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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
彼女が死ぬ世界の始まり

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第2話:彼女が死んだ理由は語られない

窓を叩く風の音が、6月10日の朝を告げていた。

羽島誠は、意識が浮上すると同時に、枕元のスマートフォンを掴んだ。

画面を点灯させ、メッセージアプリを開く。


一番上に表示されているはずの「瀬戸内栞」の名前は、トーク履歴のどこにもなかった。

検索欄に彼女の名前を打ち込む。

『該当するメッセージはありません』


無機質なテキストが網膜を突き刺す。誠は短く息を吐き、端末をベッドに放り出した。

枕に残った微かなシャンプーの残り香だけが、かつて彼女がここにいた証明として、虚しく鼻腔をくすぐっている。


「……知っていたさ」


誰に聞かせるでもなく呟き、洗面所へ向かう。鏡の中の自分は酷く疲弊していたが、その瞳には諦めきれない執念が宿っていた。


学校へ続く通学路。道端に咲く紫陽花の色も、通り過ぎる自転車のブレーキ音も、前の周回と完全に一致している。

校門の近くで、見慣れた後ろ姿が映った。

緩く波打つ髪。歩くたびに微かに揺れる銀色のピアス。栞だ。


彼女は友人と談笑しながら校舎へと向かっている。誠は歩調を緩めず、彼女の横を通り抜けようとした。

「あ……」

栞が声を漏らし、足を止めた。誠の心臓が、痛いほど跳ねる。


「あの、昨日はすみませんでした」


栞は丁寧に頭を下げた。そこにあるのは親愛ではなく、見知らぬ他人に不審な行動を取ったことへの社交的な謝罪だ。


「いきなりお部屋にお邪魔しちゃって。私、どうしてあそこにいたのか思い出せなくて。混乱して、ひどいこと言っちゃいましたよね」

「……いや。気にしていない」


誠の声は硬かった。彼女は誠をじっと見つめ、不思議そうに首を傾げた。

「えっと、羽島、さん……ですよね。名札で見ました。あの、羽島さん。私、どこかでお会いしたことありましたっけ?」

「……どうして」

「なんだか、すごく懐かしい感じがして。変ですね」


彼女は小さく笑い、校舎へと走っていった。誠はその背中を凝視する。

完全消去ではない。魂の深い場所に、彼女はまだ僕を覚えている。

その微かな感触が、誠の指先に力を籠めさせた。


2時間目の休み時間。誠は廊下の水飲み場にいた。

蛇口を捻り、冷たい水で喉を潤す。ふと顔を上げると、理科準備室の前で重そうな段ボール箱を抱えた栞が、足元をおぼつかなくさせていた。


「手伝うよ」


誠は迷わず歩み寄り、彼女の手から箱を奪うようにして持ち上げた。

「あ、羽島さん! ありがとうございます。これ、地学の資料で……結構重いんですよね」


二人は並んで準備室まで歩いた。

「羽島さんって、いつもタイミングがいいですね。さっきも数学のノートを忘れたところを友達に貸してもらえたりして。今日はなんだか、誰かに守られてるみたいな気分なんです」


「……そうか」

「あ、そうだ。羽島さん、地学好きですか? 私、星の話とか結構好きで」

「……嫌いじゃない」


誠は短く答えた。彼女が自分に対して「警戒」ではなく「興味」を抱き始めている。

その事実が、凍りついていた誠の心を少しずつ溶かしていく。

以前の周回よりも、もっと自然に、もっと深く関われるのではないか。

そんな甘い期待が、誠の判断を鈍らせていた。


昼休み。誠は購買へ向かった。

栞がいつも選ぶ「イチゴオレ」を先回りして買おうとしたが、その寸前で手を止める。

不自然な介入は、彼女に不審感を抱かせる。誠は彼女が次に伸ばそうとしたパンを避け、一歩引いて見守った。


「あれ、今日はイチゴオレの気分じゃないかも。こっちのリンゴジュースにしよ」


栞は無意識に、前回とは違う選択をした。

誠の介入がない場所で、彼女の行動に微かな揺らぎが生じている。

だが、その後に彼女が誠の隣に並び、リンゴジュースのパックを軽く振ってみせた。


「羽島さん、さっきの箱のお礼です。一口いりますか?」

「……いいよ」

「ふふ、遠慮しなくていいのに」


彼女の距離が近い。以前の周回にはなかったはずの、新しい日常の断片。

誠は確信した。救える。

今度こそ、彼女との関係を別の形に変えて、あの運命から引き剥がすことができるはずだ。


放課後、誠は校門の近くで彼女を待ち伏せ、声をかけた。

「瀬戸内さん。駅前の交差点、工事が始まるらしい。……あそこは通らないほうがいいよ」

「え? そうなんですか? 知らなかった。教えてくれてありがとうございます、羽島さん」


栞は素直に頷き、輝くような笑顔を向けた。

「ありがとう」

名前は呼ばれない。だが、信頼がゼロから芽生えようとしていた。


帰宅した誠は、壁のカレンダーを凝視した。

17日の欄に、前回つけた赤い印が残っている。

だが、その隣。20日の欄に、覚えのない黒い数字が浮き上がっていた。


『16:42』


誠は即座にスマートフォンの時計と照らし合わせた。

前回の事故は15時過ぎだったはずだ。1時間以上のズレ。

「……固定じゃないのか」


彼は指先でその数字をなぞった。

黒いインクは、まるでカレンダーの紙を浸食する黒カビのように、じわりと不吉な存在感を放っている。

文字は誠の筆跡ではない。かといって、栞の筆跡でもない。

まるで、この世界の「意志」が直接書き込んだような、無機質な書体。


誠は息を呑んだ。

視界の端で、部屋の空気がわずかに歪んだ気がした。

交差点を避けさせようとした自分のアドバイス。

それによって彼女が選ぶはずだった「安全なルート」。

しかし、世界はそのルートの先に、新たな「死の舞台」を用意したのだ。


直後、クラスのグループチャットに通知が入る。

『19日の放課後、美術部の集まりで駅裏の資料館に行くことになった』


駅裏。

誠の通学路からも、彼女の帰宅ルートからも外れた場所だ。

資料館へ行くには、交通量の多い裏通りを通らなければならない。

誠が教えた「工事中の交差点」を避けた結果、彼女はこの新しい死の候補地へと誘導されたのだ。


誠は立ち上がり、壁に貼った地図を指で辿る。

資料館、16時42分。

夕暮れ時。視界が悪くなる時間。

狭い道。

逃げ場のない場所。


誠は、自分の手が激しく震えているのに気づいた。

自分が彼女に親切にすればするほど、世界は彼女をより巧妙な、より手の届かない罠へと追い込んでいく。

彼が「善意」で投げた石が、波紋を広げ、最終的に彼女の頭上へ巨大な岩となって降り注ぐ。


介入すればするほど、状況は悪化していく。

彼は、自分が救済者ではなく、死神の共犯者に成り下がっているのではないかという恐怖に襲われた。

カレンダーの黒い数字が、まるで脈打つように誠を凝視していた。


翌日の帰り際、誠は校門を出たところで栞と再び顔を合わせた。

「あ、羽島さん。さっきはありがとうございました。おかげで変な道を通らずに済みました」

彼女は屈託のない様子で手を振る。その危うい姿に、誠の自制心が音を立てて崩れた。


積み上げてきた「希望」が、焦燥へと変わる。

自分の中に溜まった、彼女への呼び名。

彼女との記憶。

それを一つでも共有できれば、この呪われた連鎖を止められるのではないか。


「……栞」


かつて、何度も呼び合った大切な響き。


栞の足が、ピタリと止まった。

彼女はゆっくりと振り返る。

その瞳に浮かんでいた親愛の灯火は、一瞬で深い拒絶へと塗り替えられた。


「……どうして、私のこと、そんなふうに呼ぶんですか?」


「あ……」

「昨日の今日で、そんな……。ごめんなさい、やっぱり少し怖いです」


彼女は震える声で言い捨て、逃げるように去っていった。

二度と誠の顔を見ようとはしなかった。


部屋に戻った誠は、暗闇の中でカレンダーを見つめた。

赤い印。黒い数字。

彼が彼女に触れようとするたびに、彼女は彼を恐れ、世界は彼女を死へと近づけていく。


救うほどに、関係が壊れていく。

助けるほどに、彼女は彼を恐れていく。


窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。

その雫が窓ガラスを叩く音だけが、誠の孤独を強調するように響き続けている。


「世界は、まだ何も許していなかった。」

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