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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
救済が存在しない世界

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第29話:設計者の自白(アーキテクチャ・ログ)

 視界を埋め尽くすのは、星の瞬きではない。

 それは、膨大な文字列と、刻一刻と変動し続ける幾何学的な座標の群れだ。


 都市「トナミ」という限定された領域において、現在進行形で発生している事象のすべてが、ここでは純粋な数値へと変換されている。誰が呼吸し、誰が迷い、誰が信号を無視したか。それら数百万の変数が、常に「総量の安定」という唯一の目的関数に向かって収束し、最適化されていた。


 だが、その静謐な演算空間を、かつてない強度の「警告色」が侵食していた。


 空間の中心に浮かぶ三次元ホログラム。そこには、羽島誠を中心とした因果の波形が映し出されている。本来ならば一点に収束し、周囲から隔離されているはずの彼の「波」は、今やベーカリーの通行人、駅前のサラリーマン、病院の看護師、そして栞という個体を経由して、都市全体のネットワークへと血管のように張り巡らされていた。


『対象:羽島誠。因果の同期率、限界値を突破。周囲一・二キロ圏内の管理リソース、枯渇。総演算負荷、通常時の四百八十パーセントを記録。警告、一部セクターで現実のテクスチャ維持が困難。処理落ちによる空間の剥落を検知』


 無機質な音声が、誰もいない観測空間に響く。

 そこに控える黒スーツの男たちは、表情一つ変えない。モニタの一角では、かつて管理に失敗した都市の断片映像が、論理崩壊の成れの果てとして明滅している。一人の男が、その映像からわずかに視線を逸らした。彼らにとって、誠の行動が「憎い」わけでも「恐ろしい」わけでもない。ただ、処理不能なオーバーフローを引き起こす「深刻なバグ」として、その数値を冷徹に受け止めているに過ぎなかった。


「……想定内、か」


 一人の男が、感情の欠落した声で呟いた。

 彼らの定義によれば、この事態は完全なる未知ではない。この世界の設計図が引かれた当初から、統計学的な確率の極北に、常に存在し続けていた「必然の帰結」である。


 彼ら――すなわち「世界」を司る管理機構は、自らを支配者だとは自認していない。

 彼らは、不完全な人間という種が自壊しないための、巨大なセーフティネットであった。

 個人の自由。幸福。悲しみ。それらはすべて、全体という名の巨大な船を沈ませないための「バラスト(重石)」として配分される。一人の極端な不幸が、千人の平均的な安寧を支える。一人の突出した才能が、万人の停滞を埋め合わせる。


 それは、正義でも悪でもない。ただの、効率的な資源配分の結果だった。


「羽島誠という個体。彼は当初、単純な排除対象として定義された。しかし、その因果の空白があまりにも深かった。消去すれば、その穴を埋めるために周囲の因果が連鎖的に崩壊する。ゆえに、我々は『隔離』を選んだ。彼を誰とも交わらせず、何の影響も与えない零地点に固定することで、世界の総量を維持しようとした」


 男の視線の先で、ホログラムの中の「誠」が、病室の扉を開ける。

 その瞬間、観測空間の数値が爆発的に跳ね上がった。


「誤算は、彼の能力の特異性ではない。人間が持つ『自由』という名の不確定要素が、彼という空白を触媒にして、連鎖反応を起こし始めたことだ。我々は個人の自由は制御できる。一人の気まぐれが引き起こす揺らぎは、統計的な誤差の範囲内で相殺できるからだ。だが……自由と自由が同期し、一つの意志としてネットワーク化したとき、それは統計学を凌駕する『現象』へと変質する」


 画面上の座標が、激しく明滅する。

 誠が栞の手を握った。その、たった一つの、しかし決定的な選択。

 それが、栞という名の「安全装置」を根底から揺さぶっていた。


「瀬戸内栞。彼女は、彼を縛るための枷ではない。彼女は、羽島誠がこの世界を完全に破壊することを踏みとどまらせるための、唯一の緩衝材バッファとして配置された。彼女をこの世界の管理下――すなわち『病』という名の安定状態に置くことで、彼は世界への敵意を、彼女を守るという目的へと転換せざるを得なくなる」


 それが、世界の倫理だった。

 誰かを救いたいという願いを、その者を檻に閉じ込めるための理由にする。

 彼女の目覚めない眠り、断続的に続く微かな苦しみ、それらすべては、羽島誠が「優しい復讐者」で居続けるために、精密に計算され、最適化されたパラメータに過ぎなかった。


「彼女が目覚めない限り、彼は世界を愛する余地を残すことができる。我々は、彼の献身を搾取することで、この街の均衡を買い叩いてきたのだ。……そうすることでしか、守れなかった無数の数値があることも、また事実だが」


 男の言葉は淡々としていた。管理機構側もまた、最善ではなく、常に「最悪の回避」を選び続けてきた存在に過ぎない。誰かの純粋な祈りを首輪に変えてでも、彼らは世界を回し続けなければならなかった。それこそが、この世界の設計思想の根幹であり、彼らの背負ってきた業でもあった。


 だが、今、誠はその論理さえも踏み越えようとしていた。


「報告。対象が緩衝材の隔離を物理的に破壊しました。瀬戸内栞の意識ログ、再起動。彼女は今、管理外の『生』へと回帰しつつあります。これにより、羽島誠を縛る最後のアンカーが消失しました。……予測される事象は、全管理システムの全損です」


 別の黒スーツが、淡々と事実を告げる。

 その報告を聞いた中心の男は、わずかに首を傾げた。その瞳に一瞬だけ、演算結果ではない「何か」が宿る。


「……管理不能か」


 その言葉には、焦りも怒りもない。ただ、機械が部品の欠損を認識したときのような、乾いた確認があるだけだ。


「現在の選択肢。一、当該都市領域をすべて初期化し、羽島誠ごと消去する。ただし、これに伴う周辺因果の二次被害は推計不能。二、羽島誠の因果にシステムを同期させ、世界の側を彼の意志に書き換える。すなわち、我々が彼の部品になる。……彼に、主導権を譲渡する」


 究極の二択。

 それは、世界を救うために世界を殺すか、世界を救うために世界を変えるか。

 これまで「総量の安定」のみを拠り所にしてきた設計者たちにとって、それは論理的なデッドロックを意味していた。


「演算を続行せよ。我々はまだ、彼の『真意』を特定できていない。彼は反逆しているのではない。この不完全な設計図に対して、新しいアーキテクチャを提案している。それが破滅をもたらすのか、あるいは我々を凌駕する次世代の安定をもたらすのか。それを見極めるまで、観測を維持する」


 男の視線は、再びホログラムの深淵へと向けられた。

 そこには、栞を抱え、崩れゆく現実のただ中に立つ誠の姿があった。


「羽島誠……君は、自由を愛しているわけではない。君は、自由という名の責任を、誰かに背負わせたいだけなのかもしれないな。……それは、かつて我々が人間にしたことだ。重すぎる選択を、管理という名の救済で覆い隠した、我々と。君は同じ穴を見つめている」


 観測空間の光が、一段と激しく明滅する。

 誠の瞳に、こちらを射抜くような鋭い光が宿る。もちろん、彼にこの空間は見えていないはずだ。だが、彼の意志という名のベクトルは、間違いなく世界の心臓部を、この設計者たちの居場所を正確に捉えていた。


「システム・フェーズを『待機』から『追従』へ移行。我々は、彼の決定に従う。彼が選ぶ世界が、我々の論理を上回るものであることを、統計学的な奇跡として期待するしかない」


 黒スーツの男たちは、静かにその場に沈み込むように消えていく。

 残されたのは、真っ赤に染まった無数のエラー・ウィンドウと、絶え間なく鳴り続ける過負荷の警告音だけだった。


 世界という名の装置は、今、その長い歴史の中で初めて、その全機能を一人の少年の指先に委ねようとしていた。


 ――君が選べ。我々を壊すか、我々の代わりになるか。


 無機質な独白が、デジタル・ノイズの彼方へと消えていく。


 場面は再び、硝煙と水飛沫の舞う病院へと戻る。

 腕の中に、確かな重み。栞の、熱を帯びた呼吸。


 誠は、足元で崩落を続ける床を見据え、一歩を踏み出そうとした。

 だが、その瞬間、彼の足がわずかに止まる。


 腕の中の栞。その呼吸が、一瞬だけ不規則に乱れた。

 彼女の指先が、誠のシャツの袖を、力なく、しかし必死に掴もうとする。

 誠は、その小さな指の動きをじっと見つめ、より強く彼女を抱き締め直した。


 この一歩の先に、何があるのか。

 誰の承認も、誰の保証もない、暗闇への跳躍。


 誠は再び視線を上げた。


 彼が踏み出すその先には、もはや舗装された道など存在しない。

 だが、誠の瞳には、設計者たちさえも描けなかった、新しい世界の輪郭が、鮮明に、残酷なまでに美しく、映し出されていた。


 病院の建物が、轟音と共にその形状を喪失していく。

 誠は彼女を抱き締め、制御不能な白光が渦巻く、輪郭の定まらない空虚へと突き進んでいった。

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