2 人類、AIと向き合う
前回からさらに五ヶ月後、まだ言い足りないというか、もう少し掘って人間の悪口書いてみた。2024年の年末でした。
AIというもの、今その用途は様々な範囲に広がりを見せていて、実際に価値的なものを生み出すに至っています。
例えば一定の条件の中で指定した物体や事象だけを認識し、抽出、そこから削除する、変更する、といった芸当が出来たりする。これまででもインターネット検索エンジンや、画像編集ソフトや、カーナビなどの中にはそれに近い機能があったのだけど、AIの場合は「明確に指示しなくとも、そうだろうと思われるもの」までを認識できるところにある。その感覚が人間の感覚や意図に近づいたから、知能的な演算器、すなわちArtifical Intelligence =AI と呼んだわけです。
だからここにきていきなりAIが完成しました、というわけではないのです。
今までは、一定条件を人間が入力すればその計算を、数時間から数秒のラグはあれど、人間の代わりに行ってきたのは電卓も然り、黎明期のコンピューター然りで有り、指示を完璧に行わねば演算できなかっただけです。
当時はその入力を行う人が高度な知識や技術を有する条件であったのですが、演算器と人を結ぶインターフェースの発展と共に、パーソナルコンピューターが生まれ、ウィンドウズシリーズで一般の人々が、単なるデバイスとして演算器を扱えるようになったあたりから、いわゆる人類のIT(Information Technology 情報技術)時代が始まった、と言って良いかと思います。
人類史上における約30年の情報社会の流れをさらっと一言で言い表すなら、既存のツールがデジタル技術で「置き換えられた」時代、と言えましょう。何かが変わったかというと実は何も変わっていません。
自動車は相変わらずガソリンとタイヤで走っていて、人が教習所で教練を受けて技術をつけて五体を使って運転していますし、カメラはフィルムがセンサーに変わり、音楽録音媒体はレコード盤やCDからデジタルデータに、簿記はエクセルで、原稿用紙がなくなりワープロに、手紙はなくなってないけどメールやSNSにほぼ置き換わって、エロ本とエロビデオはデジタル画像と配信動画に置換され、放送内容は変わってないけどテレビはアナログからデジタルへ。でも、だからといって生活は何にも変わっていません。
便利にはなったけど、楽にもなったけど、豊かにもなったけど、幸福になることはなかった。
幸福というのは結局金銭の問題ではなく、精神的充足や余暇的時間があるかどうかであると思います。なので、「ゆとりある生活を確保する」って言葉は矛盾してるとも言えます。今の人々は年々余裕がなくなり、病む人間が増えたと言ってもいいでしょう。
IT化は人を幸福にはしなかったと思います。
おそらく、それにより、不幸も堕落も増えただろうと思う。IT化が一概に悪いことだとは言えませんが、要するに物事の進み方が以前よりも早くなったから、元から人間が持っている良いことも悪いこともかなりのスピードと規模で消費されてしまうようになった。
いってしまえば、豊かさと共に問題も肥大し加速しただけなんだと思います。
新しい価値観が生まれたわけでもなければ、革新的な精神論が唱えられたわけでもない。
相変わらず金と資源と宗教のために戦争を続ける世界がそこにあり、差別と堕落と暴力が渦巻く社会があり、保身と利己と自己欺瞞に満ちた人々がいます。それらが、新しいデバイスツールを手にした、ただそれだけのことです。
そのような人々や社会が作るAIとはなんでしょうか。その人々のつくる知能の根源たる知性とはどんなものでしょうか? 私はそこがよくわからないのです。だから考えてみました。
人類の世界は、人類が立脚点としている何らかの規範や宗教的観念や倫理観、あるいは幸福論や社会科学、それらは今まで誰一人として客観的な真理真実として示す事が出来たことはなく、成り行き的に国や社会が成立していて、そこに住まう人も多数決でそうだと信じて行動しているから、成り立っている共同幻想ではないか、というものだと思っています。
自分の国が何故そこにあり、何故そこで人として生きているのか、それを理解し説明できる人がまずいない、その時点で人間が「思考する知能」を生み出せるはずがないと、とりあえず私は結論しています。人類は自分たちの存在意義を定義することも出来ない。だから殺人や戦争が出来てしまうのだと。
いまのところAIはツールとして利用されているのは変わりありませんが、人間の作業をサポートするという側面は無論、そこよりももう少し食い込んできているという感じでしょうか。
本来機械にはクリエイティブなことは出来ないと思われてきました。例えば絵画を描く、文章を書く、音楽を作る、そういったことは創造主の御子たる人間にしか出来ないのだと、他の動物には創造的行為が出来ないのは、人こそが特別な証拠であると、そのように人類は信じてきました。
だからこそ自身らにほど近い「AI」の出現はSFという娯楽の中に閉じ込めて、外側から観察して楽しむことが出来てしまいました。AIには生命を育むという行為が理解できない限り、理知的で情理的な判断はできない、命というものの概念がわからないから合理性と整合性だけを追求する「冷たい機械」で有り続け、我々がその判断に納得することはないだろう、彼らはその人間が定義した檻から出てくることはないだろうと。自分たちの特別性を侵してくる存在でなどあり得ないと。
その驕りがありました。
だから今、人間の真似事ができるAIの存在に戦いている。
「あんなものはまだまだ使い物にならない」「不自然で気味が悪い」「〇〇の焼き直し」「継ぎ接ぎでそれっぽくつくりあげた紛い物」そのように生成AIのことを人はこき下ろす。
たしかに、いまのAIが無から有を作ってるとは言い難い。例えば身近にある生成AIはプロンプトと呼ばれる指示文言(文章、あるいは単語や、関連語の羅列)をもとに、その印象で画像や音楽や物語を生成します。印象の捉え方によってはまるで意図しないものが成り上がる可能性もありますが、それは、「かれら」はネット上の学習モデルを参照、獲得し、取捨選択をし、組み立てているに過ぎないからです。だから、「コピー」「つぎはぎ」「まがいもの」「フェイク」といわれる。
本質を理解してそのものを作るのではないから。
では、ここでクリエイター諸氏に問いたい。
あなたの行っている創造的活動は本当に無から有を生み出したと言えるのでしょうか?
あなたは何の予備知識もなく独創的な絵が描けるようになったのでしょうか、足繁く美術館に通い、巨匠らの絵をつぶさに観察し、そのタッチを習得しようと必死になって努力したわけでもないのに?
あなたは、ある日突然に作詞作曲が出来るようになったのでしょうか、音楽理論を学んだわけでもないのに、声楽の勉強をし各種の人まねをして歌唱テクニックを研鑽したわけでもないのに?
あなたは人の感情を揺さぶるような、涙を誘うような物語はあなたの心の内から湧き出したのでしょうか、あなたは社会にも出ず、ろくに人と話も出来ないコミュ障で、話し下手なのに?
だとしたら、すごいことですね。
それこそ神ですか、と。
あなたはいままで、何かを観てきたし、聴いてきたし、読んできた。だから一から何も学ばなくてもそれらしいことが出来て、才能次第である程度の伸びしろがみえた。だから基礎や応用の学びは技術の向上のために費やすことができて、それはたとえば足りない部分を補強するための補強材料として、あるいは新しいインスピレーションを得るための手段として利用できた。
あなたも、わたしも、そう「コピー」で「つぎはぎ」された「まがいもの」の「フェイク」なのですよ。自分だけがオリジナルでユニークで個性的だなんてのは幻想なのですよ。その紛い物達が、自分たちと同じ方法で創造的な作品を造り発表したら、「お前のは紛い物だ」と非難するなんて、滑稽だとは思いませんか。
このままでは人は「かれら」に仕事を奪われる。
そのような声を聞くこともあります。ですがそうはならないでしょうね。なんせAIどころか単なる機械に代替できる、もっとも身近な施設の公的機関にまだまだ、日々たんまりと職員がおり、日々同じ文言をくり返し、日々間違いのない作業とアレンジの必要がない事案処理を心がけ、繰り返している。
創造的でユニークで個性的なはずの「人間」が、です。しかも紙に書いた手書きの申請書を山のように積み上げて、いそいそと日夜倉庫に運んで保管している。
人は私利私欲により嘘を吐き、他者を貶める生き物で、それに対抗できるのは同じ思考回路を持つ人間だけであるから、いわゆる「現場」に人が未だに必要な最大理由は、その一点だと私は思います。けして思いやりで人を配しているわけではないでしょう。
だから人が人の手で書き、人の目で確認し、人の手によって処理されたものでなければ、書類の正統性が疑われる。印鑑がなければダメだとか、公的機関発行の証明書を添付せねばならないとか、印刷物による二次的資料が必要であるとか、それらを確認するのは公用人である我々でなければならず、それが出来るのは我々が「人」であるからだ、と。
そこに人が逃れられない、錯誤や誤謬や失念という可能性は含まれていない。(仮にそんな奴もし居たら、人じゃないです)
だからかりに傍らにAI装置があったとて、人間の仕事は奪われません。奪われそうなら人間はAIの電源を切ってしまえば良いのです。主導権は人にあるのですから。だからAIがどんなに素晴らしい提案をしようが、人間はそれを無視してしまえるのです。「かれら」には何の権利もないから。人間の都合が悪ければ抹殺すれば良いのです。
なにより、人間のしていることは絶対で、過ちなど犯さないという原則の下、この社会は運営されているからです。
おそらくこの先、仮にAIが今よりも浸透したとしましょう。人間のような人型の稼働筐体を身体としてもち、人のように振る舞うレベルに達したとき、必ず人間はAIをあからさまに差別するでしょう。どれほど優れた絵を描いても、音楽を奏でても、物語を書いても、政治的判断をしても、社内改革を提案しても、しょせんはAIの描いたもの、奏でたもの、書いたもの、判断したこと、考えたことだと。
これから先、多くの人がこの言葉を口々に発することになるでしょう。
「AIの創造したものには魂を感じない」あるいは「愛を感じない」、「気持ちがこもってない」、「血も涙もない」などと。
自分と同等の能力を持つ存在が現れたら、自分が持っていて相手が持っていない部位を探し、それを取り出し突きつけて、自身の優位性や正統性を説く。
AIごときを相手にそんな幼稚なことするだろうか、と笑いますか?
もう、既にしてますよね。
これが今の人間の限界です。自分たちで自分たちの価値を認められないまま、種の限界領域に入っているのです。このままいけば、近いうちに人間は滅びます。(とはいえ私が生きている間とかではなく、数百年は先でしょうけど)
ターミネーターはプログラムに従い、問答無用に人殺しをするけども、人間は思考した結果により理知的かつ合理的な理由を作って、そのために何十万人を虐殺する。愛と魂と神の導きによって。
人間は自分を正当化する天才だと言えるでしょう。そこに生成されるものは清く正しく美しいものに見えるかも知れませんが、さてその像を生み出したプロンプトには一体何が書かれているのか。
それが人間の歴史という奴です。人間の歴史を見れば、人間が何者であるかなど簡単にわかります。古代ギリシャの哲学者ならいざしらず、今の我々には彼らに比べ二千年以上の歴史のリソースがある。だけれどもそのデータを参照し応用せず、延々と同じプロンプトで生成を繰り返すのであれば、人間はコンピューター以下、AI以下と言われても仕方がないでしょうね。
逆に言うと、人間はいつまでも同じ過ちを繰り返すために生かされている「過ち製造マシン」なのかも知れません。だとしたら今の世界の有り様にも納得がゆくというものです。
そうした中で、AIは人類史に何をもたらし、どう変えるか、ということは考えます。
それは何の権利も権力も欲望も野望も目的も持たない存在が、人間と同様かそれ以上の能力をもって、利己的、あるいは利他的に行動する様というのを見せつけられる時代が来るということです。それは我々人類の行いを客観的に見せつけられる現象とも言えるでしょう。
人間は、今までそのような存在を知らなかったから。自分たちの思想や思考を超越するような存在と出会わなかった。そんなことを口にする者もいなかった。
いや、例え居たとしても、大体は無視するか、無視できなくなったら抹殺し、亡き者にした。寄ってたかって。
AIの電源を落とす事を選ぶ世界なのか、それともAIと共存共栄を目指す世界なのか。
人類は今その分水嶺に立たされていると私は考えています。
もしも世界が後者の、共存共栄を選択したならば、人自らステージをシフトさせるほどの変化を強いられます。今までと同じでは居られないでしょう。仕事も奪われます。なくなります。AIとの対峙を余儀なくされます。
なにより、変化を嫌う人、拒否する人< 変化を受け入れる人< AI< 人と世界の革新を目指す人、という順列が出来上がります。
自分の立場や、環境や、状況を楯にして、他者の不幸に目を瞑る。あるいは他者を踏み台にする理由を滔々と述べ、自身が享受する贅を正当なものと言い張る。また、その持てるものの多寡で世界の価値をつくり、その上に王国を作る。有史以来世界はこの様な構造で成り立ってきて、その中で幾度となく国が滅び、民族が離散し、人が死んでは生まれてきました。
やがて四半世紀を迎える2025年の今もまだ同じ世界が継続されています。それが粗製濫造されてきた我々の様なコピー人間がやってきたことで有り、今目の前にある状況が結果です。
我々が生きている時代は人が答えを一向に見出す事が出来なかった歴史の結果です。




