第1話 あやしい男
その日は、いつもより帰りが遅くなってしまいました。
すっかり日が暮れ、周囲は街灯の明かりだけが頼りの暗闇に包まれています。人通りも少なく、車の走る音が遠くから聞こえてくるばかりでした。
そんな帰り道、SPは道の真ん中に倒れている人影を見つけました。
「だ、大丈夫ですか……?」
慌てて駆け寄り、声をかけます。しかし、返事はありません。肩を揺すってみても、目を覚ます気配はなく、周囲を見回してみますが、助けを求められそうな人の姿はありません。
(どうしよう。救急車……? それとも、誰か大人のひと……)
そのとき、遠くからエンジン音が近づいてきました。一台のトラックがこちらへ向かって走ってきます。
しかし、倒れている人物は道路の真ん中にいます。このままでは、トラックに気づいてもらえないかもしれません。
「えっ、ま、待って……!」
なんとかして彼を道路の端まで移動させなければなりません。けれど、相手は自分よりも大きな人です。非力な自分ではとても運べそうにありません。
それでも、ここで見捨てるわけにはいきませんでした。
迷っている暇はありませんでした。
SPは震える手を突き出して、精神を集中させました。
やがて、SPのすぐそばをトラックが通り過ぎていきました。重いエンジン音が夜道に響き、巻き起こされた風にSPのブレザーが大きく靡きます。
間一髪でした。
トラックの後ろ姿が遠ざかっていくのを見届けてから、SPはその場にへたり込みました。激しく乱れた呼吸を整えようと、何度も息を吸っては吐きます。心臓がうるさいほどに鳴っていました。
SPは顔を上げ、すぐそばに横たわる人物へと視線を戻しました。
「はぁっ、はぁっ……。あ、あの……っ」
もう一度、声をかけようとした、そのときでした。
「っ……!」
突然、頭の奥に鋭い痛みが襲いました。あまりの痛みに、SPは思わず頭を押さえます。何が起きたのか理解する間もなく、喉の奥から激しい咳が込み上げてきました。
「ごほっ、ごほっ……!」
胸が苦しくなり、息を吸おうとしても、うまく吸い込めません。
ようやく咳が治まり、手のひらを見下ろすと、そこにわずかに付着した赤いものに気づきました。
「……え?」
呆然とした声が、夜の静けさに落ちます。口の中が切れてしまったのか、鉄っぽい嫌な味を感じていました。
「よこせ……」
かすれた声が、すぐそばから聞こえました。
SPはハッとして顔を上げます。先ほどまで地面に倒れていた人物が、いつの間にか上半身を起こしていました。背後には、夜空に浮かぶ満月がありました。
月明かりに照らされた彼の姿は、先ほどまでの弱々しさとは別人のように見えます。青白い光がその輪郭を縁取り、伏せられていた顔がゆっくりと持ち上がるにつれて、影の中から浮かび上がっていきました。
彼の赤い瞳は、月の光を受けて不思議な色に揺らめいています。ふらつき、今にも崩れ落ちそうな姿でありながら、その佇まいには人ならざる妖しさがありました。
SPは一瞬、息をするのも忘れてしまいます。
我に返ったSPは、慌てて倒れそうになる身体を支えます。自分の頭痛も気になりましたが、目の前の人物を放っておくわけにはいきませんでした。
彼はSPの肩に手をかけ、ゆっくりと顔を上げました。満月を背負ったその顔が、すぐ目の前に迫ります。そして彼は、SPの顔をじっと見つめました。
「……?」
何かを確かめるような、ひどく真剣な眼差しでした。その瞳の奥には、月明かりだけでは説明できない光が宿っているように見えます。
SPが戸惑っていると、彼は突然、身を乗り出しました。
「えっ――」
言葉を発する間もありませんでした。
彼の唇が、SPの唇に重なりました。
「…………っ!?」
あまりにも突然の出来事に、SPは目を見開いたまま固まりました。
つい先ほどまで、道の真ん中で倒れていた人です。どうして急にこんなことをされたのか、まったく理解が追いつきません。
ただ、満月を背にした彼の姿だけが、いつまでも脳裏に焼きついていました。
再び我に返ったSPは、彼の身体を思い切り突き飛ばしました。
「~~~~っ!!」
反射的に両手で顔を覆います。頬がひどく熱を帯びていて、自分がどれほど赤面しているか、鏡を見るまでもありませんでした。
一方、突き飛ばされた彼はというと、何事もなかったかのように立ち上がっていました。
乱れた洋服を軽く整え、襟元を直します。まるで、つい先ほどまで地面に倒れていたことも、目の前の女子高生に突然キスをしたことも、何ひとつ気にしていないようです。
やがて彼は、舌なめずりをひとつ。それから喉を鳴らし、SPへと声をかけました。
「そこのお前」
「えっ、あっ……は、はい……」
声が裏返りました。
慌てて口を閉じますが、今度は唇に意識が向いてしまい、先ほどの感触がよみがえります。彼の顔をまともに見ることもできず、視線が足元と彼の胸元のあいだを忙しなく行き来します。
そんなSPの様子など気にも留めず、彼は平然と言いました。
「助かったぞ、礼を言う」
「は、はあ……」
確かに、自分はこの人をトラックから助けました。そこはいいのです。助けた相手からお礼を言われるのも、当然のことです。でも。
(なにこのひと……)
頭の中で言葉を並べようとしても、思考がまとまりません。何か言わなければと思うのに、喉はからからで、舌がうまく回らないのです。
SPは赤くなった顔を隠したまま、ぎゅっと唇を結びました。
目の前の彼は、ひどく落ち着き払っている様子。一人で何やら考え込むように視線を落としていました。
「しかし、俺としたことが迂闊だったな……」
ぶつぶつと独り言を呟いています。
「いや、それよりも、だ」
彼はゆっくりと顔を上げました。先ほどまでの気だるげな様子は消えています。夜の闇を映したような瞳に、鋭い光が宿っていました。
彼はSPの方へ向き直ると、逃げ道を塞ぐように一歩近づきます。街灯の明かりが彼の横顔を照らし、白い肌と赤い瞳を浮かび上がらせました。そして、再び顔を近づけてきます。
「お前は何者だ?」
「ひゃっ……!」
SPは思わず肩を跳ねさせました。反射的に顔を背け、視線を逸らします。せっかく冷えかけていた頬が、また一気に熱くなりました。
「ど、どういう、こと……?」
「とぼけるな。お前は只者じゃない」
「えっ……?」
SPは言葉に詰まりました。何か答えなければと思うものの、何をどう説明すればいいのか見当もつきません。口をパクパクさせ、困り果てたように彼を見上げます。
そんなSPをしばらく見つめていた彼は、やがてあっさりと話題を変えました。
「まあいい。名前は何という?」
「え……SP……です……」
思わず、聞かれたことにそのまま答えてしまいました。
彼は、SPの名を聞くと、わずかに目を細めました。
次の瞬間、彼は背筋を伸ばしました。
夜風が吹き抜け、彼の外套の裾を揺らします。遠くの街灯が一つ、また一つと明滅し、暗闇の中に立つ彼の姿を際立たせていました。
彼は片手を胸元に添え、まるで古い誓いを口にするかのように、ゆっくりと顔を上げます。
「俺の名は――キュラド」
その声は、先ほどまでの気だるげなものとは違っていました。低く、よく通る声でした。夜の静けさを震わせ、周囲の空気さえも変えてしまうような響きがあります。彼の赤い瞳が、まっすぐにSPを射抜きました。
「誇り高き吸血鬼だ」
言葉が落ちた瞬間、風が止みました。
冗談を言っているようには見えませんでした。キュラドは自分の正体を告げることを、当然のこととして受け止めています。その表情には、揺るぎない自信と、人ならざるものが持つ威厳がありました。
「吸血……鬼……?」
SPはぽかんと口を開けました。
「SP……SPというのか。変わった名だな」
キュラドはSPの顔を覗き込み、顎に指を添えました。しばらく黙ったまま、聞き取った名前を舌の上で転がすように呟きます。
「気に入った」
「え……?」
SPが瞬きをすると、キュラドは顔を上げました。SPの返事を待たず、片手を腰に当てます。
「SP……いや、エスよ。聞くがいい。今日からお前はこの俺の研究対象だ!」
「えぇ…………」
SPの口から、気の抜けた声が漏れました。両手を胸元で握り、半歩後ずさります。
キュラドはその場で腕を組み、SPを上から下まで眺めました。
「光栄に思え」
キュラドは満足そうに頷き、胸を張りました。
SPは口を半開きにして立ち尽くしていました。あまりにも一方的な宣言に、何から言い返せばいいのかすらわかりません。
夜道には、二人の間に落ちた沈黙だけが残りました。
SPはたまらず、後ずさりしました。逃げなければと思うのに、身体が思うように動きません。
起こったこと全てが、理解の範疇を超えていました。考えようとするほど恐怖だけが膨らみ、先ほど触れられた唇の熱がよみがえるたび、背筋がぞくりと震えます。
「ご、ご、ごめん、なさい! わ、我、用事が……!」
しどろもどろに言葉を絞り出しました。それでも、とにかくこの場を離れる理由が必要でした。
キュラドは答えません。ただ、暗闇の中で赤い瞳を光らせ、SPの一挙一動を追っています。引き留める様子も、追ってくる気配もありません。それなのに、その視線から逃れられないような気がしました。
「……っ」
SPはそれ以上何も言えず、くるりと踵を返しました。
背中に視線が突き刺さっています。振り返ってはいけないと思いながらも、確かめずにはいられませんでした。
肩越しに一瞬だけ振り返ると、キュラドは先ほどと同じ場所に立っていました。ただ、何かを手に入れた者のような、静かで不気味な確信だけが浮かんでいます。
SPは息を呑み、今度こそ振り返らずに走り出しました。
背後から追ってくる音はありませんでした。それでも、あの赤い瞳が暗闇の向こうから自分を見つめ続けている気がして、SPは逃げるように夜道を駆け抜けました。
*
翌日の放課後。
日が短くなってきたせいで、授業が終わって少し用事をこなすだけで、もう日は沈もうとしていました。
(早く帰らなきゃ……)
SPはつい、昨日の出来事を思い出してしまいました。
思い出した途端、再び頬が熱くなりました。反射的に自分の唇へ指先を当てると、そこに残っているはずのない感触まで、鮮明によみがえってきました。
「……っ」
慌てて手で顔を覆い、周囲を見回しました。誰も見ていないとわかっていても、ひどく恥ずかしくなります。けれど不思議なことに、恐怖ではない感情もそこにありました。
(……なんだったんだろう、あのひと)
そう考えた瞬間、心臓が小さく跳ねました。
会わないほうがいい。関わらないほうがいい。頭ではそうわかっているのに、何故か彼に対する興味がじわじわと湧いてくるのです。
「ち、違う……!」
SPは考えを振り払うように、手早く帰り支度を済ませました。願わくば、今日はあの男に会いませんように。
帰路に着いた頃には、街灯がぽつぽつと明かりを灯し始めていました。SPは足早に薄暗くなった道を歩きました。
「……エス」
背後から声がしました。聞き覚えのある声に、SPの足がぴたりと止まります。
恐る恐る振り返ると、そこには昨日と同じ男が立っていました。街灯の明かりの下、赤い瞳がまっすぐにSPを捉えています。
「昨日ぶりだな、エス」
「……わ……わ、我のこと、ま、待ってた、の……?」
キュラドは、さも当然だと言わんばかりに頷きました。
「そうだ。昨日は逃げられてしまったが、今日は一緒に来てもらおうと思ってな」
「む、むり……むりむりむり……」
SPはぶんぶんと首を横に振りました。一緒に行くなんて、どこへ行くつもりなのかも、何をされるのかもわかりません。
とにかく、関わってはいけない。
SPの頭の中では、警報がけたたましく鳴り響いていました。
キュラドは腕を組み、考え込むように顎に手を添えました。
「……ふむ、どうしたものか。無理矢理連れて行くのは簡単だが、だがそれでは……」
「え……む、むりやり……」
今、さらりと恐ろしいことを言われた気がします。しかも、本人は本気で考え込んでいるようでした。
キュラドはしばらく唸ったあと、何かに納得したように顔を上げました。
「それでは美しくないだろう?」
「わ、わからないよ……っ!」
SPは思わず声を上げました。
ツッコミどころは尽きませんが、目の前の男にそれを一つずつ説明してもらえる気は、まったくしませんでした。
SPは困惑しきった顔でキュラドを見上げます。キュラドは相変わらず、何かを思案するように腕を組んでいました。
キュラドは組んでいた腕を解き、SPへ向き直りました。
「エス、俺は手荒な真似はしない。お前が俺に協力する気になるのを待つことにした」
「ま、待つって……ま、毎日、ここで、待ち伏せ……す、する……気……?」
SPは恐る恐る尋ねました。
キュラドは、迷うことなく頷きます。
「ああ。毎日迎えに来る。お前を口説き落としてやるさ」
「く、くど……く……!」
SPの頬がみるみる赤くなっていきました。昨日の突然のキスまで思い出してしまい、頭の中が一気に騒がしくなります。
いったい、この人は何を考えているのでしょう。
SPは何かを言おうと口を開きますが、言葉が出てきません。目の前では、キュラドが何やら満足げな様子でこちらを見ています。
SPには、何が何やらさっぱりわかりませんでした。
「き……きのう、の……あ、あれ、は……」
SPは真っ赤になった顔を伏せ、制服の裾をぎゅっと握りしめました。
「昨日のあれ? 何のことだ?」
「だから……その……っ! え、ええと……だ、だから……き、き………」
「ふむ……?」
キュラドは小さく首を傾げました。
SPがいくら言葉に詰まっても、苛立ったり急かしたりする様子はありません。ただじっと、SPが続きを話すのを待っていました。
その様子に気づくと、張り詰めていたSPの肩から、ほんの少しだけ力が抜けます。
(このひと……待っててくれてる……?)
もちろん、警戒心がなくなったわけではありません。こんな怪しい男、簡単に信用できるはずもありません。
それでも、少なくとも今すぐ逃げ出したくなるほどの恐怖は、わずかに薄れていました。
「その……」
SPはおそるおそる顔を上げます。
キュラドは相変わらず、急かすことなくSPを見つめていました。
言葉は一向に出る気がしませんでした。
SPはとうとう耐えきれなくなり、くるりと踵を返すと、その場から逃げ出してしまいました。
背後を振り返る余裕などありません。すっかり暗くなった道をひたすら走りながら、SPは今にも爆発しそうな顔を両手で覆いたくなりました。
そんなSPの背中に、
「……明日も待っているぞ」
と、キュラドの声が届いたような気がしました。
SPはますます足を速めました。
*
翌日のホームルーム。SPは窓の外をぼんやりと眺めながら、先生の話を聞いていました。
「それと、最近学校の周辺に不審者が出るとの話がありました。実際に声をかけられた生徒もいるそうです。くれぐれも注意するように。何かあればすぐに学校に連絡してください」
不審者という言葉を聞いた瞬間、SPの脳裏に夜道で出会った彼の姿がよぎりました。
(不審者……不審者だよね……突然、キスされたし……怪しいもん……)
確かに、突然キスをされたことは許せません。怖かったし、今だって彼が毎日待っていると思うと、気持ちが落ち着きません。
それなのに、彼のことを「不審者」と決めつけようとすると、なぜか胸がきゅっと締めつけられました。
彼は、SPを無理矢理連れて行こうとはしませんでした。逃げた自分を追いかけることもなく、ただ「明日も待っている」と告げただけです。言動は十分に怪しいのに、キュラドの声や表情を思い出すと、単純な恐怖だけでは片づけられない感情が湧いてきます。
(でも、吸血鬼って言ってたし……研究対象って言ってたし……やっぱり、普通じゃないよね)
SPは自分に言い聞かせるように考えました。
先生の話はまだ続いています。けれど、SPの意識はすっかり窓の外へ向いていました。
放課後になり、SPは帰り支度をしながら窓の外を眺めていました。
昨日と同じく、空はほとんど日が沈みかけています。校舎の窓に映る夕焼けは、昼間よりもずっと薄く、校庭の隅には早くも夜の気配が滲んでいました。
(また、今日もいるのかな……)
考えないようにしても、どうしてもキュラドの姿が頭をよぎってしまいます。昨日の言葉どおりなら、今日もどこかで待っているはずです。
SPは鞄を手に取り、校門を出ました。
しばらく歩いたところで、背後から声をかけられました。
「こ、こんばんは……」
聞き慣れない男の声でした。
SPの足がぴたりと止まります。
その瞬間、朝のホームルームで聞いた先生の話が脳裏をよぎりました。
――最近、学校の周辺に不審者が出るそうです。
――実際に声をかけられた生徒もいます。
――何かあれば、すぐに学校へ連絡してください。
(不審者……?)
その言葉が、急に現実味を帯びて胸へ落ちてきました。
振り向いてはいけないような気がしました。
相手の姿を確認したほうがいい。でも、もし目が合ってしまったら、何かされてしまうかもしれない……。
「……ねえ、無視しないでよ」
背後の気配が、ゆっくりと近づいてきました。
SPは耐えきれず、目をぎゅっと瞑りました。
日が沈み、夜が完全に訪れた瞬間でした。
背後から、男の悲鳴が響きました。
「うわっ!」
突然のことに驚き、SPは思わず振り返りました。
そこにいたのは、男の首を片手で掴み、壁に押し付けているキュラドの姿でした。
男の足は地面から浮き、両手でキュラドの腕を必死に掴んでいます。しかし、どれほど力を込めても、その腕はびくともしません。苦しげな呻き声が漏れるたび、キュラドの指がゆっくりと首へ食い込み、壁には鈍い音が響きました。
街灯に照らされたキュラドの顔には、いつもの余裕めいた表情すらありませんでした。
赤い瞳だけが、暗闇の中で異様な光を放っています。
そこに浮かんでいたのは怒りではありません。相手を人間として見ていない者だけが持つ、冷たく乾いた眼差しでした。
キュラドが口元をわずかに吊り上げると、鋭い牙が覗き、ギラリと光りました。
「その娘は、この俺の研究対象だ。貴様が手を出して良い代物ではない」
低く響く声には、反論を許さない凄みがありました。
まるで、SPを守っているのではなく、自分の所有物に手を出した相手を処分しようとしているかのようでした。
「だ……だ、だめ……だよ……そ、そのひと、し、しし、死んじゃう……から……っ」
SPは震える声で、必死に訴えました。
「……エス、こちらを見るな。この男の姿を、お前のような娘に見せたくない」
「ひ、ひぇ……っ」
男はコートを一枚まとっているだけで、その下には何も身につけていないようでした。慌てて両手で顔を覆い、視線を逸らしました。
それでも、目の前で起きていることを放っておくわけにはいきません。
「で、でも……! そ、そんな、ひとでも……だめっ……! こ、殺しちゃ……だめ……!」
必死に絞り出した声が、夜の静けさに響きます。
「…………」
キュラドはゆっくりと、SPへ視線を向けました。
キュラドは、SPの言葉を聞くと、ぱっと手を離しました。
解放された男は、そのままドサリと地面に倒れ込みます。
「……分かった。エスに免じて殺しはしない」
キュラドは倒れた男を一瞥してから、SPへと向き直りました。
(言うこと……聞いてくれた……?)
SPは顔を覆っていた手を少しだけ下ろし、恐る恐るキュラドの様子を窺いました。
あれほど恐ろしい顔をしていたのに、自分が止めると、あっさり手を離したのです。
まだ怖いことに変わりはありません。それでも、ほんの少しだけ、彼への印象が変わったような気がしました。
「……え、えっと……あの、きゅ、キュラド……?」
「何だ?」
「…………そ、その、た、助けて、くれて……あ、ありがとう……?」
キュラドは一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせました。
それから、わずかに口元を緩めます。
「……なぜ疑問系なのだ」
その声には、先ほどまでの険しさはありませんでした。どこか呆れたようでいて、ほんの少しだけ柔らかな響きが混じっていました。
その後、キュラドは警察への対応にも付き合ってくれました。
SPが110番通報すると、しばらくして警察官が駆けつけました。SPとキュラドは、それぞれ事情を説明することになります。
男は保護され、警察官に連れて行かれました。
「この男がそこの娘に、あのような格好で話しかけていたのでな。少し懲らしめてやった」
キュラドは、さも当然のことのように説明しました。
警察官は男の様子を確認してから、キュラドへ視線を戻します。
「でもお兄さん、やりすぎないようにね」
「なぜ怒られているのだ?」
キュラドは納得がいかない様子で首を傾げました。
その様子がなんともおかしく、SPは思わず笑みをこぼします。
助けてもらったことには感謝しています。けれど、首を掴んで壁に押しつけていた姿を思い出すと、キュラドが注意されるのも無理はないように思えました。
事情聴取も終わり、SPはそのまま警察に家まで付き添ってもらうことになりました。
帰る直前、SPは落ち着かない様子でキュラドを見上げました。何か言いたそうに口を開きかけては、ためらうように俯きます。
本当は、もう少し話していたいと思っていました。初めて出会った時のことも、怖かったことも、どうして自分に固執するのかも、まだ何ひとつ聞けていません。
けれど、警察官が少し離れた場所で待っています。いつまでもここにいるわけにはいきません。
「あ、あの……」
「どうした、エス」
キュラドはすぐに返事をしました。いつもの尊大な口調でしたが、その赤い瞳は、普段よりわずかに柔らかくSPを見つめています。
SPはその視線に気づくと、胸の奥が小さく締めつけられるのを感じました。
「……ま、また、ね」
ようやく絞り出した言葉は、ひどく小さな声になりました。
自分でも驚くほど、別れを惜しんでいるように聞こえます。たったそれだけの言葉を伝えるだけなのに、指先が落ち着かず、制服の裾をぎゅっと握りしめていました。
キュラドは一瞬、黙ってSPを見つめました。
その表情からは、いつもの自信に満ちた態度がわずかに薄れていました。引き留めることも、いつものように一方的な言葉を投げかけることもせず、ただSPの顔を目に焼きつけるように見つめています。
やがて、彼は静かに息を吐きました。
「…………ああ。気をつけて帰れ」
短い返事でしたが、その声には、いつもより低く穏やかな響きがありました。
SPはこくりと頷きました。
警察官に促され、歩き出してからも、背中にキュラドの視線を感じていました。SPは何度か振り返りたくなりましたが、結局、振り返ることはできませんでした。
ただ、角を曲がる直前、ほんの一瞬だけ足を止めます。
背後にいるキュラドの姿を確かめることはできませんでしたが、彼女の胸には、まだ彼の声が残っていました。
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