山月記(作:二階堂 玲)
一ノ瀬「……では、続けて、二階堂さん。あなたの『合理的』な山月記、聞かせてもらうわ」
二階堂「ええ。私の『山月記』に、呪いや超常現象は存在しません。あるのは、人間の計画と、それを見破るための論理だけです。では、始めます」
(二階堂、ノートパソコンの画面に視線を落とし、淡々とした口調で語り始めた)
***
山月記
作:二階堂 玲
「その声は、我が友、李徴氏ではないか?」
袁傪が、半信半疑のまま草むらに向かって呼びかけると、風の音に混じり、押し殺したような返事があった。
「……いかにも、袁傪。俺は、隴西の李徴だ」
その声質は、記憶にある友人のものと寸分違わなかった。だが、その口調はひどく荒々しく、かつてのエリート官僚の面影はなかった。袁傪は馬から下り、一歩、草むらへと近づいた。
「李徴、生きていたのか! 一体、どうしてこんな山中に……。皆、おぬしは発狂したとばかり……」
「発狂、か。そう見えるだろうな。いや、そう見えなくては、困る」
声は、奇妙なことを言った。袁傪が訝しんでいると、李徴は自嘲気味に続けた。
「俺は、虎になったのだよ、袁傪。臆病な自尊心と尊大な羞恥心という、二匹の獣に心を食い尽くされた結果、俺自身が獣と成り果てた。もはや、おぬしの前に顔向けできるような人間ではない」
その言葉は、悲痛な告白に聞こえた。だが、監察御史という職務柄、人の言葉の裏を読む癖がついている袁傪は、いくつかの不審な点に気づいていた。
第一に、声が明瞭すぎる。本当に虎になったのなら、声帯の構造も変化し、このような流暢な人間の言葉を話せるはずがない。
第二に、状況が不自然だ。この辺りは、近頃「人食い虎」の噂で持ちきりだった。だが、虎が出没するというには、人の気配が多すぎる。茂みの奥から、複数の人間が息を潜めている気配を、歴戦の袁傪は感じ取っていた。
これは、芝居だ。袁傪は、瞬時にそう結論付けた。だが、一体何のための? 彼は、友の茶番に乗ることを決め、悲劇の聞き役を演じることにした。
「……虎に。何ということだ、李徴。信じられん」
「信じられずとも、これが現実だ。俺の心は、もはや獣のもの。飢えれば、かつての友であるおぬしを喰い殺すことさえ、躊躇しないだろう。……だが、不思議なことに、我が内なる『人間』が、まだ完全には死に絶えていないらしい。この『人間』が、おぬしに会えたことを、狂ったように喜んでいるのだ」
李徴は、詩人らしい、比喩に満ちた言葉で自らの窮状を語り続けた。彼は、自分が犯した罪についても語った。山道を行く旅人を襲い、その肉を喰らい、金品を奪った、と。それは、人食い虎の蛮行のようでもあり、山賊の頭目の告白のようでもあった。
袁傪は、全てを察した。
李徴は、虎になどなっていない。彼は、詩人としての栄達に挫折し、食い詰めた果てに、法を捨て、山賊の頭目にまで落ちぶれたのだ。そして、自らが「人食い虎」であるという噂を流し、この一帯を恐怖で支配することで、役人の追跡を逃れ、安全な縄張りを築き上げていたのだ。
なんと哀れで、そして、なんと狡猾な計画だろうか。
「……頼みがある、袁傪」
やがて、李徴は懇願するような声色になった。
「この地に、俺の詩が数十篇、残してある。作者が誰であれ、後世に伝えてはくれまいか。この、獣になり果てた俺の、唯一の人間らしい仕事だった」
これも、計画の一部なのだろう、と袁傪は冷静に分析した。この悲劇的な物語に、天才詩人の作品という小道具を加えれば、信憑性は格段に増す。人々は、山賊の頭目・李徴ではなく、虎になった悲劇の詩人・李徴の物語をこそ、語り継ぎたがるだろうから。それは、過去の自分を完全に葬り去るための、あまりに周到な演出だった。
「……わかった、李徴。お前の詩は、この俺が責任を持って都に持ち帰ろう」
袁傪は、友の計画の共犯者となることを、静かに受け入れた。
部下に詩を集めせた後、李徴は最後の別れの言葉を口にした。
「ありがとう、友よ。もう会うこともあるまい。俺が虎であるうちに、早く立ち去ってくれ。……あちらの山頂に光が差したら、振り返って、俺の姿を見てほしい。それが、おぬしが見る、最後の俺の姿だ」
袁傪は、黙って一行と共にその場を離れた。しばらく進み、言われた通りに丘の上から振り返ると、果たして、草むらの中から一頭の巨大な虎が躍り出てきた。虎は、月に向かって一声、天を裂くような咆哮を上げると、鬱蒼とした森の中へと消えていった。
見事なものだ、と袁傪は思った。
あの虎は、本物だろう。だが、李徴ではない。おそらく、彼ら山賊団が、噂を本物に見せるために飼い慣らしたか、あるいは餌付けして縄張りに引き寄せた、ただの獣だ。あるいは、手の込んだ作り物を纏った、手下の一人か。どちらにせよ、あの咆哮は、この茶番劇の終わりを告げる、見事な幕引きだった。
都に帰った袁傪は、皇帝に事の次第を報告した。もちろん、彼が語ったのは、友・李徴が演出した通りの、悲劇の物語であった。隴西の李徴は、公式には「虎の被害に遭い、死亡」として処理された。彼の詩は都で評判を呼び、人々は、彼の数奇な運命に涙した。
袁傪は、時折、一人でその詩集をめくる。そこにあるのは、友の才能と、そして、あまりに深い絶望。彼は、友を救えなかった。だが、友が望んだ「社会的死」を、完璧に演出してやることはできた。それが、友情の最後の形だったのか、それともただの自己満足だったのか。
答えは、誰にも分からない。ただ、あの山には、もはや人食い虎は現れなくなったという。
***
(二階堂、読み終え、静かにノートパソコンを閉じた。その表情は、一つの事件ファイルを閉じた刑事のように、冷静で無感動だった)
二階堂「……以上よ。呪いも超常現象も必要ない。全ては、追い詰められた人間の知恵と、友の心情を汲んだ、もう一人の人間の共犯関係で説明がつく。これこそが、この事件の『合理的』な真相よ」
(部室は、一瞬の沈黙に包まれた。やがて、一ノ瀬が震える声で口を開いた)
一ノ瀬「……嘘よ。嘘だわ、玲。李徴が……あの孤高の詩人である李徴が、山賊の頭目ですって? 虎への変身が、ただの着ぐるみか、飼育された虎によるトリックですって? それは……それは、あまりにも……夢がないわ! 詩情のかけらもないじゃない!」
四方田「えええっ!? じゃあ、あの感動的な再会と別れは、全部お芝居だったってことですか!? 『友よ!』とか言いながら、裏では『(よし、コイツ騙せてるな…)』みたいな感じだったの!? それは……それはちょっと、解釈違いです……! エモさがゼロじゃないですか!」
一ノ瀬「そうよ! エモさがゼロよ! 文学はエモさで出来ているのよ!?」
三田村「……仮説、人間による情報操作。欺瞞と虚構。非常に人間的な、ありふれた現象です。論理の飛躍はなく、物理法則の範囲内に収まっている。課題の要求する『合理性』は満たされていると判断します。……ですが、エンターテイメントとしての価値は、極めて低いですね」
二階堂「なっ……!?」
(普段は感情を見せない二階堂の眉が、ぴくりと動いた。まさか三田村に『面白くない』と断じられるとは思ってもいなかったのだろう)
三田村「……次は、私の番です。論理だけでは到達できない、しかし、物理法則を逸脱しない、本当の『変身』をお見せします」




