第4話:知らないはずの視線
羽島誠は、暗闇の中で手帳の余白を見つめ続けていた。
『これは第3回目の失敗だ』
その筆跡は、紛れもなく自分自身のものだった。しかし、誠の脳内にある記憶のライブラリには、その「3回目」というラベルが貼られた記憶がどこにも存在しない。
「世界は、僕の記憶すら修正対象にしているのか……」
記録すれば事実に即して書き換えられ、記録を拒めば未来の悲劇が一方的に書き加えられる。
世界は、誠が「栞を救おうと動くこと」を前提にして、次の罠を設置していた。
ならば、その前提そのものを崩したらどうなるか。
「何もしない。……それが、最初の反逆だ」
朝、6月15日。
誠は、栞との接触を完全に断つことを決意した。
これまでの周回なら、彼は登校中や休み時間に必ず彼女の様子を伺い、危険を遠ざけるための助言を繰り返してきた。
しかし、今日、誠は彼女に一度も目を向けなかった。
校門ですれ違っても、挨拶すらしない。
昼休みに彼女が友人と談笑しているのが見えても、反対側の窓から外を眺める。
手帳には何も書かず、スマートフォンで彼女のSNSをチェックすることもしない。
誠は、自分という存在を、この世界の物語から「消去」しようと試みたのだ。
「意味のある選択をしなければ、世界は僕を修正できないはずだ」
自分がいなければ、世界は「救済者」を想定したシナリオを描けない。
何もしない、助言しない、記録しない。
ただの「無害な背景」として、この1週間をやり過ごす。
だが、放課後。
誠は図書室の窓から見てしまった。
校庭で、栞が美術部の顧問に呼び止められ、熱心に話し合っている姿を。
そこには、前回の周回では存在しなかった「新しい要素」が次々と現れていた。
本来なら19日だった資料館の見学が、なぜか「明日、16日」に前倒しされている。
さらに、参加メンバーには誠が知らない他クラスの生徒たちが数人加えられていた。
誠が介入を控えたことで、世界は「彼の不在」を埋めるように、状況を加速させ、解像度を上げ始めたのだ。
何もしなくても、死に向かうベクトルは変わらない。
皮肉なことに、誠が「何もしない」という消極的な選択をしたことで、物語は彼の制御を離れ、より冷酷な自律走行を始めていた。
実験の第2段階として、誠は翌日、あえて彼女の視界に入る位置に立ち続けた。
助言はしない。手助けもしない。
ただ、物理的に彼女の近くに存在し続ける。
世界が「誠という異物」をどう処理するのかを確認するために。
「……羽島くん?」
移動教室の廊下で、栞が誠を見つけ、怪訝そうに足を止めた。
「今日、ずっと近くにいるよね。……何か、言いたいことある?」
「……別に。何もない」
誠は感情を殺して答えた。
だが、栞の様子がおかしい。彼女は不安げに自分の肩を抱き、周囲をキョロキョロと見渡した。
「なんだか、今日……すごく落ち着かないの。どこに行っても、誰かに見られているような、そんな変な感じがして。資料館の予定も、なんだか行きたくないな、って」
誠の存在が、世界の修正に「揺らぎ」を与えていた。
誠が直接的な行動を封じたことで、世界は彼を排除する理由を見失い、結果として「誠の気配」だけが栞の無意識にノイズとして流れ込んでいる。
栞の行動が、台本からわずかに逸脱し始めた。
予定を直前で迷い、理由のない不安を口にする。
世界は必死に彼女を「資料館」へと促すが、彼女の足取りは、前回の周回よりも確実に重くなっていた。
そして、16日の16時42分。
誠は、自宅の部屋にいた。
壁にかけられた時計の針を、瞬きもせず凝視している。
資料館へは行っていない。
助けるための行動も、一切取っていない。
部屋は不気味なほど静まり返っていた。
扇風機の首振りが止まり、遠くの蝉の声さえ途絶える。
世界から音が消え、ただ秒針が「死」を刻む微かな摩擦音だけが鼓膜にへばりつく。
41分。
42分。
カチリ。
その瞬間、誠の頭の中に不快なノイズと共に、鮮明なイメージが強制的に流れ込んできた。
資料館の階段。
暗い照明。
足を滑らせ、宙を舞う栞の姿。
「……っ!」
誠は叫び声を上げ、頭を抱えて床に伏せた。
数分後、震える手でスマートフォンを確認する。
クラスのグループチャットは、悲鳴のようなメッセージで埋め尽くされていた。
『瀬戸内さんが、資料館の階段から落ちて救急車で運ばれた』
誠は病院へ駆けつけた。
病室のベッドで、栞は右腕に包帯を巻き、痛みに顔を歪めていた。
死んではいない。
だが、事故そのものは回避されなかった。
誠は、病室の窓に映る自分の顔を見た。
カレンダーに目をやると、黒い数字が不自然に滲み、書き換わっている。
『16:42』から『19:15』へ。
場所の記述は消え、ただ時刻だけが、新たな死の刻印として刻まれていた。
「何もしない」ことは、破滅を遅らせる効果しかない。
死が重傷に変わったのは、誠の存在が世界に与えたわずかなノイズの結果だ。
だが、世界は即座にそのミスを修正し、次の、より回避困難な「19時15分」を設定した。
誠の脳裏に、一つの冷徹な戦略が浮上した。
自分が直接、物語の主役として動いてはいけない。
自分が表舞台に立つ限り、世界という「編纂者」は自分を敵と見なし、常に先手を打ってくる。
「……他人に、助けさせる」
誠の視線が、病室の外で心配そうに中を覗いている佐伯に向けられた。
誠ではなく、誠に操られた他人が彼女を救うなら、世界はそれをどう認識するのか。
自分が操り人形の糸を引く黒幕となり、物語の筋書きを、世界に気づかれないように攪乱する。
誠は、手帳に新たな一行を書き加えた。
それは、事実の記録でも、未来の予測でもない。
世界を欺くための、最初の「嘘」だった。
「世界が結末を固定したいなら、僕はその過程を汚してやる」
窓の外、降り続く雨の中で、誠の瞳にはかつてないほど暗い光が宿っていた。




