第25話:未定義の変数(アンデファインド・バリアブル)
世界が、僕を「測って」いる。
その確信があったからこそ、夜の街を歩く羽島誠の肌をなぞる実体のない視線は、耐え難いほどの生々しさを持って彼を侵食していた。それはこれまでの「消去しようとする殺意」とは似て非なるものだ。もっと冷たく、個人の尊厳を一片も認めない、剥製師のような執拗なまでの観察眼。
吐き気がするほどの不快感だった。街灯の明滅一つとっても、そこには僕の視神経がどう反応するかを確かめるような意図が透けて見える。これまでの『フェーズ1』が、バグを力ずくで消し飛ばす「自動修正」だったのだとすれば、今はもう次の段階へ移行しているのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。
『フェーズ2』。それは能動的な管理だ。
世界は僕を消すことを一旦棚上げし、僕という異物がどのような論理で動き、何を優先し、どの程度の負荷で心が折れるのかを、冷徹にプロファイリングし始めている。
(……見ろよ。好きなだけ、僕を解剖してみろ)
誠は、わざと深夜の駅前、最も因果が複雑に絡み合う場所へと足を進めた。彼の存在は依然として「空白」であり、誰の視界にも入らない。だが、彼が歩道の一歩を刻むごとに、世界の歯車が不自然な摩擦音を立てて噛み合うのを誠は感じ取っていた。
視界の端で、因果の種が蒔かれる。
歩きスマホをしている若い女性。その足元、数歩先に転がった飲みかけの缶コーヒー。
幾千ものループで見てきた光景だ。誠の視界には、その「小さな不運」が招く悲劇の連鎖が、完成された設計図のように展開される。
僕が缶を避ければ、その缶を次に踏むのは背後の自転車だ。自転車は転倒し、車道の深夜バスが急ブレーキを踏む。その反動で車内の誰かが命を落とす可能性が高い。逆に僕が放置すれば、女性が転び、その不運の波紋は数キロ先の病院に届き、栞の容態を確実に悪化させる。
それは、世界が僕に突きつけた「天秤」だった。
他人の命か、栞の安寧か。僕がどちらの価値観に重きを置く個体なのかを判定するための、冷徹な『テスト』。
(選ばされている時点で、支配されているのと同じだ)
誠は、そのどちらの選択肢も、紙屑のように投げ捨てた。
彼は女性を助けるために缶に触れることも、彼女を見捨てることもせず、ただ、彼女が踏み出すはずの「地面」そのものに意識を集中させた。
誠が「空白」という自らの存在から、一滴の毒のように、微細な『視覚的違和感』を現実へと投影する。
物理的な接触はない。因果の連鎖にも指一本触れない。
ただ、彼女の網膜にだけ「そこに段差がある」という偽の情報を、街灯の光を屈折させて滑り込ませたのだ。
それは誠が初めて、世界のルールに従わず、自らの意志で現象の『前提』を書き換えた瞬間だった。
女性は無意識に歩幅を広げ、缶を避けて通り過ぎた。
その瞬間、世界が激しく拒絶反応を示した。
ジジッ、と街灯の明滅が一拍だけ遅れる。近くを歩いていたサラリーマンが、不自然に同じ場所で足を数回踏み鳴らし、まるで再生の途切れた映像のように動きを止めた。あらかじめ用意されていた「バスの急ブレーキ」も「栞への悪影響」も、発動のきっかけを失い、演算の海の中で行き場を失って霧散していく。
世界の処理が、露骨なまでに遅延を起こしていた。
誠の行動は、観測者が用意していた「二択」のどちらにも属さない、未定義の回答だった。
(……計算が狂ったか。ざまあみろ)
誠は、空っぽのベンチに座り、周囲を見渡した。監視の視線が、それまでとは比較にならないほど過密化していく。街中の監視カメラが、まるで生き物のように、誠のいる座標へとレンズを集中させていた。
誠はもはや、世界にとって「単なるバグ」ではない。
予測不可能な挙動を繰り返す「未定義の変数」として、最重要監視対象へと格上げされたのだ。
不意に、周囲の音が消えた。駅前の喧騒は続いているはずなのに、誠の周りだけが真空のように静まり返っている。
そこに、人がいた。
黒いスーツに、表情を読み取らせない無機質な瞳。これまで影としてしか存在を許されなかった「彼」は、もはや隠れることもせず、誠の正面に立っていた。
男は、誠をじっと見つめた。そこには殺意も、憎しみもない。ただ、顕微鏡で微生物を観察する科学者のような、冷徹で事務的な関心だけがあった。
「……観測完了」
男が口を開いた。声ではない。誠の思考の中に直接、デジタル信号のような響きが叩き込まれる。
「個体名:羽島誠。修正段階(フェーズ1)を終了。修正は不要。最適化段階(フェーズ2)へ移行」
男の言葉は、誠の存在そのものを定義し、固定していく。誠は立ち上がろうとしたが、身体が圧倒的な「権限」の前に、石のように動かなかった。
「……次は、管理する」
男の短い言葉。消されないということは、許されたということではない。誠がこの世界にとって「修正すべき間違い」ですらなくなり、システムを円滑に運用するための、巨大な檻に閉じ込められたことを意味していた。
男の姿が、ノイズと共に消える。
金縛りが解けた誠は、激しい呼吸を繰り返しながら、自分の震える手を見つめた。世界という巨大なシステムの盤上で、最も危険な「駒」として認識された。その代償が、これからの自分を縛り付けることになるだろう。
誠は、夜の空を見上げた。月は依然として美しく、冷たい。
だが、今の誠の瞳には、その月を映し出す空の「裏側」にある、無数の演算の回路が見えるような気がしていた。
自分はもう、光の当たる場所に戻ることはない。
誠は、自分を追跡し続ける無数の監視カメラのレンズに、一度だけ鋭い視線を向けた。
静まり返った街の中で、誠の影だけが、長く、鋭く伸びていた。
反撃は、まだ始まっていない。だが、もう止まることもない。




