溶けあう時間
ナサニエルは突然のことに固まっていた。
意識を取り戻してまだ1時間と経っていないが、大怪我をして体が重く感じるのとは別の硬直だった。
エヴェデールが抱きついている。
胸をぐっと押さえ込まれたような息苦しさと緊張を感じた。
抱きしめ返そうにも体は重く、仮に抱きしめ返せたとしても、そんな勇気が自分にあるとは思えない。
結果、ナサニエルはただエヴェデールに抱きしめられるしかなかった。
ナサニエルの胸の上でひとしきり泣いたエヴェデールは、次第に落ち着きを取り戻した。
ゆっくり頭を上げ、
「ごめんね…たくさん泣いちゃった」
涙でくしゃくしゃに濡れた顔で言った。
グッタリしたようなエヴェデールが心配になり、
「エヴァ…大丈夫?」
問いかけた。
「それはこっちの台詞だから」
気の抜けたような声で笑った。
彼女の好意に満ちた眼差しは、長く眠っていたナサニエルの心を癒した。
嬉しさに動かされて反射的に微笑んだが、重症の体は上手く働いてくれず、ぎこちなく頬が動いただけだった。
「ごめん、重いよね」
「そんなこと…ないよ」
そう言ったが、エヴェデールは体を引き離していった。
ナサニエルはホッとしたような、残念なような気持ちになる。
体を動かすと同時に、彼女の夏の盛りの花のような素敵な匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
こんなに素敵な目覚めはない、とナサニエルは思った。
「友達の後に立て続けに押しかけて、ごめんね…。ご両親と代わってくる」
(え、もう?)
そう言いたかったが、体はもう眠ることを希望していて、瞼は重くなっていた。
「ごめん…長く起きていられなくて……」
「そんなことないよ。今はゆっくり休んで…。また明日、来るから」
「うん…」
また明日も来てくれる。
それだけで嬉しいし、価値がある1日になる。
「待ってる…」
エヴェデールはまた微笑むと、名残惜しそうにナサニエルを見つめ、病室を出ていった。
◆
病室を出たエヴェデールは、改めてセドール夫妻にお礼を言い、頭を下げた。
「声をかけてくださり、ありがとうございました。無事な姿を見られて、安心しました」
「お礼を言うのはこちらですよ、オリビエ嬢」
ネイサンは穏やかに笑って見せる。
「息子のことを気にしてくれて、ありがとうございます。こんなにも思ってくれる友がいることは、親としては嬉しい限りです。よければ、また見舞いに来てください」
「はい、ありがとうございます」
「全部が落ち着いたら、ぜひ家にも来てくださいね」
エレナがにこやかに言うと、気恥ずかしさを覚えながらも嬉しくなった。
この日、エヴェデールは寮母の許可をもらってアメリア、ミアと一緒に寝た。
ほんとうは2人にお礼を言って、たくさん感謝したかったが、強い睡魔に襲われて叶わなかった。
ナサニエルの事故が起こって初めて、夢を見ることもなく、深く深く眠った。
◆
翌日から毎日、ナサニエルの病室に通う日々が始まった。
まだ体力がないナサニエルに許された面会時間は、1人10分だった。
「事情聴取受けたよ」
寮でアルフレッドと面会したエヴェデールは、翌日、ナサニエルにそう報告した。
「大丈夫だった?キツイこととか、言われなかった?」
「大丈夫よ。すごく気遣ってくれて、『思い出すのが辛いなら後日でもかまわない』って言ってくれたから」
「そう」
「ネイトが元気になった今なら、色々話せるし」
「うん…」
「やっぱり事件性が高いと思って調べてるんだね…。その——ネイトに固執してる人とか、ネイトをよく思っていない人に心当たりがないか聞かれたよ…」
「僕も似たような質問された…。やっぱり——意図的に狙われたんだよ…ね……」
エヴェデールはなんと返したらいいのが分からず、ナサニエルはその先の言葉を続ける気になれず、2人は黙り込んでしまった。
正直いうと、自分はそこまで人から恨みを買うようなことをしたのかと思うと、ナサニエルはショックだった。
そんなことをした覚えはないし、そこまで恨みを持つ人にも心当たりがない。
「犯人の気持ちが収まっていないのなら、また狙われる可能性があります。入院中は警護をつけるので、安心して下さい」
事情聴取の時、アルフレッドからはそう言われた。病室の前には常に騎士団員がいる。声をかけられることはなかったが、それでも居心地は悪かった。
「警護の人がいるからここは安心だね。私も一緒にいる時は、ネイトを守るからね!」
ナサニエルは「うん」と返した。騎士としての使命感に駆られるのだろう。
「あと今日はね、本を持ってきたよ」
重くなった空気を変えるように、エヴェデールは明るく言った。
「私、明日には実家に戻るからネイトに会えなくなるし…。少しでも長く楽しめたら、と思って」
差し出されたのは『市場のあれこれ』、『地方の文化と風土』の2冊だった。
「これ、読みたかったやつ!」
「エンレストとラプスに聞いたの」
「ありがとう、エヴァ!」
「それとね…栞」
青と白の花が1本ずつ押し花になった手作りの栞。端っこには馬の絵が描かれていた。
「グラウンドの隅っこに咲いてた花で作ってみたの…」
「これ、乗馬の時によく見かけたよね」
「う、うん。ネイトの目の色と同じだから…」
「馬の絵も可愛い。これ、メレーナ?」
「一応…」
「ふふ、ありがとう。大事に使うよ」
大切に栞を本の上に置き、微笑む姿に胸がムズムズした。
(この流れで言おう…)
「あと…ね——」
なにやらもじもじと言い出しにくそうに、膝のあたりを見て手をこまねいている。
こんなエヴェデールは珍しい。
「何?」
「て、手紙をね……書いてもいいかな?家にいる間…」
「え?」
「病院宛にするから…体調もまだ心配だし…」
「いいの?手間じゃない?」
「そんなことないよ!手間なんて全然ない!平気!どうせ毎日鍛錬だし!」
「そうなんだ」
「…迷惑じゃない?」
「迷惑なんて、あるわけないよ。エヴァとの文通なら嬉しい」
「そ、そっか…」
口を緩めて、顔を赤くして笑う様はただただ可愛かった。
「うちの近くは毎週末、市場がたつから、色んな商人が来るんだ。その様子とか、売ってるものとか手紙に書くね。あと胃に優しい料理のレシピを、シェフに聞いてみる!退院したら自宅宛にするから、教えてね」
「うん、楽しみにしてる」
エヴェデールは、はにかみながらも「えへへっ」と首を傾げて笑った。
ひどく愛らしくて、ナサニエルはその表情に吸い込まれた。目が離せず、思わず膝に置いてあるエヴェデールの手に腕を伸ばしていた。
手の甲にそっと触れると、ピクリとしながらもエヴェデールは手を引っ込めなかった。
そのまま手を包み込み、ぎゅっと握った。
騎士とはいってもやっぱり女の子で、ナサニエルの手の中にすっぽりと収まってしまう。
「ありがとう、エヴァ。大好きだよ」
夏の太陽に負けないくらいに、ナサニエルが眩しく輝いて見える。
エヴェデールは真っ赤になって、目がキラキラと潤んだ。
少し俯いて、うん、と静かに頷く。
「手紙、楽しみに待ってる」
「…うん」
「僕はマメじゃないから、エヴァの方が手紙をくれる回数が多いかもしれない。そこは許して」
「…うん」
「元気になったらまた乗馬しよう」
「…うん」
「デートにも行こうね。たくさん。色んな所に」
「……うん」
エヴェデールはギュッと唇を固く結ぶと、決心したように顔を上げた。
「私もね、ネイトが好きだよ」
エヴェデールの表情には光があり、心の底から幸福そうに微笑んでいた。
おののくほどの喜びが、ナサニエルの全身に電撃のように通り抜けた。
たまらなく嬉しく、甘美なまでの喜びが身体の隅々から溢れそうだった。
「手紙、たくさん書くね。どうでもいいこととか、つまらないこと、いっぱい書いちゃうかもしれないけど…」
「いいよ、なんでも書いて…」
「休暇、長すぎだよ…。学校、始まるのが待ち遠しい…」
「僕も…そう思ってた——」
エヴェデールはナサニエルの手を握り返す。愛しくも切ないくらいの体温が伝わってきて、ナサニエルの心はぎゅーっと痛いくらいに幸せに膨らんだ。
「学校始まったら、たくさん一緒にいよう…。早く元気になってね」
「うん…。約束する」
お互いの指が絡まり合う。溶け合いたいとでもいうように……。
手だけではない。
心まで、確かに繋がっていた。
◆
屋敷の一室。まだ日が高いというのに、その部屋のカーテンは閉め切られていた。
もうずっとシーツも変えておらず、掃除もされていない。
しかし部屋の主はそんなことは気にしていなかった。
いや、気にしている余裕がなさそうだった。
いつも布団の中にいるか、ソファーに座り頭を抱んでいるか——
夏季休暇に入ってからずっとこの調子だ。
侍女が換気のために窓を開けようとしても、彼は頑なにそれを拒んだ。
「少しは外の風を入れませんと…」
「うるさいっ!!」
元々家族の入室も拒んでいたが、今は侍女も寄り付かせない有様だった。
物音に怯え、特に来客を告げる呼び鈴には過剰に反応した。
最初は心配していた乳母でさえ、「手に負えない」と匙を投げる始末だ。
孤立し、一人になっていく一方だったが、彼はやはり気にしていなかった。
「知らない……。俺の……せいじゃない……!クソッ!クソッ!!」
包まったシーツの裾をぐしゃりと握りしめる手は、小刻みに震えている。
「くっ…どうすれば……!どうすればいいんだ……!!」




