第19話 聖女じゃない
翌朝、谷間に霧が立ちこめるなか、クラリスはひとり、馬車の脇で腰を下ろしていた。
大き目の石に座ったクラリスの伸ばした足の先に、昨晩の男の物だろうか、僅かに血に汚れた跡がある。
──あれは、確かに“加護”だった。
あの時、ただ、自然に手を添えただけの、セラヴィアの手から漏れ出た光。
王都の聖堂で儀式的に行われる、荘厳で、形式ばったものとは違い、あまりにも静かで、簡素で、──力強かった。
「おーい、お嬢ちゃん。こっちで湯が湧いたよ」
バルバラの明るい声がする。クラリスははっとして顔を上げた。
焚き火の上で鍋がぐつぐつと煮立ち、湯気の向こうに笑う顔がある。
「身体、冷えるだろ? これ飲みな。あったまるから」
差し出されたカップには、素朴だが、どこかやさしさを感じさせる香りが漂っていた。
クラリスは、いくつかの薬草を合わせて煮出したものだと言うそれを、バルバラから受け取ると、そっと口をつける。
「……あまい! それに、いい香り……」
「お姫様の口にも合ったかい? そいつはよかった!」
「ひどい……! 王宮のみんながお上品だと思ったら大間違いなんですからね!」
からかうように言ったバルバラに、クラリスが言葉とは裏腹に笑顔を見せる。
バルバラたちと同じ時間を過ごすうちに、いつの間にかクラリスは、そんな冗談をも言えるようになっていた。
「……これ、もしかして……セルナ草ですか?」
「よくわかったねえ」
「やっぱり! 懐かしい……」
「懐かしい?」
「はい。私、大きくなってから王都に、王宮に出たので」
「へえ、どうりで」
バルバラがうんうんと頷いている。
「バルバラさん?」
「前に言っただろ? “燃える”感じがするんだよ。クラリス、あんたからは」
「……」
「そこいらの貴族様とは違う、何かがね」
「そんなこと、考えた事無かったです……」
クラリスは、はにかみながらバルバラから視線を逸らすと、その先では、セラヴィアが小さな刃物で枝を削り、その欠片を袋に詰めていた。近くにはクラリスの見知った薬草も積まれている。セラヴィアは誰と話すでもなく、無言のまま、淡々と手だけを動かしていた。
クラリスはセラヴィアには、なぜだか話しかけてはいけない気がして、声をかけることはしなかったが、代わりに、ぽつりと口を開いた。
「……私……加護師なんです」
「へえ、そうなのかい? ははっ、聖女様みたいだ」
バルバラがにやにやと笑う。
その言葉に、クラリスは静かに目を伏せた。
「私は……ただ、そういった力があっただけで……それだけで、聖女様と呼ばれるのは……」
クラリスは小さく肩をすくめた。
──ミラ。
ミラと私が、まだ、村の教会の孤児院で、日々を過ごしていたあの日。
教会の礼拝堂に、一人の村の男が現れた時の事。
その男には、胸に、野良作業中に誤って刺さったという刃物による深い傷があった。
治療と祈りの準備は進められてはいたが、誰もが目を伏せていた。
その沈黙が、この男に残された時間が、そう長くは無いだろうということを、暗黙の裡に語っていた。
だが奇跡は起こった。
その場にいた皆が、男の傷から光が溢れるのを目の当たりにした。
男の傷は癒え、一命をとりとめたのだ。
あれは、ミラが手をかざした瞬間に起きた奇跡だったのか。
それとも、クラリスが捧げた祈りによって起きた奇跡だったのか。
その時、人々はミラの姿を見て、歓喜の声を上げた。
「聖女が現れた」
「神に選ばれた子がいる」
クラリスは、何も言えなかった。
それを否定すれば、自分が“選ばれなかった子”だと名乗り出ることになる気がして。
自分は、ただ側にいただけだった。
そう、それでいい。
「……私は、“聖女様”じゃありません」
そう言ったクラリスの声は、風に消え入りそうなほど静かだった。
「違う、ねぇ。だってさ、セラヴィア」
声をかけられたセラヴィアは、手を止め、背を向けたまま言った。
「当たり前。そんな大それた看板がないと癒せないような人は、ただの飾り物ね」
その言葉に、クラリスの目が大きく見開かれた。
「……でも、私は、人を癒すだなんて、そんな……」
「──だったらなぜ明かしたの?」
短く言うと、セラヴィアは次の枝を拾い削り出していた。時折、枝の様子を角度を変えて確かめたりしている。
「それは……」
「そう言っておけば、居場所ができるとでも思った?」
クラリスは、はっとした。
「加護師か聖女か、そうでないかなんて、どうだっていいのよ。私の前に立つ者にとってはね。彼らにとっては”癒せるのか、癒せないのか”ただそれだけ」
クラリスは、自分の胸に手を当てた。
燃えるような熱さはない。けれど、そこに確かに宿っているものがある──自分だけの何かが。
気付くと、胸にあてた手が、何かをつかむ様にきゅっと握られている。
クラリスは、その手の感触を確かめるように、ゆっくりと瞼を閉じた。




