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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
救済が存在しない世界

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第28話:中心不在の現象(デセントラライズド・カオス)

 世界は、僕を「制御できた」と誤解している。


 ベーカリーを後にした羽島誠の足取りは、かつてないほど軽やかだった。しかし、その足跡が刻まれるアスファルトの裏側では、目に見えない論理の歯車が、互いの破片を噛み砕きながら空転を続けている。


 誠は、自分を縛っていたあの忌々しい「最適化」の手が、明らかに緩んでいるのを感じていた。横断歩道に差しかかっても、信号は即座には青に変わらない。向こうから来る通行人も、以前のように磁石の反発を思わせる鮮やかな回避行動は見せず、誠の肩がわずかに触れそうな距離まで無防備に近づいてくる。


 だが、それは世界が彼を「自由」にしたことを意味してはいなかった。誠への管理圧が低下した分、その余剰となった「歪み」が、彼という個体から溢れ出し、街のあちこちへと伝播し始めていたのだ。


 視界の端で、小さな破綻が芽吹く。

 交差点の反対側、歩行者信号が点滅を開始したその瞬間、すぐ隣の車道信号が、青のまま数秒間「静止」した。本来ならば、一分の隙もなく同期されているはずの因果。街の鼓動。それが、誠という巨大な「演算の遅延レイテンシ」を抱え込んだまま無理やり再起動したせいで、あちこちでタイミングを逃し始めている。


 一台の軽自動車が、迷うような挙動で交差点の中央で急ブレーキをかけた。背後でクラクションが鳴り響く。だが、そのクラクションの音さえも、空気に溶ける前に途切れたり、不自然なエコーを伴って反復したりする。アスファルトの地表には、陽炎のような歪みが、物理的な熱を持たぬまま立ち上っていた。


(……僕を個体として定義できないから、世界は『僕がいる空間』そのものを、異常として処理し始めたのか)


 誠は、駅前広場の雑踏をゆっくりと横切った。周囲の音がおかしい。街頭ビジョンから流れるニュースキャスターの声が、一瞬だけ重なり、あるいは逆再生のような電子音に化ける。「本日の……じ、じじ……天気は……は、は……」

 スピーカーが壊れているのではない。音声を生成する「世界の意志」そのものが、誠の存在というノイズをフィルタリングしきれず、吃音きつおんを起こしているのだ。


 人々もまた、その影響から逃れられずにいた。

 誠の数歩先を歩いていた二人組の女性が、全く同じタイミングで、全く同じ角度で首を傾げた。まるで鏡合わせのように、一寸の狂いもない同期。彼女たちはそれに気づかず、再び同時に右足を踏み出し、同時にあくびを噛み殺す。個としての意志が、世界の「再同期プロトコル」に上書きされている。


 世界は誠というバグを封じ込めるために、周囲の人間を強引にテンプレート化し、予測可能な「部品」として統制しようと躍起になっていた。だが、その強引な統制こそが、新たな不協和音を生んでいた。


 誠は立ち止まり、駅ビルのガラス壁に映る自分を見つめた。そこには、一人の平凡な少年が映っている。しかし、その背後の風景は、水面に油を落としたように不気味に滲んでいた。


 かつて世界は、誠を消去しようとした。それが叶わないと知ると、今度は彼を「檻」の中に閉じ込め、静かに管理しようとした。そして今、その檻の壁さえもが誠の毒によって腐食し、世界はパニックを起こしている。もはや誠は、一つの個体ではない。彼が歩む場所、彼が見る景色、彼が関わる可能性のあるすべての要素が、世界にとっての「観測誤差」としてカウントされ、排除と修正の対象へと引き摺り込まれていく。


 誠は病院へと続く長い上り坂を見上げた。そこには、彼が唯一、世界のことわりから守り抜きたいと願った少女、瀬戸内栞がいる。


 誠は再び歩き出した。坂道の途中で、一人の老人が犬の散歩をしていた。老人が誠とすれ違おうとしたその時、老人の動きが不自然に「固定」された。足は地面を捉えたまま、上半身だけが前方へ数センチ、コマ送りのようにスライドする。老人が連れていた柴犬は、虚空を見つめたまま、吠えることもなく尻尾を一定のリズムで振り続けている。


 世界が、彼らを「隔離」したのだ。誠という特異点に接触し、因果が汚染されるのを防ぐために、世界は彼らの時間を一時的に凍結し、現実のレイヤーから切り離した。誠が通り過ぎ、数メートル離れたところで、背後から「カチッ」という音が聞こえたような気がした。振り返ると、老人は何事もなかったかのように散歩を再開している。彼には、自分が数秒間、世界から消し去られていた自覚など微塵もない。


 誠の周囲で起こることは、もはや単なるエラーではなかった。それは、世界による「焦土作戦」だ。バグを直せないのであれば、バグが触れるものすべてを、あらかじめ「無価値な空白」に置き換えてしまえばいい。そんな冷徹なシステムの判断が、透けて見えた。


 誠の視界に、病院の白い建物が入り始める。夕闇が迫り、窓から漏れる明かりが点々と灯りだしている。その建物の周囲だけ、空気の密度が異常に高まっているのを誠は感じ取った。まるで、巨大なまゆに包まれているかのような閉塞感。世界は、誠が最も関わりたいと願う場所、すなわち栞のいる病室周辺を、最も強固な「管理領域」として再定義していた。


(……来いよ。お前が何を守ろうとしているのか、僕に見せてみろ)


 誠は、病院の正門へと足を踏み入れた。その瞬間、彼の耳からすべての音が消えた。救急車のサイレンも、木々のざわめきも、自分自身の足音さえも。


 無音。それは、世界が誠に対して突きつけた、究極の拒絶反応だった。誠が病院の敷地に一歩踏み込むごとに、周囲の「人間」という存在が、まるで舞台装置を片付けるように、一人、また一人と姿を消していく。


 先ほどまでロビーに見えていた看護師の影が、瞬きをする間に消滅する。世界は、誠を隔離するのではない。誠以外のすべてを、この場所から「退避」させているのだ。


 誠は一人、無人のロビーに立ち尽くした。自動ドアは開いたまま、無機質なモーター音だけが微かに響いている。これは、僕と世界の一対一の対峙ではない。世界が僕という存在を恐れるあまり、自身の構成要素である「人間」を、ただの部品パーツとして無造作に切り捨てている、その残酷な過程の目撃だ。


 誠は、エレベーターのボタンを押した。指先に伝わる金属の冷たさだけが、自分がまだ現実に存在していることを証明していた。エレベーターの扉が開く。そこには、本来いるはずの誰の姿もなかった。


(……次は、世界が最も守りたい場所で試す)


 誠は、栞のいるフロアへと向かうボタンを押した。彼が守りたいのは栞だ。だが、彼が歩みを進めるほど、世界は彼女を「安全な虚無」へと追い込もうとするだろう。誰かを守るために、世界そのものを壊さなければならない。その矛盾に満ちた決意が、誠の瞳に鋭い光を宿らせた。


 エレベーターが静かに上昇を始める。誠の鼓動は、世界の軋みと不気味に共鳴し、加速していた。


 三階。扉が開く。

 そこは、本来なら夕食後の談笑や、ナースコールの音が絶えない場所のはずだった。しかし、誠の前に広がっていたのは、深い霧に包まれたかのような静謐な廊下だった。


 誠は、床を蹴る感触が不自然に柔らかいことに気づく。まるで、病院という概念だけを模した、精巧な偽物の上を歩いているような感覚。世界は誠の視界を「管理」するために、彼が接触する物質の解像度を極端に下げ始めていた。壁に貼られた入院案内や、消火器の影、それらすべてが、誠が目を向ける一瞬前に書き換えられたかのような、どこか瑞々しさを欠いた不自然な質感を持っている。


 彼は栞の病室、315号室へと向かう。

 途中の病室のドアはすべて、取っ手さえ描かれていない滑らかな板へと変わっていた。世界は、誠が寄り道をする可能性を、物理的に塗り潰している。誠の孤独は、彼が歩む一歩ごとに、世界の手によって精巧に研ぎ澄まされていく。


 だが、誠の目的はそこではない。


 315号室の前に立ったとき、誠は震える手でドアノブに触れた。


(もし、僕が触れた瞬間に、彼女が砂のように崩れてしまったら?)


 不意に、底の抜けたような恐怖が誠を襲った。世界はすでに僕という異物を排除することを諦め、僕の「周囲」を書き換えることで対処している。ならば、彼女に触れるという行為は、彼女という存在そのものを修復不能なエラーへと変質させてしまうのではないか。

 僕は彼女を救いたいのか。それとも、僕の執着のために、彼女をこの狂った因果の渦中へ引き摺り下ろしたいだけなのか。


 誠は、一瞬だけ目を閉じた。祈るような気持ち。それは、この不条理な戦いの中で彼が抱き続けてきた、唯一の「人間らしさ」だった。心臓の鼓動が、掌を通じてドアの金属に伝わっていく。たとえ世界が彼女を「無傷の模型」として保護しようとしても、僕は彼女の「不完全な生」を望む。


 意を決して、ドアを開ける。


 いた。


 夕闇の差し込む病室。ベッドの上で、瀬戸内栞は静かに眠っていた。だが、その光景は誠の目には異様に映った。


 彼女の寝顔は、あまりにも「美しすぎた」。

 頬の赤らみ、呼吸の間隔、枕に散った髪の毛一本一本の配置までが、黄金比に守られているかのように完璧に整っている。それは生物としての睡眠ではなく、世界という最高級の筆者が描き出した、一点の汚れもない宗教画のようだった。


 誠は、彼女のそばに歩み寄り、その手を取ろうとした。

 その時、彼の視界に「警告」が走った。


 彼女の身体が、一瞬だけ、デジタル・ノイズのようにブレたのだ。


(……世界は、彼女を『観測誤差の及ばない雛形』に書き換えようとしているのか)


 誠が彼女に触れようとする。その指先が、彼女の肌に届く数ミリ前で、空気が火花を散らす。パチッ、という鋭い音が響き、透明な斥力が誠の腕を押し戻そうとする。


 世界は誠に、彼女への「干渉」を禁じていた。誠が彼女に触れ、彼女という変数を再び因果の荒波に投げ込むことを、システムは断固として拒否している。誠は、その見えない障壁に指を押し当てた。指先が焼けるような熱さを感じる。だが、誠は手を引かない。


「……瀬戸内さん。聞こえるか」


 誠の声は、無人の廊下に虚しく響く。世界は彼女の「意識」さえも、誠から隠蔽しようとしていた。彼女は眠っているのではない。システムによって「最適化された停止状態」に置かれているのだ。彼女の時間だけが、この狂った世界から切り離され、永遠に劣化しないデータへと変換されている。


 誠は理解した。

 世界は誠を消すことも、制御することもできない。だからこそ、世界が取った次の手段は「誠が守りたいものを、世界そのものの部品にすること」だった。


 彼女を世界の歯車の一部として固定し、永遠に変わらない「安寧」という名の牢獄に閉じ込める。それが、システムが誠に突きつけた、最も非情な回答だった。誠の存在という不確定要素を、彼女という確定要素で相殺し、世界の均衡を無理やり保とうとしているのだ。


(お前は、彼女を救うために世界と戦っていると言ったな。ならば、彼女を殺してでも, その手を離さない覚悟があるのか?)


 黒スーツの男の声が、どこからともなく誠の脳内に響いた。それは皮肉を含んだ冷ややかな響きだった。誠は、歯を食いしばり、見えない障壁に全身の体重を預けた。


 彼の「空白」という存在が、世界の管理プログラムと真っ向から衝突する。病室の窓ガラスが、内側からの圧力に耐えきれず、細かなひび割れを刻み始めた。壁の塗装が剥げ落ち、その裏側に潜んでいたデジタルのグリッド線が露出する。


「……離すもんか。僕が決めたんだ。彼女を、お前たちの『部品』にはさせない」


 誠の叫びと共に、世界の均衡が崩壊した。


 病室の照明が爆発するように明滅し、スプリンクラーが誤作動を起こして、冷たい水が二人を濡らす。だが、その水さえも、地面に落ちる前にデジタル・ノイズとなって霧散していく。世界そのものが、自らの整合性を保てずに悲鳴を上げている。


 誠の手が、ついに栞の細い手首を掴んだ。

 その瞬間、栞が大きく目を見開いた。


 彼女の瞳には、誠の姿は映っていない。ただ、そこには無数の演算コードが奔流のように流れ込んでいた。だが、彼女の口から漏れたのは、世界のどの演算式にも含まれていない、生々しい「悲鳴」だった。その声が、静止していた彼女の時間を再び動かし始める。


 世界が、震えている。

 誠は、彼女を抱き寄せた。


 これは、救済ではないのかもしれない。彼女を、再び死の影が漂う、予測不能な地獄へと引き摺り下ろす行為だ。彼女が手に入れたはずの「永遠の平穏」を、泥臭い「生」へと汚染する。


 だが、誠は止まらなかった。世界が彼女を奪おうとするなら、世界ごと、彼女を奪い去る。病院の建物全体が、激しい振動と共に「位相」をズラし始める。誠の背後で、現実の壁が剥がれ落ち、その向こう側にある無機質な演算の海が露わになった。


 反逆は、最終フェーズへと突入した。


 誠は栞を抱えたまま、崩壊し続ける病院の廊下へと踏み出した。世界は、もはや誠を「観測」することさえままならない。誠という中心不在の現象が、世界の論理そのものを物理的な崩壊へと変換していた。


 廊下の先、霧の向こう側に、黒スーツの男たちが整列して待ち構えている。彼らの輪郭もまた、不安定に揺らぎ、時折欠損しては再構築される。誠は、不敵に笑った。


「……次は、世界が最も守りたい場所で試すと言ったな。それは、お前たちの『心臓』のことだ」


 誠の一歩ごとに、世界が、壊れていく。タイルの一枚一枚が虚空へと消え、代わりに誠の意志がそこを「自由」という名の空白で埋め尽くす。


 病院の外壁が崩落し、誠の視界に広がるのは、もはや慣れ親しんだ街並みではなかった。そこには、崩れかけの日常と、露呈し始めた世界の「骨格」が混ざり合った、異様な光景が広がっている。誠は腕の中の栞の重みを、世界の重みそのものであるかのように感じていた。


 そして、その破片の中から、真実の運命が形を成そうとしていた。

 世界との対等な交渉は終わった。これからは、一方的な侵食が始まる。


 羽島誠は、崩壊する病院の最上階から、夜の深淵へと視線を向けた。

 その瞳には、もはや恐れも、迷いもない。

 ただ、守り抜くと決めた意志が、冷徹な炎となって燃え上がっていた。


 街中の明かりが、一斉に消えた。

 完全なる闇の中、誠の腕の中にある少女の鼓動だけが、新たな世界のカウントダウンを刻み続けていた。

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