1 人類、AIを知る
何でもAIな時代が来ました。
そんな時代が訪れてから二年あまりが過ぎた。この分野は日進月歩なので、一昨年考えていたこと感じていたことが、去年、今年では随分変わってしますことがあります。
そういった変化もたのしみつつ、読み進めていただければと。本稿は丁度二年前、2024年の7月に書いたものです。
AIの中でもクリエイティブな、生成AIのはなし。(*2024年当時です)
最初に断っておくと、別にクリエイターやアーティスト、ミュージシャンを揶揄するつもりで書いたものではありません。私はむしろ讃辞のつもりでこの記事を書いています。が、気を悪くする方がいるならごめんなさい。
誤解がないようにこの一言を先に書いておきます。
“人間はクリエイティブで有り、進歩的でなくてはいけない。しかし、想いがなければその行為に意味はない”
この数年でもAIは、あっという間に、会話はもとより、その喋り口調も生身の人間と遜色ないほどに発達しました。ニュース原稿だって普通に読む(ならアナウンサー要らないと思うけど、結局読みや発音、語感のチェックするのは生身のアナウンサーのマンパワーを要するんだけど)
特に楽曲なんかは「〇〇年代の日本のアーティスト風」などと指定すれば、その当時の流行のメロディラインや、歌詞を生成して、歌を作ってしまいます。
画像の生成にしてもプロンプトで詳細に指定すれば、かなりの精度で表現してくる。もちろんAIの作るモノというのは無作為で、でたらめなので、どちらかというと人がぼんやりと想像した感覚的なもの、という側面が強い。つまりはイメージ。
だけれどもそれらの作る画像や写真、イラスト、音楽、歌詞、物語など、人間の感性を一定量満足させるだけの効果はあったりします。
だからナントカ協会だとか、ナンタラ団体だとか、あるいは芸能事務所とか、著作権保護法だとか、「やめろ、我々の分野を侵すな」と突っ込みたくて仕方がなく、既存の創作物との類似性が著しい場合、著作権侵害の恐れがある、訴訟問題に発展する恐れがある、などと端々で脅してくる。
だけどさ、なんか今まで自分たちが作ったモノが、あたかも至高のオリジナルで有り、唯一無二であるかのような言いようじゃないかねぇ? 私はそんな風には思えないんだけど。
そもそも、自分の中から生み出した完全無欠のオリジナル作品であると豪語できるか、という点においては、そのクリエイターが、他の著作物に一切の影響を受けていないという証明をしなくてはいけなくなるはずです。
それはまさに、いま画像や楽曲をはじめとする、AI生成問題が直面しているジレンマと同じではなかろうかとおもうのです。
いわゆる人が描くイラストであれ、それは過去の何らかのアイディアを(意識、無意識にかかわらず)参照しているし、写真撮影であれ、映画や小説執筆ですら過去の画像や映像、エピソード、台詞回しの影響を受けていないとは言い切れないでしょう。
おそらく、既存のクリエイター業界が憤慨する理由は「あまりに簡単に我々と同じ事が出来てしまうとなると、既得権益が侵されるのではないか」という理由によるものではないでしょうか。
ただ、「既存のクリエイター業界」と書いたけども、いわゆる本当のクリアエイターの人は、自分の創作が何によって形作られ維持されているかを知っているから、むやみにAI生成だからといって批判するような愚は犯さないとはおもいます。
つまりクリエイターとは、自分の作風や、創作の起点、思想の立脚点は、地上から射出されるロケットのゼロ点発射ではなく、慣性航行中のロケットから発射されるミサイルであることをよく知っている。
例えば、自分がカメラをやっていて、プログラムオートを使用したなら、それは(原始的な)AI補助による撮影なのだということを知らなくてはいけない。プログラムオートのプログラムは、メーカーが有している過去の様々な撮影データから作られているからですし、デジタルカメラに搭載されるの画像処理エンジンだって、メーカーのこれまでのデータの蓄積によるもので、RAWで保存しない限り「撮影者のあずかり知らぬ処理で画像を生成されている」事になります。
曲作りでも、曲にならないような曲作りはしないし、できない。楽曲には厳密にパターンが有り、ルールがあるから、基本的にはそれに則り作曲される。ではそのパターンを踏襲するのが人間なら可で、AIならば不可である理由というのは、なんでしょうね。
真っ黒な画面や、ただの騒音を、「絵」や「音楽」などと認識しないように、人間は一定のフォーマット上で制作されたものを作品として認めている。ではそれは、オリジナルの創作物というのでしょうか?
無論、苦労して技術や知識を高め、望みの画像や画面やデザインを作成する努力は、わかる。
それを易々と模倣され、あまつさえ凌駕されてしまう悔しさもわかる。
だが技術の進歩とは常にそういうものでしょう。
車の登場で馬車は駆逐された。馬を育てて馬車が引けるようにする訓練に、すごい年月と手間がかかったのに、車は数時間で組み上がって、運転さえ覚えれば誰でも動かせる。そして馬車よりも快適で速く走る。
当時、それについて憤慨する者もいただろうけど、今となってはそんな声は何処へやら。
でも、だからといって馬車はなくならなかったし、乗馬というレクリエーションも競馬という娯楽も健在で、馬は馬肉になるだけでなく、愛されつつ、なにより馬に関わる方々は随分稼いでいなさる。
それは、馬が単なる移動手段ではない、別な存在価値を得たからに他ならないでしょう。
陶芸や磁器の茶碗だっておなじ。あんなもの工場でいくらでも作れる。でも作家が作った特別な逸品ってのに価値を付与する仕組みを維持した。道具としての価値は陶器だろうが漆器だろうが工場で作ったプラの食器と同じなのだけど、手間暇かけてもの作りする作家の努力を軽視したりはしない。
観念的ではあるけど、AI生成は、写真機やペンなどのツールでしかなく、その下敷きとなっているのはこの世界の(二次元、三次元を含む)文化であると考えると良いのではないかとおもいます。それを看過できないのは人間の業の深さかなと思わないでもないです。
それでもあえてAI生成の問題点を挙げるならこうかもしれない。
「生成AIが描いた美少女イラストと、ペンタブレットでもって手で描いた美少女イラストの差を見分けられる人間はまずいない」だからAIに画風をパクられている、とする声が上がる。
たしかに、生成AIはネット上に転がっているいくつかの要素(または学習モデル)から抽出して、プロンプトに合致するであろう画像を生成する。AI自身は何かに似せようという作為はないけども、既存のデータからファクターを抽出してくるものだから、自ずと何かには似てしまう可能性が否定できない。ただ、学習元データや、利用者のモラルにより、著しく著作権や各種権利を侵す場合、または人権侵害する恐れも大いにある。
*この件に関してはまた別の問題なので、ここでは深く掘り下げません(窃盗や名誉毀損、肖像権侵害、著作権侵害など事件性が強い)
AIがArtifical Intelligence, と称されるだけに、上記のプロセスは人間が頭の中でやっている事とまるで同じです。むしろ人間の頭の方が、情報量が少ない上に自分の思い込みやバイアス、性的な好みや、文化的な背景により、何らかのイメージに影響され得る可能性が大です。そういう意味では人の方がオリジナリティがなく、よほど無意識に模倣しているといえるのではないかと思います。情報が多くなると、その分自身のオリジナリティの幅は制限されるはずです。
じゃあ、その憤りをどうすれば良いのか、その答は一つ。
絵を描くなら、人間はペンと紙で一枚一枚手書きする。それがAIにはない至上の価値を生むことになりましょう。音楽ならコンサート会場や路上でライブ演奏、写真なら現地で現認、その空気感を体感、小説なら……手書きで原稿をつくり写本にして広めるしかない。
俺がこの手で書いたのだと。
そうなるか? それで生き残るか? そんなはずはないですよね。
そもそも逆なのですよ。美麗な画像、流ちょうな音楽を追い求めた結果、人間でも描けないような画像をコンピューターが描くようになった時点から、人間の感覚では演奏できない曲が出来た時点から、そんなものは人間がやる必要がなくなったといえるのだとおもいます。(もしくはあえて人間がそれを模倣するという技術革新が生まれる可能性はある)
そしてそれらに特別の興味のない多くの人々にとっては、どれも同じにしか見えないし聞こえないでしょうし、全てがそれなりに良いと考えるようになるかも知れません。
AIに描かせるのは、クソみたいに面白くない反復的な画像とか、何の意味も持たせないで済む装飾イラストか、意味があったとしても表層的な意味しか抱えない単能イラスト(例えばエロ)といった、創作者の創作意欲をまるで刺激することのない、観覧者の情感を揺さぶることのない制作物を作らせれば良い、とも考えます。
それにより、そのぶん才能のあるアーティストやイラストレーター、ミュージシャンはクソみたいな仕事をしなくても良くなり、もっと、意味のある深いメッセージを紡ぎ、世の中を良くしていこう、そのためにどうすれば良いか模索しようという気概で仕事に取り組めるようになる。そんな、人を感動させ、感嘆させ、驚愕させるような作品作りを目指すことが出来るようになる。
これは他の分野の仕事でも同じで、AIどころか、それ以前のコンピューターでも処理できる仕事ならその機械共に任せれば良いのだし、AIが得意なことはAIにさせれば良いのであり、人間しか出来ない仕事を人間がすれば良い。
だからAIに仕事を奪われる、なんて情けないこといったら、クリエイターやめたのと同義だと思います。
(重ねていいますが、この際において、学習データの無断盗用、無断加工、著作物の簒奪問題、等の件はさておく。それはAIに仕事を奪われているのではなく、AI生成フォーマットを提供する企業や団体、またはそれを利用する悪意を持った人間の仕業であり、別問題)
ホワイトカラーの方々も、AIに頼めることは全部やらせて、みなさんは事業の根回しのために、積極的に飲み会を開いて、夜の営業活動に勤しめば良いかと思います。
逆にAIが出来るようなことしか出来ない人は、これからの世の中には必要が無くなるということです。要するに、今AIの作品や仕事ぶりを見て、聴いて、感じて、憤慨してる者は無能なんですよ。
AIの帰結する点というのは、結局人類の行き着いた一つのゴールです。人類は何千年もかけて「それら」を作ったということです。つまり、いま自分たちは自分たちの歴史を模倣したAIに対峙している合わせ鏡状態であり、何処までいってもそれはメタ視でしかなく、その行為は人類にとっては無意味なのです。単なる確認作業といってもいい。
だから人類は、これから新しい価値を生み出さなくてはいけない。それなのに過去を懐かしみ、価値論争を好む傾向がこれだけ多いのは、今を生きている人間の思考がそうさせるのです。前を見てないし、前に希望があるように感じないから、後ろを振り返って茶飲み友達と談義している、という状態でしょう。
過去には価値があったと信じたい。これは、自分たちがやってきたことに価値を認めたい、という思いです。
だから、どんな時代でも中高年のお歴々というのは、若者をこき下ろしたくなる。それら若者は自分たちが生み出してきた者達なのに。
今後未来の世界では、ロボットが介護職や、危険作業を担う、といった表現がなされ、工場ではオートメーションで作物が生産され、自動車や住宅にAIが搭載され、自動運転されるようになる、などとまことしやかに囁かれます。
もしそれが実現した時、人々は、「やはり人の手でないと温かみを感じない、機械の数値的なデータでは微妙な作業が出来ない」などと言うのです。
その証拠に、絵でも写真でも音楽でも書籍でも、デジタルフォーマットへの過渡期には、ぜぇええんぶ文句言ってたじゃぁないですか。
描画タブレットで描いた絵は温かみがない、CGはカクカクしてて馴染めない、動きが不自然だ。電子楽器の音はチャラチャラしててイライラする、不自然だ。CDは音が硬い、レコードは不可聴域の周波数が含まれているから音が丸い。やっぱり画面じゃなくて紙の本を1ページづつめくって物語を読み進めるのが良いよね、本は本棚に仕舞うもの。
人間って、そんなに素晴らしいもの持ってたのに、なんで全部デジタルに置き換えちゃったんですかね? ねえ?
改めていいますが、では面倒事を機械にすべて任せるようになった時、我々人間は何を考え、何のために、何をするのか、そこが問われます。
そのビジョンがない限り、ロボットやAIが起こした問題を、権利問題、補償問題として、争うのが人々の関心事になるでしょうし、日々機械のメンテナンスと監視が多くの人の労働となるでしょう。これが、まさに今です。
機械は人に追いつきます。追いつかれたものはもう仕方がないのですから、次に人はアップデートしなくてはいけないのです。
改めて読み返してみると、隔世の感はありますね。今(2026)ではこのフェーズを越えて次に入っていると感じています。




