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第一話 真夜中の赤ん坊

 ヒースフェン領の夜は早い。

 農民たちは空に茜が射す頃には仕事を終えて家に帰り、月が大地を青白く照らし出す頃には床に就く。それはこの地域が開拓されて以来――とは言っても、ほんの十年前のことである――変わらぬ、彼らの生活のリズムだ。これは狩人や職人、さらには忙しい商人たちですら例外なく従うもので、ゆえに村の家々に灯りが灯ることは稀である。


 領主ロセリア・ヒースフェンの館とて、そうであった。白漆喰の壁を大胆に切り取る、細長い嵌め殺しの窓。その青い格子の隙間から魔力の淡い光が漏れることは、月に五回もあれば多いと言えた。中央の王宮では毎晩のように夜会が開かれているが、この辺境の地では貴族と言えど夜の闇には逆らえない。


「……あー、寝れない!」


 館の二階にある主専用の寝室。その中央に鎮座する天蓋付きの豪奢なベッドの上で、ロセリアは唸っていた。彼女は羽毛の少し抜けてしまった掛け布団を抱きしめ、右へ左へと転がっている。薄手の夜着は既に肌蹴てしまっていて、白く艶やかな肌が露わとなっていた。


 大陸全土を股にかけて活躍する魔導師であったロセリアが、いやいやながらもこの地を治める準男爵となって二年。世話役の男爵を吹っ飛ばした彼女であったが、さすがに王命には逆らうことができず、表向きは大人しくこのヒースフェン領で生活をしていた。


 とはいっても、身体の方は未だにここの生活リズムに適応できていないのか、彼女は時々こうして不眠に悩まされていた。魔放灯が普及した現在、夜が来たら眠るなどという生活をしているのは、この辺境の地ぐらいなのだ。都会生まれの都会育ち、性格も都会志向のロセリアがなかなかここの生活になじめないのも無理はない。魔導師として活躍していた頃の彼女は、毎日のように日付が変わるまで起きていたのだから。


「仕方ない」


 ロセリアは白旗を上げた。

 彼女はベッドからむくりと起き上がると、手のひらを高く掲げる。たちまちそこに魔力が集まり、拳大ほどの光の球が出来上がった。光球は天蓋の幕をすり抜け、天井すれすれまで浮き上がる。その蝋燭にも似た橙の輝きに照らされながら、彼女は床へと足を下ろし、内掛けを羽織った。


「ふあァ……」


 眠気はないのに何故か漏れてしまうあくび。それを噛み殺しながら、ロセリアは書斎のある一階に向かって歩いていく。眠れない夜は本を読んで夜明けを迎えるのが、彼女のいつものやり方だった。二階のベランダにテーブルを出し、夜風に吹かれながら頁を繰る。そして空想の世界にとっぷりとのめり込んだ頃、森より響く鳥のさえずりを聞き、暁に染まる空を眺めるのだ。


 人気のない廊下はどこまでも静謐で、絨毯の上には夜の冷気が充満していた。壁や床は月明かりによって青白く染め上げられ、その様は歴戦の探索者であった彼女をしても気味が悪い。自然とロセリアの歩みは遅くなり、足音の間隔が伸びていく。革靴と絨毯が奏でるポン、ポンという気の抜けたような音。それがまばらに響き渡っていた。


 ――パンッ!


 何かを重い物を落としたような音が、不意に響いた。とっさにロセリアは姿勢を低くし、壁にぺったりと張り付く。

 この時間、館に居る人間は限られていた。住み込みのメイドが一人に、執事が一人。そして最近、彼女が腐れ縁の知り合いより預かった幼児――いや、赤ん坊が一人。何かを落として音を出すとすれば、おそらくメイドか執事のどちらかのはずだが、彼らがこの時間に起きているとは考えにくい。


「まさか――」


 弱小とはいえ、ここは貴族の館。いくらかは財産がある。それを狙う良からぬ輩が現れても、全く不思議ではなかった。平和だけが取り柄の辺境とはいえ、不心得者はどこにでもいる。さらに言うと、衛兵を雇っていないこの館は、その内情を知らない者からは非常に無防備なように見えた。


 ――私のお金を狙おうなんて、いい度胸してるじゃない!


 ぷっくりとした唇が横に伸び、その端がニッと吊り上がる。ロセリアは鳶色の瞳を細めると、愉しげに鼻を鳴らした。何も知らずにこの竜殺しドラゴンスレイヤーであるロセリア・ヒースフェンの館に忍び込む愚か者は、いったいどんな人物なのだろうか? 彼女は足音を殺しながら、廊下を素早く駆け抜けていく。


 階段を下りると、奥にある書斎から光が漏れていた。わずかに開かれた扉の隙間から、黄色い光が細長く伸びている。間違いなく、誰か人がいる証拠だ。ロセリアは歩を速めると、その扉の近くまで移動した。


「割といい資料が揃ってるな。こりゃ助かった」


 扉の向こうから聞こえてくる声。それは、ずいぶん舌足らずで甲高いものだった。口調は男のようであるが、その声はさながらヒステリックな女の叫びのように、ロセリアの耳をキーンと突き抜けていく。まさか、子どもか――思いもよらぬその音声に、ロセリアの気がわずかに動揺する。彼女はてっきり、賊は大人だとばかりに思っていた。


 ロセリアはノブに手を掛け、一気に扉を押し開く。すると――


「はあ!?」


 部屋の中央に鎮座する大きな執務机。その上で、本を広げている者がいた。その背表紙の向こうに、ずんぐりとした小さな身体と芋を繋いだような短い手足が見える。その姿はどこからどう見ても、赤ん坊にしか見えなかった。

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