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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
完全な他人になるまで

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第26話:強制執行(プロトコル・コード)

 黒スーツの男が消えた直後、街の時間は何事もなかったかのように再起動した。


 静止していた歩行者の影が伸び、遠くの救急車のサイレンが再び空気を震わせる。誠の周囲を覆っていた真空のような静寂は、日常の喧騒という名のヴェールによって一瞬で塗り潰された。人々は再び誠という「空白」の横を、何ら変わることのない無関心さで通り過ぎていく。


 だが、誠だけは理解していた。再起動したこの世界が、昨日までのそれとは決定的に異質なものに変質していることを。


 誠が歩き出すと、世界は驚くほどに従順だった。

 彼が交差点に差しかかれば、信号は迷うことなく青に変わる。彼が狭い歩道を進めば、向こうから来る人々は磁石の同極同士が反発するように、絶妙なタイミングで進路を譲る。足元には空き缶一つ落ちておらず、頭上の看板が不意に揺れることもない。


(……整いすぎている)


 それは、もはや「偶然」という言葉では説明がつかないほど、徹底的に磨き上げられた平穏だった。世界は誠に、一切の障害物を提示しなかった。同時に、一切の「選択」も提示しなかった。彼が進むべき道、彼が踏むべきタイルの一枚一枚にまで、世界が先回りして「安全」という名の絨毯を敷き詰めている。


 誠は立ち止まり、背後のガラス窓に映る自分の影を眺めた。

 これは、自由を許されたのではない。世界は僕を罰していないし、消そうともしていない。ただ、「危険因子を安定状態に固定する」ために、僕の行動半径からあらゆる不確定要素を排除しているのだ。


 世界という巨大なシステムを維持するために、最も慎重に扱わなければならない「壊れやすい装置」。それが今の僕の定義だ。囚人ならば、まだ脱走の余地がある。だが、装置として組み込まれた以上、僕が機能し続ける限り、この檻から出ることはできない。


 誠はあえて、用意された「最適解」を拒絶してみることにした。大通りを外れ、街灯の届かない薄暗い裏路地へと足を踏み入れようとした。


 その瞬間、世界が剥き出しの牙を見せた。


 視界が激しく明滅し、「不快」という名の、実体のない壁が立ちふさがる。

 キィィィン、という耳鳴りが脳の奥を突き刺し、心拍数が異常なほど跳ね上がる。視界の端にはデジタルの砂嵐のようなノイズが走り、一歩進むごとに、胃を掴まれるような嘔吐感がせり上がってきた。


 ふと視線を上げると、異様な光景が広がっていた。

 それまで滑らかに動いていた数人の通行人が、ビデオテープのバグのように、全く同じ姿勢のままピタリとフリーズしている。一人は足を上げたまま、一人は鞄に手をかけたまま。彼らの背後にあるコンビニの電子看板だけが、異常な速度で色彩を点滅させていた。


「くっ……!」


 誠が裏路地から足を戻し、元の大通りへと視線を向けた瞬間、フリーズしていた人々は何事もなかったかのように動き出し、耳鳴りも霧散した。

 世界は直接、誠を止めはしない。ただ、彼が「最適解」以外の道を選ぼうとすると、その瞬間に、生存そのものが苦痛になるほどのコストを課してくるのだ。


 それは、暴力よりも遥かに洗練された、魂の去勢だった。


 誠は、自分を囲むこの見えない檻の限界を探るため、今度は「無意味」という名の抵抗を試みた。目的地もなく遠回りをし、何も起こらないコンクリートの壁を十分間も見つめ続ける。

 すると、世界の「最適化」が、次第に悲鳴を上げ始めた。誠の非効率な行動を処理するために、周囲の因果が目に見えて滞り始めたのだ。自転車のチェーンが外れる音が連続し、救急車のサイレンがループ再生のように同じ音程を繰り返す。


 ふと見上げると、街頭の防犯カメラが、カチカチと音を立てて誠の座標を追いかけていた。一つではない。視界に入るすべてのレンズが、意志を持った瞳のように誠を凝視している。


 管理とは、選択肢を奪うことではなく、「選びたい」という意志を磨り潰す構造。

 そしてそれは、羽島誠がこの世界で最も嫌悪する支配の形だった。かつて彼が、透明な存在としてただ「そこにいること」を強要されていた日々の、究極の完成形。


(じゃあ、壊す前に、学ばせてもらうよ)


 誠は静かに呟いた。

 この閉じた世界、完璧に整えられた箱庭。その構造を理解し、世界の管理が「想定していない負荷」を見つけ出すこと。そのためには、自分一人で完結する行動だけでは足りない。


 誠は、再び歩き出した。今度は、世界が提示した「最適解」のルートに乗りながら。だがその内側では、システムの裏をかくための致命的な計画が芽吹いていた。


 世界が僕を「一人」として管理しようとするなら、僕が「誰か」に関わり、その人間の因果を僕の異常性に巻き込んだとき、世界は一体どんな顔をするだろうか。


 脳裏に、栞の笑顔が浮かぶ。

 ……その瞬間、誠の指先がかすかに震えた。

 自分の反逆のために、彼女を再び「実験台」にするのか。彼女を人質に取っているのは世界の方だ。だが、その引き金を引こうとしているのは、自分ではないのか。


 不意に襲いかかってきた底の知れない恐怖。

 しかし、誠はその震えを、自らの拳の中に強く握りつぶした。

 借り物の平穏を甘受して、彼女が世界の「部品」として幸福に死んでいくのを待つことなど、僕にはできない。


 誠は、病院へと向かう足を速めた。

 視線の先で、監視カメラのレンズが不気味に赤く発光する。世界は誠の決意を察知したかのように、さらに強いノイズで彼を押し戻そうとする。


 だが、誠はもう止まらなかった。不快感も、恐怖も、すべては自分が「生きている」ことの証明として、血肉に取り込んでいく。


 反撃は、まだ始まっていない。

 だが、誠は今、確かに世界という盤面をひっくり返すための「最初の一手」を、自らの意志で打ち込んだ。


 羽島誠は、夜の街へと消えていく。

 その背中には、もはやかつての少年の面影はなく、世界という構造そのものを脅かす「最悪の変数」の輪郭が、鮮烈に浮かび上がっていた。

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