15話『息子に向けた初めての笑顔』
濡れた髪が、根元から引きちぎられそうなくらい強い力で引っ張られる。
浴室のタイルと脱衣場を隔てる段差に足をぶつけ、廊下を滑るように引き摺られて裸のまま台所に投げ飛ばされる。
水滴が床に落ちてぽたぽたと音を立てる。
鼻が熱い。髪を掴まれた時に鏡に顔を強打したからか鼻血が出ている。
「……困らせないでって、言ったよね」
息が詰まる。母親が言いたいこと、自分のしでかしてしまったこと。それらを一瞬で理解した頭が心臓を強く握りしめてくる。
キッチンにあるちいさな電球の光に照らされた母親の目は、底のない黒い穴のようだった。
敵意とか、憎しみとか、そういうのすらない温度のない瞳が俺を無感情に見下ろしている。
「どうして困らせるの」
母親の声は、平坦だった。
怖くて声が出せない。ただ震えることしか出来ない。喉が凍りついてるみたいに。
「なんでいつも余計なことしかしないの」
キッチンの戸を開きながら母親が言う。戸の裏側に設置されたホルダーに入った包丁に目が行く。
「ご、ごめんなさい……っ」
小さな声で謝る。でも母親は反応しない。
部屋の空気が、重くて、粘つく。
息をするのも怖い。怖いのに、声帯にまで震えが感染したのか俺の口から小さな怯えの声が漏れる。
「どうしていつも私の邪魔をするの」
「ん、ぐっ、ごめ、なさっ」
「私の事、好きじゃないの?」
「ぅ、すっ、好き、ぅき、だよ……っ」
「嘘」
母親の声が歪んで聴こえた。
頰と耳に痛みが走る。母親が力任せに俺の横顔を手のひらで叩いてきた。
驚きで固まっていたら今度は拳が飛んでくる。頭を庇ったら二の腕に鈍い衝撃を受けた。
腹、背中、腕、腕を掴まれた後に顔。
色んな所を殴りつけられて痛みが波のように上半身に広がっていく。馬乗りになった母親は無感情のままただひたすら俺に拳を下ろし続ける。
丸まって耐えることもできない。腹の上に乗っかられてるから蹴ろうとしても上手くいかない。腕を握られてるから抵抗することもできない。ノーガードのまま殴られ続ける。
俺にできる事は、ただ足をバタバタと動かして気味の悪い唸り声を上げる事だけだった。
「お父さんと一緒に暮らせるって言ったでしょ。あの話、なくなっちゃったんだよ? どうしてだと思う? ねえ、理仁。りーーーひーーーと」
聴くだけで全身が強ばって鳥肌が止まらなくなる声を母親が発する。自分そっくりな可愛いお人形さんである『理子』ではなく、愛情なんて微塵も抱けない邪魔者である『理仁』に対して、母親は声を荒らげながら質問を繰り返してくる。
「分からないわけないよねぇ。別の男とセックスしてお前が生まれたせいでお父さんは私の事嫌いになったんだもん。じゃあそういう話がなくなるのってさ、また私が知らない男と子供作ったとか、そういう意味の分からない誤解をされたからに決まってるよね。そんな話が出てくるまでは話進んでたんだもん。なんで誤解されるんだろー。なんで勘違いされちゃったんだろーーー。ねーーーえ。りーーーひーーーーとーーーー」
「いだいっ、痛いいぃぃっ!!」
耳を乱暴に掴まれ頭を持ち上げられる。耳の下の方、根元からバリッみたいな嫌な音が聴こえて耳が熱くなる。
「勝手に理仁じゃない別の女の子としてお父さんとお話してたんだよねーー? なんでー? なんでそんな事してたのー? なんで一言もお母さんに教えてくれなかったのかなーーーー??? おかげでお母さん、二人も子供を産んだことにされちゃったねーーー。誰と誰ー? 理仁と理子ー? 同じだよねぇ、病気で女になっただけだもんねーーー。えー? 病気というか疫病神かなーーーー??? お前のせいでいっっっっもこんな事ばかりだねーーーお母さんねーーーー。お前が生まれてきたせいでねーー!!!」
耳に爪を食い込ませながら母親が憎しみに満ちた顔で俺に叫び声をぶつけてくる。
俺のせい。
俺が生まれてきたから悪い。
全部、俺が悪い。
そんな考えが頭の中でループし始めた。
確かに俺さえいなければ、母親はアイドルを辞めずに父親とも仲良いまま付き合い続けられていた。
俺が最初から可愛い女の子だったなら、母親は俺を気味悪がる事も暴力を振ってくることも無かったし、それを見た父親に叩かれたり暴言を吐かれることも無かった。
俺が母親の望む通りに出来る良い子だったのなら、父親とも母親とも仲良くできた。二人の関係だって、最初は悪くても仲直りすることだって出来たはずだ。
全部、俺のせい。
自分さえ痛かったり悲しかったりしなければいい。そんな間違った考え方で自分の心を守ろうとしたせいで、父親から『冷たい子』って言われた。父親が母親と離れるという決断を取ってしまった理由、その根本はきっとそれが原因だった。
産んでくれた相手に対して遠回しに好きじゃないなんて言わなければ。そういう方法で自己主張さえしなければ、母親との関係ももしかしたら良くなる可能性はあったかもしれない。好きじゃないってハッキリ伝えてしまったから、母親は今日まで『理仁』を愛すことが出来なかった。
父親が居なくなったのも、母親が不幸になったのも、全部俺のせい。
俺が存在してるから。
母親は俺の考えている事を肯定するように、何度も何度も似たような言葉を繰り返す。
「お前のせい」「お前が邪魔した」「お前さえいなければ」「産まなきゃよかった」「なんで生きてるの」「お前が生きてるだけで全部台無し」
言葉と同時に拳や平手が飛んでくる。
痛みよりも言葉の方がずっと深く心臓を抉った。何度も何度も、錆びた刃物で肉を刻むように、母親の悪意が俺の心をすり減らしていく。
数十分が経った頃、急に母親からの暴力が止んだ。
金属が擦れ合うような声が止まると、部屋が驚くくらい静かになる。
震えながら顔を上げる。母親は何もかも諦めたような顔で、ぐったりと肩を落としながら俺を見ていた。
「もういい。疲れた」
母親がぼそりと呟く。
俺の首に母親の右手が絡みつく。
ぎゅうっと力が入り、息が出来なくなる。
「おっ、か……っ」
自分が何をされかけてるのかに気付き慌てて首を絞める手を両手で掴む。そこで気付く、なんで両手を動かせる?
瞬きが多くなって、瞼が開けづらくて狭まる視界の端で、母親が左手に包丁を持っているのが見えた。
「私ね、本当は理仁の事だって好きだったんだよ。だってさ、『すきになれますように』って、好きじゃないって言われてさ、あんなに傷付いたんだもん。好きでもなきゃさ、そんな事言われたってどうも思わないでしょ」
「や゛め、て……っ」
「でももう、疲れちゃった。理仁、まだ私の事嫌いでしょ? 私は理仁が好き。だからしんどくてさ。……お前のせいで全部めちゃくちゃだけど、幸せなんて全部なくなっちゃったけど。それでもお母さんなんだもん。好きは好きだよ。うん、好き。好き好き好きすきすき」
包丁の先を目の前に向けられる。
怖い。
死ぬ。
殺される。
涙が溢れた。
声にならない嗚咽が漏れる。もう我慢出来なかった。
「不細工な顔。泣かないでって言ったでしょ。猿みたいな顔、しないでって」
優しいくらいに静かな声で母親が言う。それが余計に怖かった。
怖すぎて頭の中が真っ白になった。
俺はそこで、自分の物とは思えない奇妙で耳障りな叫び声を上げて、パニックになって暴れ出した。
首を絞めてくる手の甲に噛み付いて、包丁を持つ手を振り払って、思いっきり腰を捻ったり足を今まで以上にばたつかせて母親を振り落とした。
めちゃくちゃな走り方で母親から離れる。壁に体をぶつけても足を止めなかった。
「そう。理仁も私を捨てるんだ」
裸足のまま、裸のまま、玄関に向かって全力で走る。
「バイバイ、理仁」
ドアを開ける。
外の冷たい夜気が肌に刺さる。でも止まらない。がむしゃらに走る。
街灯がある方に行くと母親に追いつかれてしまうかもしれない。だから街頭のない茂みの方に飛び込んで、暗くて何も見えない道を全力で走る。
「うああぁぁぁっ!!! や゛あああぁぁぁぁっ!!!!」
喉が張り裂けそうになるくらい叫びながら、涙の出しすぎで目が痛くなりながら走っていたら突然足が地面に沈みこんだ。
どこかの畑に足がもつれてそのまま勢いよく転ぶ。
全身がヒリヒリと痛む。土と泥が体にべっとりと張り付き、気持ち悪さに包まれる。
痛い。冷たい。汚い。……怖い。
もっと遠くへ逃げたかったのに、足が震えてちゃんと立ち上がれず動けなくなる。
そのまま頭を抱えて泣き喚く。
何時間も、何時間も。
声が枯れるまで、泣いた。
「……っ」
どれくらい泣いていたんだろう。辺りがうっすらと明るくなってきていた。
朝が来る前のぼんやりとした空。どこからか犬の鳴き声がする。
「……や、やばい」
ランニングしている人の息遣いが聴こえてきて、自分が裸のまま外に出てしまったことを思い出す。
身体が女の小学五年生が裸で外に居るのはまずい。絶対に変な騒ぎになるし、そうなったら母親は余計に……。
……母親がああいう風になったのは今回が初めてじゃない。幼い頃にも何度も同じような経験をしてきた。
包丁を持ち出し脅してきたのも初めてじゃない。結局、なんだかんだで最後は父親に止められるか勝手に泣き崩れるかして刺されずに終わる。
今回も、きっとそうだ。そうじゃないと困る。全身裸、シャワーを浴びていた時の状態のまま外に出たんだもん。どこかに避難するって言ったって行き場所がない。
……居場所。居場所に関しては、最初からどこにもないか。
何故か急に暗い事を考えてしまった。そんな事は今どうでもいい、早く家に帰らなきゃ。
母親がまだ怒っていたとしても、服だけ取ってそのままどこかに逃げてしまえばいい。裸の姿を誰かに見られる方が多分色々とまずい。それこそ取り返しがつかないことになってしまう。
よろよろと立ち上がり、周りに人がいないことを一々立ち止まって確認しながら走って家に戻る。
音を立てないようにそっと玄関を開けて、中を覗き見る。家の中は静かだ。あんな事をした後だったから疲れて寝ちゃったのかな。
……。
家に、入れない。玄関に入ろうとした足の爪先がビタっと止まり、足が震える。早く入らないと誰かに今の姿を見られてしまうかもなのに、体が言うことを全く聞いてくれない。
何度か静かに息を吸って吐いてして、心臓の音が静かになるのを待ってから足先から玄関に入る。
なんとか家に入れたので、そのまま音を立てずに着れるものだけ取って逃げようと部屋をそっと覗く。
変な影があった。
微動だにしない、太い棒のような影。
部屋のカーテンが閉じられていて、ついてる明かりもキッチンのミニ電球しかないからそれが何の影なのかよく分からない。
「……?」
まあ、いいや。とりあえず母親の声や息遣いは聴こえないし、今の内に服だけ回収しよう。そう思い部屋に入った時、影ではなく影の元になっていた物がドアの死角から現れた。
母親が居た。
「…………えっ?」
母親が、ジッと俺を見下ろしている。少しも身動ぎせずに、表情すら変えずに、ただ無言で、瞬きをすることもなく。
「……お母さん……?」
いつもより穏やかな表情をしてるからつい声を掛けてしまった。でもやっぱり母親は何も反応を示さず、ただ色のない瞳でジーッと俺の事を見つめ続けていた。
母親はもう包丁を持っていない。さっきまで握っていた包丁はダイニングテーブルの上に置かれていた。
「え、えっと……お母さん」
返事はない。さっきからずっと、同じ姿勢のままだ。
「……俺が、悪かったから。変な冗談やめて」
反応もない。何を言っても母親は微動だにしない。
不安になって母親の手を握ろうとする。そしたら、何故か母親の全身が力をかけた方向に揺れ動いた。まるで体重がないかのように。
「……お母さん……?」
ちゃんと母親の顔を見上げる。
微笑を浮かべる母親の首に、変なロープが巻き付けられていた。
大きな音を立てながらへたりこむ。
俺の肩に母親の爪先が当たって、母親の体が振り子のように大きく揺れた。
「ぁ、あ、や、だ、なんで、やめて」
母親の顔が、俺の事を凝視しながら暗闇の中でゆらゆらと揺れている。
「お、かあ、さん」
皮膚の中を毛虫が這うような気持ち悪さが全身を包む。
「おかあさん。おかあさん」
何もされてないのに首を絞められているかのように息がしづらくなる。
「お母さん! おがぁざっ」
腹の中にマグマでもあるかのような感覚に襲われて胃の中身が全部口から出てきた。
鉛筆で脳みその中を塗り潰すような、ドブ水に脳みそを浸しているかのような最悪な感情に支配される。
俺のせいで。
俺のせいで、親を不幸にした。
俺がいるせいで、親を死なせてしまった。
俺さえいなければ。
俺が、全部悪い。
俺が、生きてるから。
「ごめんなさい」
唇が勝手に動いた。
お母さんの顔なんてもう見たくないのに、手で目を覆おうとしても指を閉じれない。指の隙間からお母さんの顔を見てしまう。目を瞑ることさえできない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!」
何度も叫ぶ。もう何も言わないお母さんに向かって謝り続ける。何度も、何度も。
既に体は乾いてるはずなのに股と裏ももが暖かく湿っている。トイレで聴くようになった細い水音が鼓膜を震わせている。でも口が止まらない。その場から動けない。お母さんから目を離すことが出来ない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
喉が枯れても、口の中が乾燥でパサパサになっても、お腹が空いても、同じ言葉が永遠に部屋の中に響き続ける。




