第15話:無自覚な選別者と孤独な騎士
「ふーーっ……完璧。これぞ匠の業ね」
新築の『毒かわゴシック・サロン』。
その中心に鎮座する、三つ編みの糸で編み上げたパステルカラーのソファにどっかりと腰を下ろす。
視界よし、配色よし、居心地よし。
「私の王国の建国記念日ね! おめでとう、私!」
――ぐぅぅぅぅ。
「……はい、現実」
盛大に鳴り響く腹の虫。夢からの強制帰還である。
「ダメだわ。オシャレだけじゃお腹は膨らまないのよ。……何か食べなきゃ」
私はよっこいしょと立ち上がり、ちび蜘蛛ちゃんたちへの差し入れを詰めたお弁当バスケット(糸製・レース付き)を手に取った。
「気配りも忘れない私ってば、本当に出来たレディだわぁ」
鼻歌まじりに“備蓄倉庫”――通称、食料ストックルームの入り口へ向かう。
が。
「……あれぇ?」
静かすぎる。
いつもなら「カサカサッ」とか「キシキシッ」とか、ちび蜘蛛たちが賑やかにうごめいているはずなのに。
そこには、耳が痛くなるほどの空白が広がっていた。
「みんなどこ行っちゃったの? 遠足?」
広い空間のど真ん中に、ぽつん、と。
一匹だけ、巨大な真っ黒い蜘蛛が鎮座していた。
「ありゃ~、おっきい! なにあれ、めちゃくちゃ立派じゃない!」
素直に感動して駆け寄ろうとする私の横で、ピップが「……っ!?」と息を呑んだのがわかった。
(……ルイン・スパイダー。あり得ない。この過酷な環境を喰らい尽くして、ここまで到達したというのか……)
ピップが何か難しい顔でボソボソ言っている。要するに「レアキャラ登場」ってことね。オッケー、把握した。
「おーい、一人で何してるのー? 迷子?」
私は親戚の子供に接するような気軽さで声をかけた。
その瞬間。
黒い蜘蛛が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その複眼に映ったのは、色彩が不気味に蠢き、光を纏う――この世のものとは思えない「化け物(私)」の姿。
(……なんだ、この存在は。色が、形が、定まっていない……)
クロ丸――後の彼にとって、それは恐怖そのものだった。
裏切りと殺し合い。飢えと絶望。そんな世界で頂点に立った彼の本能が、最大級の警報を鳴らす。
「ねぇ、そんなとこでボッチしてないで、こっち来なさいよ~」
私がすぃーっと距離を詰めた、その刹那。
鋭い脚が、空気を切り裂いて振り下ろされた。
回避不能、必殺の一撃。のはずが。
「おっとっとぉ!?」
何もない平坦な床で、私は見事につまずいた。
ぐらりと視界が揺れ、攻撃は鼻先をかすめて空を切る。そのまま勢い余って、私は彼の硬い胴体に真正面からダイブした。
「ちょっともう! このダンジョン、バリアフリーが全然なってないんだけど!」
文句を言いながら、照れ隠しに彼の背中をぺちぺちと叩く。
「びっくりしたわねー、もう」
(……馬鹿な。今の一撃を、あんな無造作な動きで……?)
クロ丸は凍りついた。
彼はさらに速度を上げる。死角から牙を剥く。
対する私は――(やっば!! 今の転び方、絶対マヌケだったわよね!? お嬢様として恥ずかしすぎて死ぬ!!)と、真っ赤になった顔をごまかすため、勢いよくぴょんと真上に跳ねた。
「大丈夫だよ! ほら、私こんなに元気だから! 全然転んでないし、ダメージゼロだから!!」
必死の「誤魔化しステップ」。結果として、それは完璧な超高速回避となった。
(完全に……遊ばれている)
クロ丸は戦慄した。自分の命を賭けた奇襲を、あろうことか「元気アピール」という名の不可解な跳躍で、羽虫でも払うかのようにかわされたのだ。
そして三度目。
クロ丸が残像を残すほどの速度で放った、捨て身の一撃。
「あ……っ」
空中、地面から数センチ浮いた姿勢で、私はピタリと、文字通り「静止」した。
(やだ……っ! 今の角度で着地したら、絶対パンツ(※腹部)丸出しになるじゃない!? お嬢様として、それは、絶対に、阻止――ッ!!)
乙女の羞恥心が限界突破。
私は無意識に、天井の梁へ向かって超高速で糸を射出。その張力だけで、物理法則を無視して空中で身体を固定した。
「……ふぅ。危なかったわ。今、ちょっと大事なこと(※パンツ)考えてたわ」
スカートの裾を押さえるような淑女のポーズ(※全裸だが)で、ふわりと着地。
その間に、クロ丸の全力は空虚な空間を切り裂くだけに終わった。
(……意味が分からない。空中で止まっただと……?)
クロ丸の絶望が、限界に達する。
そこへ、ピップが静かに影を落とした。
「……落ち着け。これ以上やるなら、僕も出るが?」
空気が凍りつく。
ピップの放つ圧倒的な「格」の差に、クロ丸の脚から力が抜けた。
完全な敗北。
「ありゃ? どうしたの、急にへなへなしちゃって」
私は慌てて駆け寄る。
「わかった! お腹空いてるんでしょ! 名推理!」
「ちょっと待ってて! 私ね、いい感じのキッチン作ったんだよ! 最高のご飯、作ってきてあげるから!」
私は元気よく、鼻歌を再開して走り去った。
残されたクロ丸は、震えていた。
「……食事を……与える……?」
その後のやり取りは、ピップに任せた。
ピップから「ここは食べ物に困らない場所だ」と諭され、彼は困惑しきっていたらしい。「食べ物は奪うものだろう」という彼の言葉は、このダンジョンの過酷な歴史そのものだったけれど。
「おっまたせー!」
両腕いっぱいに皿を抱えて、私は戻ってきた。
「できたよー! 特製バターキノコとトカゲ肉のソテー! 毒かわスタイル!」
ふわりと広がる、香ばしい匂い。
(……なんだ、この匂いは)
本能が、かつてないほど激しく反応する。
「はい、どうぞ!」
当たり前のように皿を置く。
彼は恐る恐る、一口、それを口に運んだ。
――じゅっ。
「……あつっ!?」
「わっ、ごめんごめん! 猫舌だった?」
けらけら笑いながら、私は彼の目の前でふー、ふー、と息を吹きかける。
「はい、あーん。これなら大丈夫よ」
(……なんだ、これは)
温かい食事。冷ましてくれる気遣い。
そんなもの、彼の人生には欠片も存在しなかった。
震えるままに口にすれば、舌の上で旨味が爆発する。
――美味しい。
その瞬間、彼の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。
ぽた、と。
一滴の雫が、皿に落ちる。
「ありゃ? 舌やけどした? 大丈夫? すぐお水持ってくるわね!」
慌てて走っていく私の背中を、彼はただ、呆然と見つめていた。
「よし、元気出た? ……そういえば、あなた名前は?」
「……ない」
「そっかー。じゃあさ!」
にこっと笑って、私は彼の真っ黒な背中を指差した。
「黒くて丸いから……今日からあなたは『クロ丸』ね!」
名前。
彼にとって、それは何よりも重い「鎖」であり、同時に「救い」だった。
「……っ」
「気に入った? よかったー! じゃあクロ丸、一緒に行くよ! 私の自慢のお部屋、案内してあげる!」
くるりと背を向けて歩き出す私。
一秒前まで自分を殺そうとしていた相手だなんて、微塵も気にしていない背中。
クロ丸は、もう迷わなかった。
(……この方に。この、理解不能で、温かい方に)
理由はいらなかった。
かつて自分が地獄を這いずり回る原因を作った「元凶」が、目の前の能天気な蜘蛛であることなんて、彼は知る由もない。
そして。
知らないままの方が、きっと世界は平和なのだ。




