて、卜部のすぐ前でしゃがみ込む。
「本当に寝ちゃったのー?」
顔を覗き込みながらもう一度呼びかけてみる。
そういえば制服を着てる時に今と同じような姿勢で話しかけた時、近いって言われたことあったな。もう少し距離感を大事にしろって。何度も何度も同じことを言ってきた。気にする必要なんかないのに。
「卜部ー」
頬を指でつついてみる。頬を指で挟んで唇をタコのようにしてやる。
全然起きる気配がない。あっさり寝落ちした割に熟睡だ。
こんなに近くで卜部の顔を見つめたのは初めてだ。一瞬これくらい顔が近付くことはよくあるけどいつもすぐ逃げられるし。
触れた頬が暖かい。それに、卜部の匂いがする。
「……」
瞼にかかった前髪を指で退かす。昔よりも丸みが減って、男の人っぽい顔になった卜部。でも寝ている顔は昔のまま、子供っぽくて少し可愛くも見える。
……もしかしたら、男の人は共通して寝顔が少し可愛いのかもしれない。普段普通にしている表情が少し怖いから、完全に眠りに落ちて警戒が解けるとその大きな差で補正がかって子供っぽく見えるのかも。
「……」
顔に触れていた指を下に移動させる。爪の先が卜部の顎から胸、腹の上を布越しに移動し、スボンに来た辺りで止まった。
「……っ」
人差し指で、軽く、本当に軽く膨らみをつついた。姿勢で持ち上がっただけのただの布、一切の抵抗を感じない部分だった。
何をやっているんだろう俺。手を引っ込めて溜め息を吐く。
「どっちが無防備だよ。お前も大概だろ」
時計を見るともうここに来て二時間が経っていた。雷はもう鳴っていない。そろそろ帰らないと流石にお父さんに迷惑をかけてしまう。
俺の私服と下着が洗濯機に突っ込まれていること、妹ちゃんのジャージを借りてしまっていることは卜部が上手く説明してくれるだろう。音を立てないように立ち上がり、コンビニの袋を持つ前にもう一度卜部を見る。
「風邪引かないでね。卜部」
借りていたブランケットを卜部にかけて部屋を出る。
家を出ると既に雨が上がっていることに気付いた。傘を借りていいか聞く為だけに卜部を起こすのは忍びないし、ずぶ濡れになりながら帰る羽目にならなくてよかった。




