EPISODE1-15【夢幻の歯車など】
屋上へ続く扉を押し開けると、そこに広がる光景に一行は思わず足を止める。空全体が砂嵐のようなノイズ状の歪みに覆われ、輪郭が定まらない光と闇の粒が渦を巻いて浮遊している。風はないのに空気が絶えず震え、耳には低く不快な電子音のようなノイズが絡みつき、まるで世界そのものが信号不良を起こしているかのようだ。屋上のコンクリート床はひび割れ、その亀裂から淡い虹色のエネルギーが滲み出している。そして――中心部、歪みの渦の真下に、少女・ホワンがうずくまるように立っていた。彼女は両手で頭を抱え、体を小刻みに震わせ、瞳は焦点が合わず宙をさまよい、時折苦しげに頭を振りながら呟きを繰り返す。明らかに混乱し、自分の力と周囲の境界を見失っている様子だ。レイトキは頭の羊の角を鋭く輝かせ、ノイズの波動を抑えるようにクロノコードを胸元で強く脈打たせる。饕餮の因子も力を緩やかに巡らせ、暴走したエネルギーを吸収して安定させようと反応する。
「ホワン! 落ち着くんだ、俺たちは危害を加えに来たんじゃない!」彼の声は歪みのノイズに一部かき消されながらも、はっきりと届くように力を込める。ズィーベンは水の膜を一行の周りに張り、ノイズによる感覚の混乱を遮断しながら低く告げる。
「この歪み、彼女自身の力が境界を突き破って漏れ出した結果だわ。夢幻の歯車が完全に制御を失い、記憶と現実、内と外が混ざり合っている状態よ」ゼクスも闇の靄を薄く伸ばし、周囲の空間の崩れを支えるように力を加えながら続ける。
「混乱が深まるほど歪みは拡大し、いずれこの校舎ごと別の次元へと飲み込まれる。彼女の意識を取り戻させ、歯車の回転を正常に戻さなければならない」ホワンはレイトキたちの姿を認識したのか、怯えたように肩を震わせ、掠れた声で叫ぶ。
「わからない……何が現実で、何が夢なの……頭の中がぐるぐる回って、歯車が止まらない……!」屋上全体が彼女の混乱に呼応するようにノイズを強め、亀裂から迸る光がより激しくなる。一行は互いに視線を交わし、これまで得た手がかりと力を合わせて、少女と空間の崩壊を食い止める決意を固めるのだった。ノイズが渦巻く空間の歪みが一層激しく波打つと、その裂け目の奥から次々と黒いフードを深くかぶった人影が浮かび上がってくる。体の輪郭は靄のように曖昧で、まるで次元の隙間そのものから染み出すように現れ、フードの陰からは感情の読み取れない冷たい視線だけがこちらを射抜いている。
レイトキは頭の羊の角を鋭く輝かせ、クロノコードを胸元で激しく脈打たせながら、低くはっきりと告げる。
「ビヨンダードの住民が……」ズィーベンは水と炎の力を両手に同時にまとわせ、警戒の色を濃くして続ける。
「狭間の領域『ビヨンダード』に棲む者たち。現実と夢の境界が曖昧になると、こちらの世界へ干渉してくると言われているわ。彼らにとって、暴走した夢幻の歯車は絶好の糧になる」ゼクスも闇の力を全身に巡らせ、フードの者たちの動きを睨みつける。
「組織の監視対象にもなっている存在だ。自我が薄く、ただ『均衡の崩れ』を求めて漂う。ホワンの力がこのまま暴走すれば、彼らはこの空間ごと喰らい尽くそうとするだろう」黒フードの集団は無言のままゆっくりと輪を描くように広がり、屋上全体を包囲し始める。それぞれの手のひらからは、ホワンから漏れ出す虹色のエネルギーを吸い取ろうとするように、細い黒い糸が伸びてくる。歪みのノイズに混ざって、低くうめくような囁き声が辺りに満ちていく。レイトキは一行を守るように前に出て、饕餮の力を制御しながら声を張り上げる。
「ホワンを守りつつ、この侵入者たちを押し止めるぞ! 力を合わせて境界線を引き直すんだ!」崩れかかる空間の中、夢幻の歯車を巡る戦いが、新たな相手を迎えて本格的に始まろうとしていた。ゼクスは手を大きく振り上げ、全身から闇の力を解き放つ。渦巻く黒い靄が瞬く間に形を整え、三つの頭を持つ巨大な魔獣――ケルベロスへと実体化する。牙を剥き、雄叫びを上げながら黒フードの集団へ勢いよく飛びかかる。
だが次の瞬間、ケルベロスの体はフードの人影をまるで雲のように通り抜け、空気を噛むだけで何の衝撃も与えられない。
「クソ! 攻撃が当たらない!」
ゼクスは歯噛みし、さらに力を込めて闇の爪を振るうが、それでも相手の輪郭をかすめるだけで、傷一つつけることができない。
続いてズィーベンが一歩前に踏み出し、右手には高熱の炎、左手には鋭い水の刃を生み出す。同時に放った炎の弾と水の奔流は、一直線に黒フードへと襲いかかる。
だがその攻撃も、フードの体に触れた途端、靄の中に吸い込まれるようにすり抜けて消えてしまう。勢いを失った水と炎が後方のコンクリートに当たり、煙と水しぶきを上げるだけだ。
「うげっ!? すり抜けた!?」
ズィーベンは驚きに目を見開き、次の攻撃の手を一瞬止める。「実体がないの? それともこの次元の力では干渉できない存在なの!?」黒フードたちは影響を受けた様子もなく、ゆっくりと手を伸ばし、ホワンの周囲の虹色のエネルギーをさらに吸い取ろうと黒い糸を伸ばし続ける。空間の歪みはますます深まり、ノイズの音が耳をつんざくように大きくなっていく。レイトキは頭の羊の角を強く輝かせ、クロノコードと饕餮の力を両方使って相手の性質を読み取ろうと集中する。
「実体がないわけじゃない……俺たちの力の『周波数』が、彼らの存在する次元と合っていないだけだ! このまま通常の攻撃を続けても、いくら打っても届かない!」一行は新たな壁にぶつかりながら、崩れゆく屋上で、ビヨンダードの住民たちに対抗する方法を急いで探らなければならなかった。黒フードの集団の中から、一際輪郭のはっきりした存在が一歩前に出る。フードの奥からは感情のない無機質な瞳が覗き、低く響く声がノイズの渦を突き抜けてはっきりと届く。
「歯車、必要!」
その一言に、レイトキは頭の羊の角の輝きを一瞬強く震わせ、驚きを隠せない様子で声を上げる。
「えっ!? クリプトンの言葉を喋っただと!?」
彼は目を見開き、相手の発した音の波紋を確かめるように集中しながら続ける。
「今まで遭遇してきたビヨンダードの連中は、カタコトの断片的な単語か、意味の掴めない囁きばかりだった。まさかこれほど明確で、正しい言い回しで意思を伝えてくるとは……!」ズィーベンも水の防御膜を張ったまま、信じられないといった表情で呟く。
「自我がはっきりしている証拠……普通の狭間の漂い者とは格が違う。これはただの侵入じゃなく、明確な目的を持って現れたってことね」ゼクスも実体化させたケルベロスを霧に戻し、警戒を解かずに睨みつける。
「歯車が『必要』だと? 力を喰らうだけでなく、自分たちの何かに利用しようというのか」黒フードの者は答える代わりに、周囲の仲間たちを手で制するように合図を送る。ノイズの渦の中で、彼らの黒い糸がホワンではなく、屋上全体に広がる歪みそのものへと向きを変え、まるでこの空間を「固定」しようとするかのように絡みついていく。
レイトキは胸元のクロノコードを強く押さえ、饕餮の力を静かに巡らせながら、この予想外の変化に備えるのだった。黒フードの者はフードの陰から冷たい視線を向けたまま、淀みのないはっきりとした口調で続ける。
「キクリ様から聞いた、レイトキ。お前が一番重要とな」その名前が響いた瞬間、レイトキの全身が緊張で強張る。だが相手はその場から一歩も動かず、まるで空間そのものを媒介にするかのように、両手をゆっくりと前方へ伸ばす。指先は次第に細く長く伸び、歯車と紋様が重なるコード状の光と闇の糸へと変化し、空間の歪みを突き抜けて一直線にレイトキへと迫る。回避しようと身を翻す間もなく、その糸はレイトキの腕と胸元に巻きつき、クロノコードと饕餮の因子が宿る部位を的確に掴み上げる。
「なっ!? この糸は……俺の力の流れを直接捉えているのか!」レイトキは頭の羊の角を激しく輝かせ、時間の干渉で引き剥がそうとするが、コード状の糸は次元の境界を貫く性質を持ち、まるで自身の一部と結びつくように離れない。胸元のクロノコードが異常なまでに脈打ち、饕餮の力も掴まれた箇所から逆流しようと暴れ出す。ズィーベンとゼクスが即座に助けに入ろうとすると、周囲の他の黒フードたちが壁のように立ち塞がり、靄の壁で二人の進路を阻む。
「待て! キクリ様だと? あの境界を統べると言われる存在が、俺のことを知っているのか!」レイトキは掴まれたまま、相手のフードの奥を睨みつけ、力任せに引き抜くのではなく、そのコードの繋がりを通じて相手の真意を探ろうと意識を集中する。屋上のノイズはさらに大きくなり、キクリという名が、これまでの謎に新たな影を落としていくのだった。渦巻くノイズと緊迫した力のぶつかり合いの中、今まで混乱と恐怖に包まれていたホワンの肩が、ゆっくりと震えを収め始める。彼女は両手で抱えていた頭から手を離し、焦点の定まらなかった瞳をゆっくりと開き、レイトキたちの姿をまっすぐに見つめる。唇をきゅっと結び、先ほどまでの怯えた声とは違う、はっきりと力強い口調で言葉を紡ぐ。
「あの人達、私を救いに来たんだよね。ならば、怯えてばかりはいられない」その言葉と共に、彼女の周囲に漂っていた虹色のエネルギーが、不規則な渦から次第に穏やかな脈動へと変わり始める。乱れに乱れていた夢幻の歯車の回転が、わずかに軌道を取り戻すように、規則的な音を響かせ始めるのだ。
ズィーベンは驚きつつも、すぐに声を励ますように送る。
「そうよ、ホワン! アーシたちはアンタを守り、正しい道に戻すために来たの! 自分の力を恐れないで、心で受け止めてあげて!」ゼクスも闇の靄で周囲の黒い糸の一部を押し返しながら叫ぶ。
「歯車はお前自身だ! お前が意志を持てば、力は暴走せず、お前の望む形に従う!」レイトキはコード状の糸に掴まれたまま、頭の羊の角を強く輝かせ、ホワンに向かって力強く呼びかける。
「その通りだ! お前が立ち上がる意志こそ、この歪みを正す一番の力になる! 俺たちも全力で支える!」ホワンは頷き、両手を胸元へとゆっくりと当てる。内側から湧き上がる力を自分のものとして受け入れるように呼吸を整えると、虹色の光が彼女の体を包み込み、空間全体のノイズを打ち消すように柔らかく拡がっていくのだった。ホワンは胸元に手を重ね、迷いを断ち切るように力強く宣言する。
「この力は正しく使いたい」その言葉を合図に、彼女の内側から虹色の波動が静かに、だが圧倒的な勢いで湧き上がる。乱れに渦巻いていたエネルギーが一つに収束し、まるで光の膜のように屋上全体を包み込んでいく。ノイズがかき消され、空間の歪みもその光に触れるたびに輪郭を取り戻し、安定していく。次の瞬間――レイトキを掴んでいたコード状の糸がぱちりと音を立てて弾け、周囲に立ち塞がっていた黒フードたちの体も、虹色の波動に貫かれると靄のように崩れ始める。
「なっ……!?」彼らは抵抗しようと手を伸ばすが、夢幻の歯車の真の力が放つ波動には次元の境界さえ書き換える性質がある。体を光に押し戻されるように後退し、足元から黒い靄が崩れ落ちていく。
「送り返される……! この力は予想以上だ!」最後に残った輪郭のはっきりした黒フードの者も、フードの奥から驚きと警戒の色を浮かべると、空間の裂け目へと引き寄せられるように後退する。虹色の波動が歪みの入り口を閉じるように押し込むと、ビヨンダードの住民たちは次々と元の次元の狭間へと送り返され、跡形もなく消えていった。屋上には静寂が戻り、空のノイズも薄れ、亀裂から漏れていた光も穏やかに収まっていく。レイトキは解放された腕をさすりながら、頭の羊の角の輝きを落ち着かせ、ホワンをまっすぐに見つめる。
「すごい……自分の意志で力を制御しただけで、次元の侵入者まで退けるとは」ズィーベンも安堵の息を吐き、柔らかく笑みを浮かべる。
「これが夢幻の歯車の本来の力なのね。混乱していた時は『崩す力』だったのが、意志を持つことで『整える力』へと変わったわ」ホワンは少し疲れた様子ではあったが、瞳には確かな光が戻っている。彼女は一行に向かって小さく頷き、自分の歩みを始める覚悟を示すように、胸元の歯車をそっと抱きしめるのだった。緊張が解け、穏やかな光が満ちたその瞬間――
「今だ、任務遂行する」
ゼクスが低くはっきりとした声を上げると同時、手のひらから銀色に光る小型の装置が飛び出す。瞬く間に大きく展開し、半透明の力場で作られた捕獲カプセルがホワンの周囲を囲み、彼女を中に閉じ込めてしまう。
ホワンは驚いた表情でカプセルの壁に手をつき、虹色の力を放っても内部からは外に出られず、弾かれるように跳ね返される。
「なんの真似だ!?」
レイトキは頭の羊の角を激しく輝かせ、クロノコードを全速力で回転させてゼクスに詰め寄る。饕餮の力が無意識に膨れ上がり、周囲の空気がざわめくほどの圧力が生まれる。
ゼクスは表情を変えず、カプセルを手元に引き寄せながら答える。
「これが組織から与えられた本来の任務だ。夢幻の歯車を持つ者を保護・管理下に置く――手段は問わないと定められている」
「保護だと? これは拘束だ! 自分の意志で力を制御できるようになった彼女を、なぜ閉じ込める必要がある!」レイトキは手を伸ばしてカプセルを奪おうとするが、ゼクスは闇の靄を盾にして間合いを取り、さらに続ける。
「力が安定した今こそ移送の最適なタイミングだ。このまま野放しにすれば、再び境界が崩れる危険は残る。組織の施設で監視しながら制御法を学ばせるのが最善だ」ズィーベンも予期せぬ展開に息を呑み、すぐにゼクスの前に立ちはだかる。
「待て、これは違う! 彼女は自分の力と向き合う覚悟を決めたばかりなのよ。強制的に連れて行けば、また歯車が反発して暴走する可能性だってある!」屋上には再び険悪な緊張が走り、先ほど共闘したばかりの仲間同士が、ホワンの運命を巡って対立する構図が生まれていた。緊迫した空気の中、ゼクスは捕獲カプセルをしっかりと抱えたまま、落ち着いた口調で条件を切り出す。
「ならば、取引だ。夢幻の歯車は預ける。だが、その代わりにJOKER、お前も一緒に来てもらおう」彼の言葉に、レイトキは眉をひそめ、頭の羊の角が微かに脈打つ。だがすぐに、後ろから久美子が多腕を広げるように前に出て、強く反対する。
「ダメよ、レイくん! そんな一方的な条件に簡単に乗ってはいけないわ!」それを受けてズィーベンが一歩進み、久美子の肩に手を置いて静かに制しながら、はっきりと告げる。
「決めるのはJOKER自身だからさ。周りが口出しして答えを歪めちゃダメだよ」ズィーベンの言葉に、久美子は言い返そうとして口を閉じ、不安そうな視線をレイトキに向ける。ゼクスは表情を変えずに続ける。
「俺も組織の命令と自分の判断の間で迷っている。だが、この歯車とお前の力が結びつくことで、これまでの均衡が大きく変わる可能性がある。俺たちが同じ場所で力の管理と覚醒の行方を見守る――それが今の最も無難な落としどころだ」レイトキは胸元のクロノコードに手を置き、饕餮の力とホワンの虹色の波動、そしてゼクスの真意を同時に感じ取りながら、静かに答えを探り始める。
「俺が行くことで、ホワンが安全に扱われる保証はあるのか?」
「保証は約束できない。だが、俺がそばにいる限り、一方的な搾取や実験には絶対にさせない」ゼクスの言葉に、レイトキは深く息を吐き、仲間たちの顔を順番に見渡す。これが自分の覚醒への道でもあり、少女の未来を守るための選択でもあると感じ取った彼は、ゆっくりと頷き始めるのだった。レイトキは頭の羊の角の輝きを落ち着かせ、胸元のクロノコードを強く押さえながら、迷いを断ち切るようにはっきりと答える。
「分かった、お前達の取引に乗ってやる」一言で決断を示すと、彼はゼクスの方へ真っ直ぐに視線を向け、続けて条件を突きつける。
「だが約束通り、ホワンに危害を加えるような真似をした瞬間、俺も夢幻の歯車も、饕餮の力も全部反撃に回す。それだけは忘れるな」ゼクスは無表情だった顔に微かな緊張を滲ませ、力強く頷き返す。
「ああ、こちらも守る。お前が同行する限り、彼女を安全な枠組みの中で扱うことを誓う」久美子は心配そうにレイトキの腕に手を伸ばすが、レイトキは柔らかく首を振って安心させるように笑みを浮かべる。
「大丈夫だ。これは俺自身の覚醒と、この力の意味を知るための道でもある。遠くから見守ってくれ、いつでも戻ってくる」ズィーベンも肩の力を抜き、静かに頷く。
「決めた以上は信じるよ。何かあったらすぐに連絡を――アーシたちも後を追う準備はできてるから」レイトキは最後にホワンの閉じ込められたカプセルを見つめ、自分の力の流れを彼女の虹色の波動と共鳴させるように調整する。
「さあ、行こう。これからが本当の始まりだ」
屋上に残された歪みが完全に閉じられる中、レイトキはゼクスたちと共に、新たな場所へと向かう一歩を踏み出すのだった。




