第32話 語られざる記憶
黒衣の騎士が去ったあと、ミラはひとり祭壇を見上げていた。
祈りの時間──それは、ミラにとって唯一、自分の内に潜ることを許されたひとときだった。
窓から注ぐ光の線の中で、ミラが静かに目を閉じると、祈りに合わせるように、ランプと、燭台の灯りが微かに揺れる。
だが、その瞼の裏に浮かぶのは、神を模した彫像の柔和な表情でも、祈りの言葉の一片でもない。
──小さな村の教会。ミラは幼い頃の自分を思い返していた。
窓から薄赤い光の差す中で、机を並べて字の当て合いっこをするふたりの少女。
「残念でした! クラリス、これは、ひかり、って読むのよ」
「ああん! 何回やっても覚えられないよう!」
「あはは、いい? クラリス、これはね……」
──クラリス。
彼女はいつもそばにいた。
クラリスが字を間違えれば私がそっと教え、私が泣きたい時はクラリスは黙って隣にいてくれた。
でも──ミラは知っていた。あの子が光を持っていたことを。あの子だけが、周囲に自然と好かれ、抱きしめられる存在だったことを。
誰もが、クラリスに手を伸ばす。
二人に、加護師としての兆しが現れた日ですら。
「すごいね」の言葉は私にではなく──クラリスに向けられた。
そんな中、私に、声をかけたのは、あの父だった。
物心ついたころより、村の教会で育った私に、初めて血の繋がりというものを与えた人間。
「──ミラ、お前には人を導く力がある」
村人も、教会の大人たちも、誰もが驚き、ひざまずく中、父親だと名乗るその男は、私にそう言った。
私との出会いの喜びでもなく、私への謝罪でもない。その男の笑みは、優しさよりも先に冷たかった。
「王都に来るといい。もしお前が望むのならば、すべてが手に入る」
「それは、光も?」
「ああ、もちろんだとも」
「でしたら、ついていきます。お父様……いえ、”大司教猊下”」
そういえば、あの男が喜ぶと思った。
それくらいの知恵は、子供にでも回る。
もちろん、あの男にしてみれば、手駒が一つ手に入った程度のことかもしれない。
利用できるものは、血でもなんでも利用する。
けれど、それは私にとっても同じこと。
──私は必死だった。私は、どうしても光が欲しかった。
そして、私は聖女となった。
皆が私のことを聖女様と呼ぶ。
ようやく、私が光をこの手にしたのだと、そう信じていた。
なのに……クラリスが王子に見初められたと聞いた時、私は自分の中の何かが静かに割れる音を聞いた。
まただ。また選ばれたのは、あの子だった──
けれど、もう違う。
今、神は私の名を呼んだ。世界の在り方を託されたのは、私──
「……ねえ、クラリス。今、どこにいるの?」
ミラは、自ら王都から追いやった名を、愛おしむように呼んだ。
こらえきれない笑い声が、大聖堂にこぼれる。
「ねえ?」
問いかけへの、返事はない。
ミラの笑い声はまだ止まない。ひとしきり笑った後、かつての記憶を胸に、”親友”に語りかける。
「あなたが選ばれたのは、過去の話なの、クラリス。でもね、心配することはないわ。だって、この私が選ばれたのだから──」




