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後編


 放課後を告げるチャイムが校内に鳴り響く。

 担任の号令を切っ掛けに解放された生徒達は、早々に遊びに出掛けたり部活動に向かったりと各自好きな行動を取り始めた。

 しかし、そんな中で自由を得られないのは掃除当番の生徒である。

 一週間ごとの交代制度により本日から掃除当番である萌は、同じ仕事を任されたクラスメイト達と共に教室隅のロッカーから使い古された箒を取り出した。

 

「今日、これから雨降るらしいよ?」

「うっわマジかよ! さっさと終わらせようぜ」


 女子生徒の話を聞いた男子生徒が顔を顰め、持っていた箒でざかざかと乱暴に床を掃く。

 すると、目にもうっすら見える程の埃が舞い上がった。

  

「ちょっとー! 埃上げないでよ!」


 制服や髪に埃が付くのを気にした女子生徒が非難の声を上げる。と、傍でこほこほと咳き込む声が聞こえてきたのでつい其方に目線を向けた。


「芽吹さん、大丈夫?」

「う、うん……だ、大丈夫だ、よっ」


 心配そうに自分を見る女子生徒に、萌は背中を軽く丸めて咳き込みながらも笑ってみせる。

 しかし、咳は一向に止まる気配が無い。寧ろどんどん勢いと回数を増していき、萌の呼吸に隙間風のような音が混ざり始めた。

 それを見ているクラスメイト達の間に「ちょっとヤバいんじゃね?」的な空気が流れ出す。

 そして、見かねた一人の女子生徒が声を掛けようとした時、


「……かはっ」

「うわああっ! 芽吹さんが倒れたっ!!」

「おい、誰か先生呼んでこい!」


 遠のく意識の中でざわめくクラスメイト達の声を聞き、床に倒れ伏したままの萌は(ああ……ごめんなさい、ごめんなさい……!)と平謝りを繰り返しながら、ゆっくりと気を失っていく。

 そして、萌が次に気が付いた時には、


「……ぬう?」


 ゆらゆらと穏やかな揺れに身を任せていた。

 視界に流れる景色は教室ではなく普段歩き慣れた通学路で、しかし、自分の両足は地面に付かず宙にぷらぷらと浮いている。

 今の自分が置かれている状況が分からない萌がぼんやりとしていれば、不意に視界に映っていた景色の流れが止まった。


「お、起きたか」

「あー……ヴァン兄さん……」

「誰が兄さんだ。つーか埃に負けてんじゃねえよ、もやし娘が」


 肩越しに萌を振り返ったヴァンは、呆れ顔を浮かべたままゆさゆさと背中を揺らす。

 その緩やかな振動で意識がはっきりとした萌は、自分がヴァンに背負われていることに気付き、次いで何故こんな状況になっているのかも大方察し、はあっと溜め息をつくと目の前の背中に顔を埋めた。


「うっかりしてたー……マスクするの忘れてたー……」

「ちゃんと着けておかねえと駄目だろ。お前、守備力皆無なんだからよ」

「だよねえ、装備品は着けなきゃ意味ないよーってね。あーあ……明日皆に謝らないとなー……」


 ぼやくように言って、萌は何げなしに空を見上げる。

 すると、其処にはどんよりとした濃い灰色の空が広がっていた。

 今にも雨が降り出しそうだと思った萌の鼻先に案の定、冷たい滴がぽつりと落ちてきた。


「ヴァン、雨降ってきた」

「あ? んじゃ転移魔法を……」

「魔力酔いしたくない。ほら、走って走って」


 紅い瞳を妖しく光らせたヴァンの言葉を遮った萌は、抱えられている両足を揺らして腰の辺りをぱしぱしと軽く蹴ってみせる。

 魔法の発動を邪魔された挙げ句、馬扱いされたヴァンは頬を引きつらせたが、その間にも雨粒が鼻先や額に当たり始めていたので一旦怒りは治める事にした。


「ったく、しっかり掴まってろよ?」

「おーらいっ」


 呆れながらも応えてくれたヴァンに萌は無邪気な笑顔で返事をし、言われた通りしっかりと抱きついた。

 広い背中に擦り寄せた頬からは温もりが伝わってくる。


(……あったかい)


 その心地よさに、萌はそっと目を細めて身を任せた。


「……あ、やばい、酔った」

「結局酔ってんじゃねえか! せめて家まで我慢しろ! 頼むから!!」


 ***


 ピピッと小さな電子音が鳴った。

 萌は脇に挟んでいた電子体温計を緩慢な動きで取り出し、液晶画面に表示された数字をちらりと一瞥してから、枕元に座って自分を見下ろしているヴァンに其れを手渡した。

 電子体温計を受け取ったヴァンは同じように数字を確認すると眉を顰め、熱に目を潤ませている萌の頭を静かに撫でた。

 

「……悪い、やっぱり転移魔法使っとくべきだったな」

「やー……今回は私のわがままが原因だよー……」


 萌は赤らんだ顔をふにゃりと緩ませる。

 あれから結局二人は、家に到着する前に本格的に雨に降られてしまった。

 萌を濡れたまま放置すれば風邪をひくのが目に見えていたので、ヴァンは帰宅早々に風呂に入れて蜂蜜生姜入り紅茶を飲ませて毛布に包み、どうにかして最悪の事態を回避しようと試みたのだが、その結果は今の萌を見れば明白である。


「それに普通はさ、あれくらいじゃ風邪ひくわけ、ないもん」

「……でも、よ」

「ねえ、ヴァン、喉かわいた。何かちょーだい?」


 明らかに責任を感じている様子のヴァンに吸血鬼の気高さは無く、萌は思わず苦笑して話題を変えようと飲み物を強請る。

 突然のその要求が自分を気遣ってのものだとヴァンも直ぐに分かったが、敢えてその事を表に出さずに「待ってろ」と小さく笑って部屋から出ていった。

 そうして、自分一人になった部屋で大人しく寝ているしかない萌は天井を見つめる。吐き出す息が熱くて、まるで炎を吐いているようだった。


(……はやく、戻ってこないかな)


 目を瞑って耳を澄ましてみる。

 ヴァンがいるであろうキッチンの方からは冷蔵庫を開ける音が聞こえて、それから何か切る音がし始めた。

 どうやら何かを作っているらしく、その音が聞き覚えのある事に気付いた萌はくすっと小さく笑う。

 そして、暫く待っていれば作業音は止み、足音と共にヴァンが戻ってきた。その手には氷の入ったコップが握られている。


「ほら、起きれるか?」

「ん……」


 枕元に腰を下ろしたヴァンは萌の背中に片手を添え、ゆっくりと体を起こさせてやる。

 そして、持ってきたコップを手渡した。

 コップを受け取った萌は「ありがと」と力無い笑みを浮かべて、うっかり落とさないようにしながら口を付ける。

 細い喉がこくこくと小さく上下するのを見たヴァンは少し安心したようだった。


「……ん、相変わらずおいしいね。ヴァンの作るレモネード」

「そうか? でも前からお前、これは風邪ひいても全部飲むもんな」

「うん、おいしいもん」


 そう言って、冷たいレモネードを飲む萌は本当に嬉しそうだった。

 ヴァンはそれを何処か擽ったく感じながら眺める。

 コップ一杯のレモネードは直ぐに無くなり、空になったコップをヴァンに返した萌は満足そうな様子で再び布団に横たわった。

 起き上がった際にはだけた掛け布団を胸元まで引き上げてやりながら、ヴァンは眉間に僅かな皺を寄せる。


「……なあ、病院行くか?」

「やーだ、薬まずいもん」

「不味くても飲んだ方が治りは早いだろ?」


 難しい顔のままヴァンは至極真っ当な意見を言う。

 しかし、萌は不服そうに唇を尖らせた。


「薬のんだら、血がまずくなる」

「そうだけどよ……」

「それは嫌だもん。ちゃんと寝て治すから、まってて」

「……萌」

「あと、起きたらご飯もちゃんと食べる。うどんがいい。よろしく」

 

 少し早口でそう言った萌はヴァンから顔が見えない方向に寝返りをうち、そのまま黙り込んだ。どうやら本格的に睡眠を取る事にしたらしい。

 こうなってしまっては話す余地が無いことを知っているヴァンは溜め息をつき、萌の頭を一撫でしてから静かに部屋を出た。

 

(……馬鹿だよなあ)


 キッチンで使ったコップを洗いながら、ヴァンは目を細める。

 薬を飲んだところで血の味に影響するのはたった数日だというのに、萌は風邪をを引く度に病院へ行くのを頑なに嫌がって自力で治そうとする。

 当然ながら萌のひ弱な体がそれで風邪に打ち勝てる筈も無く、結局は毎回ヴァンが無理やり病院に連れて行っては機嫌を損ねさせるのだが健康には代えられない。

 今回も同じパターンになるんだろうな、とヴァンは苦笑しつつ思い、洗い終わったコップを棚に戻すと取り敢えず萌の要望であるうどんの汁を作り始めた。


 ***


「ごちそうさま……」

「おー、頑張ったな」 


 半分近く減った器の中のうどんを見たヴァンは満足そうに頷く。

 下手をすれば普段よりもしっかりと食事を取った萌は、重くなった胃を刺激しないように静かに呼吸をしつつ、得意げに親指をびしっと立ててみせる。

 しかし、顔色はまだどう見ても健康とは言えず、ヴァンは萌の背中を優しく撫でてやりながらその顔を覗き込んだ。


「んじゃ、腹が落ち着いたらまた寝てろ」

「……え?」


 熱で潤んだ萌の目がきょとんと見開かれる。

 そして数回瞬いた後、ヴァンの袖を掴んで小首を傾げた。 


「でも、ヴァンは……?」

「俺はいいって」

「だめ!」

「おわっ!?」


 少し擦れた大声と共に袖を掴む力が強くなったと思った途端、ヴァンは布団へ勢い良く引き倒された。

 頭を打った衝撃に少しくらりとしたが、それ以上に予想外且つ衝撃的な事をしてきた萌に堪らず文句を言おうと口を開きかける。

 が、その前にすかさず萌はヴァンの腹に跨がり、ヴァンが「うぐっ!?」と一瞬息を詰まらせた隙に、自分のパジャマの襟刳りをぐいっと引っ張った。

 露わになった萌の首筋は白く、薄い肌の下では青い血管が脈打っている。 


「ーー……っ、あ……」


 それを見たヴァンの心臓は、どくりと跳ねた。


「ほら、ヴァン……おいしそう、でしょ?」


 無理な動きをした所為で乱れた呼吸を整えながらも萌はパジャマのボタンを外していく。

 細い指がボタンを外していく度に甘美な匂いは強くなり、萌の首筋から目が離せなくなっているヴァンの鼻孔を擽っていった。


「あ、う……」


 一気に渇きが酷くなり、自然と喉が鳴る。

 そんなヴァンの様子に萌は妖しい笑みを浮かべると、熱で火照った体を擦り寄せるように上体を倒す。

 そして、自分の首筋を目の前で撫でてみせた。


「ね……吸いたいんでしょ? ヴァン、ほら……」


 ーーおいしいの、あげる。

 

 耳元で囁かれた言葉の熱が、ヴァンの理性を一瞬で焼き切った。

 そして、萌が声を上げる間も無いままに二人の位置はぐるりと入れ替わり、気が付けば萌は布団に体を縫いつけられるように強く押し倒されていた。

 先程まで自分を戸惑いながら見上げていた紅玉の瞳が、今では余裕無く自分を見下ろしているのを見て、萌は心から嬉しそうな笑顔を浮かべる。

 

「っ、萌……」


 凶悪とも言えるほどの魅力を放つ目の前の獲物。

 魅惑的な香りに酔ったヴァンは抗う事もせず、惜しげもなく晒された萌の首筋へと顔を寄せる。

 食欲に濡れた唇を歪めれば白く尖った牙が煌めき、その牙をヴァンは青白く滑らかな皮膚に躊躇い無く突き立てた。

 

「ん、あっ……」


 萌が小さく身動いで声を漏らすも、求めていた血の味に溺れているヴァンには届かない。五臓六腑を満たしていく甘美に頭の奥がじんと痺れる。

 牙をゆっくりと抜き、傷口から滲む血すらも惜しいと舐め取った時、ふと視界の端に入った物にヴァンは動きをぴたりと止めた。


(器……うどん……)


 恐らく最初にヴァンが押し倒された時に器がひっくり返ったのだろう、畳の上でうどんが無惨に散らかっていた。

 出汁の利いた汁が畳に染み込んでしまっている。

 生活感が溢れたその光景にヴァンの理性はゆっくりと戻ってきた。


「……え? あれ?」


 ぱちぱちと目を瞬かせるヴァンに数秒前までの威圧感は無い。

 一体自分は何をしていたのかと朧気な記憶を探っていれば、体の下で何かが蠢いた気がして、ヴァンはつい視線を其方に向ける。

 そして、これでもかと両目と口を大きく開くと、確実に近所に響き渡る声量で叫んだ。


「な、何で白目剥いて気絶してんだ!? しっかりしろ、萌ーっ!!」


 ***


「……で? 何であんな事をしたのか説明してもらおうか?」

「…………」


 布団の上で正座をする萌を、腕を組んだヴァンは半目で睨み付ける。

 あの後、ヴァンは病院に行く手間すら惜しいと判断し、普段は双方の負担が大きいので極力やらないのだが、気絶していた萌の体調を魔力で強制的に回復させた。

 そして今、それを行わせたという事も含めてヴァンは説教モードに入っているのだが、萌は俯いたままで一向に口を開こうとしない。

 そんな萌に痺れを切らしたヴァンが、思わず大声を上げようとした時、


「……た、から」

「え?」


 ぼそりと呟かれた言葉が聞き取れず、ヴァンは目をぱちくりと瞬かせる。

 すると、俯いていた萌の顔が勢い良く上げられた。

 その顔は熱があるかのように真っ赤に染まっていて、まさか風邪がぶり返したのかとヴァンが慌てかけたが、それは次に萌が発した言葉によって未遂に終わった。


「夢の中で! ヴァンが『血を待っていられない』って言って、どっか行こうとしたから! だから飲ませようとしたの!! 分かった!?」


 先程のヴァンの絶叫すら霞むほどの大声で一気にそう言い切った萌は、お約束とも言える息切れを起こしてごほごほと噎せ始める。

 一瞬ぽかんとしていたヴァンだったが、萌の苦しそうな咳の音で直ぐに我に返り、丸まった背中を撫でてやりながらその顔を覗き込んだ。


「……え? じゃあ何、お前、その夢で不安になったからあんな事したのか?」

「っ、あー……咳つらいなー……」

「俺に何処か行ってほしくないからって? あんな事したのか?」

「腹筋も痛くなるし、上手い咳の仕方ってないかなー……」


 咳をする最中でもつらつらと言葉を紡ぐ萌は、自分の顔を覗き込んでくるヴァンと目線を合わせようとしなかった。が、普段よりも血色の良い頬が全てを物語ってしまっている。

 そんな萌にヴァンは堪えきれずに頬を緩ませ、こみ上げる感情を発散させるかのように、萌の頭をわしゃわしゃと撫で回してから抱き締めた。


「あー! お前、たまにものすっごい可愛いから困るんだよ! 馬鹿か!」

「……馬鹿って言う方が馬鹿なんですよー」


 恥ずかしさから素っ気ない口調で返す萌だったが、自分を抱き締めるヴァンの腕から抜け出そうという気配は無い。

 その様子にヴァンは目尻を更にだらしなく緩ませると、萌の火照った頬に顔を寄せて、すりすりと優しく愛しげに頬擦りをした。


「馬鹿はお前だろ、萌。俺はお前の血だけじゃなくてお前自身がとっくに好きなんだから、そんな要らねえ心配してんじゃねえっての」

「……ん」

「よーし、いい子だ」

 

 ヴァンが頬を寄せ合ったまま髪を撫でてやれば、萌は漸くふにゃりと笑う。

 そして、甘えるように体を擦り寄せてきた萌をヴァンはぎゅっと抱き締め直すと、その丸い肩に顎を乗せて小さな溜め息をついた。


(あー、畜生……)


 もっと血を吸える獲物はそこかしこにいるし、味だって少し妥協すればきっと高望みでは無い。

 日頃の世話や体調管理と天秤に掛けたら、このままこの少女と過ごすことはマイナスの要素が大きいかもしれない。

 賢い選択では無いと分かっている。それでも自分はーー、


「……ねえ、ヴァン?」

「あ?」

「……、……私も、好きだから、ね」

「ーー……っ!!」


 胸元から見上げられながらそっと囁くように告げられた甘い言葉に、ヴァンの顔も萌と同様に真っ赤に染まる。

 そうして、一気に耳まで赤くしたヴァンはその顔を見せないように天井を仰ぎ、爆発しそうな程に跳ねる心臓を感じながら内心で目一杯叫んだ。


(これだから、俺はこのもやし娘から離れられねえんだよ!) 



 END.

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