Case15.パラノイア
緑の液体の中に浮かぶそれは、大脳辺縁系の一部、海馬体。
記憶能力や空間把握能力に関わる器官で、その形状はタツノオトシゴや胎児に似る。
人間のものは、ここ数百年で委縮してしまった。
海馬に貼りついている生白いガーゼ状の正方形がエビングハウス回路だ。
「その海馬体というか、エビングハウス回路がまだ生きてるんだわ」
ノマドがチョールヌイのほかにも誰かが居ると思ったのはそのせいらしい。
「やはりそうですか。兄の知り合いを頼ろうかと思っていたのですがね」
チョールヌイはカプセルを覗きこんで「こんにちは兄さん」とあいさつした。
「念のためお訊ねしておきますが、これを置いたのはあなたたちではない?」
アタッシュケースは講演会場から逃げおおせたのちに、書斎として借り上げている別荘の入り口で発見したという。
「回路がまだ生きているということは、“そういう取り出されかた”をしたということだ。タイミング的にもあなたが関連付けて、敵だと疑うには足るとは思うが……」
もちろん、ぼくらの仕業ではない。
『あの回路を解析してみたい。こちら側の内情にも関係するかも』
ノマドからのささやき。
『ぼくもそう思う。プロテクトの解除のほうは?』
『まだよ。カプセルのほうも仕掛けがあるみたいで、遠隔じゃ無理ね』
ノマドはカプセルを興味深そうに見つめている。
それを見たチョールヌイは「瞳は人間ですね。我が兄に少し似ている」と言った。
『似てるなんて言われた。もうヤダ。旅に出たくなったわ』
ビエールイも「旅に出たい」と言い残して消えたのだが……ノーコメントだ。
「ちょっと待てよ。これがあなたの兄のものだという物的な証拠は?」
「ありません。フィーリングです。でも、怪力男を信じるのも同じことでしょう?」
ノマドは肉体を脱いだ姿を見られたかもしれないが、ぼくは正義超人や筋肉星人という解釈もできなくはない。さすがに腕を切って中身を見せてやるわけにもいかないし。
「スプライサー、交換条件といきませんか」。来ると思った。
「あなたの記憶を繋ぎ直そう。古くなった分は約束できないが」
「そこはナマの脳の時代でも忘れてましたからね」
チョールヌイは兄の海馬を抱いて身震いし、「本当のわたくしに近づく。創作にもよい影響があるでしょう。ああ、楽しみだ!」と恍惚の表情を見せた。
『今回はわたしが潜って、あなたがナビでいい?』
『調子が悪いんじゃないのか? それにぼくだと処理能力が劣る』
『メインの処理はわたしがするから。ね、お願い。サポートして』
ノマドのささやきもどこか弾んでいる。
彼女が「ついうっかり」チョールヌイに何かしでかそうとしたときのことを考えれば、むしろ切断権のあるナビのほうがいい。
「その前にひとつ。あなたの回路に掛かっているプロテクトを解除してちょうだい」
ノマドがそう言うと、ひげづらの男は首をかしげた。
「解除できませんか? 簡単なキーワードを入れるだけのはずなのですが。われわれ人間側の技術も捨てたものじゃないということでしょうかね?」
ノマドはくちびるを堅く結んだ。
じっさい、チョールヌイのエビングハウス回路に掛けられたプロテクトは軍用や警察用以下で、ビエールイの勤め先の研究所員に違法にやらせたものだった。
彼の言う通り、たったひとことの呪文を送信するだけ。
……「ファンタジーは終わらない」。
ノマドの演算能力なら、総当たりをしてもコンマかなたの一秒で解けるものだ。
彼女が鏡の国を嫌いになったエピソードを思い出したが、またもノーコメントとしておいた。
話がまとまり、そうそうにぼくらは繋がった。
チョールヌイの記憶の世界へ。
最初のステージは古めかしい街並み。
二千年代に入っても維持され、五千年代でも復刻されたそれは、ロンドン。
「映画の中みたいね」
チョールヌイのロンドンは白黒だ。それに音もない。
動画黎明期に作られた無声映画に酷似している。
周囲を見回すノマドだけは色づいているらしかったが、いつもの黒ドレスと白いタイツは世界に溶けこみ、灰薔薇色の髪と桜のくちびるだけがささやかに主張していた。
さて、今回のスプライスは簡単、それでいて時間が掛かるものだ。
特定の記憶の捜索やトラウマの削除などであれば、何かを探したり謎解きゲームに興じる必要がある。
だが、チョールヌイが望んだのはとにかく忘れていた負の記憶を思い出すことだけだ。深部まで適当に散策してデータ化し再視聴できるようにする。これだけで充分だろう。
「チョールヌイの癖に、こじゃれた世界でムカつくわ」
ノマドの前を顔の無い英国紳士が横切った。
『作家兼再筆家なんだから掘り出し物の作品を履修してるんだろう』
「正論で返さないで」
ノマドは「こちら」を見て、ちょっと頬を膨らませた。彼女らしくないアクション。様子がヘンなのは承知しているが、普段と立場が逆転しているのは、なんだかおもしろい。
古びたフィルムの中を最新鋭の女が闊歩する。
傘を持った貴婦人、馬車、排ガス自動車、なぜかサムライや騎士、まっくろ三角帽子の魔女ともすれ違う。
ショーウィンドウの中にはマネキン……ではなく、ふたりの人間の一幕。
少女にビンタを張られるチョールヌイに似た少年。ふたりとも学生服だ。
『忘れたままのほうがよさそうだけどな』
「忘れると繰り返すでしょう? これで彼は少し礼儀正しくなった」
ノマドはウィンドウを一瞥し、続いて通りの反対の建物の両開きの扉に注目した。
扉は開け放たれており、屋内であるはずのその向こうには、フルカラーの海岸が手招きしている。
「次のシーンだわ」
海岸では裸足のティーンエイジャーの女子がふたり、水を掛けあって遊んでいた。
それから唐突に太陽が水平線まで移動し、世界は黄昏へ。
ふたりの娘は手を繋いで太陽に向かって「バカヤローッ!」と叫んでいる。
唐突、場面転換。
どこかのエキゾチックな宮殿の中庭。
白亜の壁に白亜の噴水。芝生と美しい花壇。黄金のゾウの像も飾られている。
すべてが暖かな日差しに包まれ、きらきらと輝いていた。
そこにターバンを巻いた白タキシードの男がやってきて、ノマドの前にひざまずき、手を差しだした。すると、どこからともなく踊り子衣装の美女たちが現れて、ふたりの周りで踊りだす。
これも映画のワンシーンかと思っていたら、成人女性だった踊り子たちが縮み始め、ドレスを着た幼く可愛らしいお姫様へと変身してしまった。
お姫様たちはスカートのすそを持ち上げ中へ手をつっこむと、黒い球体を取り出した。その球体には線がついており、その先では火花が散っている。
ステレオなバクダンが一斉に投げ上げられ、それは豆粒となって、お姫様たちの口の中へと飛びこんで消えた。
ぼん! 爆発音とともに耳や鼻から黒い煙が噴出し、お姫様は頭部を巨大化させて、ふわふわと宙へ舞い上がり始める。
ひざまずいていた男性もロケットにモーフィングし、上空高くまであがって「芸術は、爆発だ!」の絶叫とともに花火となった。
「……わけが分からないんだけど。あなたなら理解できる?」
ノマドはうんざりという表情だ。
『ぼくも分からない』
「安心したわ。こいつ、パラノイアなの?」
『削除済み扱いの領域だ。上書きと断片化を繰り返したんだろう』
無秩序に繋ぎ合わされたそれは、ぼくらにとっては無意味だが、チョールヌイの記憶を呼び戻すためのラベルとしては役立つかもしれない。
ある程度は上書きをされてしまっていても、ほかの記憶や事実との関連で推測してスプライスは達成される。
『こんなことを繰り返すわけだが、代わるか?』
「頑張るわ。やり遂げたら褒めてね」
ぼくが約束すると、ノマドは宮殿の内部へと入っていった。
「あら、またロンドン?」
白黒の世界。戻ってしまったらしい。だが、彼女はすぐにほかの入り口を見つけたらしく、ローファーの先を時計台のほうに向けた。
……と、そこに大きな「音」が飛びこんできた。
「ぽっぽーーーーっ!」
訂正しよう。「音」というより「声」だ。
フィルムロールの彼方から、誰かの奇声がやってくる。
「街が……!」
ノマドの振り向く先、ロンドンの街並みの向こうで土煙があがった。エキストラたちが宙へ跳ね上げられ、セットもこなごなになって吹き飛ばされている。
破壊とともにやってきたのは、蒸気機関車だ。
しかし、その円状の先頭部分には、なぜかひげづらの男の顔面があった。
違和感。ぼくはリアルの視覚センサーでチョールヌイを確認する。
彼は睡眠薬で眠っている。朝までぐっすりのはずだ。
機関車チョールヌイは、ノマドへまっすぐと爆走している。
「ぽっぽーっ! ぽっぽっぽーっ! 繋ぐ者たちよ、わたくしの世界にいらっしゃーい!」
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