第3話:戻った世界に、違和感だけが残る
羽島誠は、暗い部屋の中でカレンダーの前に立っていた。
17日の赤い印。20日の黒い数字「16:42」。
それらをじっと見つめていると、視界の端がわずかに歪むような感覚に襲われる。
彼は机に向かい、1冊の古い手帳を開いた。
それは、彼がリープを繰り返す中で書き留めてきた、自分だけの「記録写本」だ。
指先でページをめくる。
過去のループで起きた出来事、栞の死因、天候、信号のタイミング。
そのすべてが、誠自身の筆跡で詳細に記されているはずだった。
だが、あるページで、誠の指が止まった。
「……なんだ、これは」
6月12日の記録。
前回のループで、誠は栞と一緒に図書館へ行った。
そこでの会話を、彼は一言一句違わず記憶している。
しかし、手帳に書かれた文字は、彼の記憶とは決定的に異なっていた。
『12日、雨。図書館は閉館していたため、自宅で自習。栞は数学の第2章で苦戦していた』
「違う」
誠の声が、静かな部屋に落ちた。
昨日のことだ。図書館は開いていた。
二人は窓際の席に座り、栞は「魚の骨に見える雲」の話をしていたはずだ。
だが、手帳の文字は、まるで最初からそうであったかのように、整然と並んでいる。
彼はペンを握りしめた。
自分の記憶が正しいのか、それともこの「記録」が正しいのか。
誠は、検証を開始することにした。
翌朝、学校の図書室。
誠はノートの隅に、わざと事実とは異なる「間違った情報」を書き記した。
『今日の昼休み、栞は購買でカレーパンを買う』
誠は時計を見つめ、数分間、その文字から目を離さなかった。
何も起きない。文字はそのまま、ノートの紙面にしがみついている。
彼は一度席を立ち、窓の外を眺めた。
校庭で体育の授業を受ける生徒たちの声が、遠くから響いてくる。
ほんの数秒。
再びノートに視線を戻した時、誠は全身の毛穴が逆立つような悪寒を感じた。
文字が変わっていた。
『今日の昼休み、栞は購買でリンゴジュースを買う』
筆跡は、間違いなく誠のものだ。
インクの掠れ具合も、ペンの筆圧も、彼が書いたものと寸分違わない。
だが、内容は「事実」へと書き換えられていた。
誰かが消しゴムを使った形跡も、修正液を使った跡もない。
まるで最初から、紙の繊維そのものがその文章を望んでいたかのように、文字は定着していた。
誠は狂ったように書き直した。
『栞はリンゴジュースを飲まない』
『栞はここにはいない』
『栞は死なない』
だが、彼が瞬きをするたびに、あるいは意識を別の方向へ向けた瞬間に、文字は文法的に正しく、かつ「整合性の取れた」文章へと滑らかに置換されていった。
世界は、彼の「異物」としての記録を許さなかった。
だが、完全に消去するのではなく、既存の事実に馴染むように「修正」している。
「……羽島くん? 何してるの、そんなに必死に」
不意に声をかけられ、誠は肩を跳ねさせた。
隣に立っていたのは、同じ図書委員の佐伯だった。
佐伯は、後のループで誠の協力者になることもあれば、決定的な瞬間に立ちはだかる障害にもなる、読めない男だ。
「それ、前からそう書いてあったよ。リンゴジュースの話」
佐伯が誠のノートを覗き込み、何気なく言った。
「前から?」
「うん。君がペンを動かし始めた時からずっとそう。……どうかした? 顔色が悪いけど」
誠は言葉を失った。
自分は確かに、別の言葉を書いたのだ。
だが、第三者である佐伯の目には、修正後の世界こそが「最初からの真実」として映っている。
狂っているのは自分か。それとも、この世界の方か。
誠の中で、現実の輪郭が急速に溶け落ちていく。
放課後、誠は決定的な賭けに出た。
彼は「記録できない事実」を、あえて記録しないという選択をした。
美術部の資料館への予定。20日の16時42分。
その情報を、彼は手帳にもノートにも、一切書き込まなかった。
自分の脳内だけに留め、世界に悟られないように。
だが、その夜。
彼が自宅に戻り、机の上に置いていた手帳を開いたとき、誠は声を上げて倒れそうになった。
記録していないはずのページに、文字が刻まれていた。
『6月19日。駅裏の資料館にて、栞は階段から転落。右腕を骨折』
誠は、その文章を書いていない。
誰にも話していない。
なのに、手帳には「未来」の出来事が、公式の記録のように書き加えられていた。
さらに、その下には追記があった。
『羽島誠は、これを阻止しようと16時30分に資料館へ現れるが、入口のロックが故障しており、間に合わない』
「予測している……」
誠は震える手で手帳を投げ出した。
世界は、単に起きたことを修正しているのではない。
これから誠が取ろうとする行動を先読みし、その「失敗」をあらかじめ記録することで、運命を固定しようとしているのだ。
誠が正しく記録しようとすれば修正され、記録を拒めば未来を上書きされる。
彼は、巨大な意志を持った「台本」の中に閉じ込められた役者に過ぎなかった。
このままでは、彼は一生、世界が用意した悲劇の結末から逃れることはできない。
誠は、真っ暗な部屋の中で、激しく鼓動する胸を押さえた。
「正しく書こうとするほど、世界に支配される……」
ならば。
誠の瞳に、絶望とは異なる、冷徹な光が宿った。
世界を騙す。
台本にはないアドリブを、誰にも気づかれないように滑り込ませる。
それが、彼女を救うための唯一の方法だ。
彼は、投げ出した手帳を再び拾い上げた。
その時、手帳の裏表紙の、これまで気づかなかった極めて小さな余白に、乱暴な走り書きがあるのを見つけた。
『これは第3回目の失敗だ』
誠の心臓が止まりかけた。
彼には、その文字を書いた記憶がない。
「第3回目」とはどういう意味だ。
自分は、まだ2回目のループの中にいるはずではなかったか。
もし、自分の「記憶」そのものが、すでに世界によって何度も上書きされていたとしたら。
もし、この「第2回目」だと思っていた時間が、すでに数え切れないほどの失敗の果てにあるのだとしたら。
誠は、暗闇の中で一人、見えない敵と対峙していた。
世界は、まだ何も許していなかった。
それどころか、すでに彼を、終わりのない円環の中に閉じ込めていた。




