レイモンドの述懐
読んでいただきありがとうございます。
連載の息抜きに見切り発車で始めたお話ですが、予想外に沢山の方に読んでいただけて嬉しかったです。
感想にていくつかレイモンドの視点を読みたいという声があり、蛇足かなと思いつつも書いてみました。
いただいた感想は、お褒めの言葉から厳しいお言葉まで全て感謝しています。時間が無くひとつひとつの感想に返信するのが難しいため、この場でお礼申し上げます。
「……い……おい!」
聞き覚えのある声にはっと我に返る。顔を上げた先にはハワードが立っていた。
ケイトリンと婚約していた頃にはそれなりに交流もあり、親しい間柄だったが、クラリッサと婚約を結んでから三年――ケイトリンの働く商会まで押しかけたあの日から、ハワードとは口を利いていなかった。
「お前、顔が白いぞ。気分が悪いのか?」
三年ぶりに俺に話しかけてきたハワードは、決してそれが本意ではないのはひしひしと伝わってきたが、それでもその瞳には純粋にこちらを心配する色が宿っている。親切な彼のことだ。俺と交流は持ちたくないが、放って置けないと思ったのだろう。
「……大丈夫だ」
気にするな、と告げ立ち上がったものの、足に力が入らずよろついてしまう。ハワードは大きな溜息を吐くと、俺の肩を掴み強引にベンチへと再び座らせた。
「いいから座ってろ。大丈夫な奴の顔色じゃないんだよ。医務室には行ったのか」
「いや……少し休めば平気だ」
ハワードは再び溜息を吐き「少し待ってろ」と言い残し去っていく。上手く働かない頭でぼんやりと後ろ姿を言われるがまま見送る。
医務室には学園が契約した専任の医師が常駐している。まさかその医師を連れてくる気だろうか。医務室に行っても言われることはたかが知れている。
俺の予想に反してひとりで戻ってきたハワードの手には学園の食堂で使われるトレーがあり、その上にはガラスのピッチャーとグラスが置かれている。
ハワードは無言のまま隣に腰掛けると、ピッチャーから液体を注ぎ、俺にグラスを差し出す。
「これは……?」
「いいから飲め」
戸惑いつつも言われるがまま口に含むと、冷たい液体が喉を通った後、甘いようなしょっぱいような、不思議な味と共に爽やかなレモンの香りが鼻に抜けていく。
「………うまい」
「これを旨く感じるってことは、お前の身体には水分が足りてない、ってことだ」
言いながら、ハワードは再び空になった俺のグラスに液体を注いだ。
「お前、ちゃんと食べてるのか?目の下の隈も酷いし、睡眠は取ってるのか?」
ハワードの鋭い視線を受け止めきれず、思わず俯く。ハワードはじっと俺を見つめ続けている。
気が付けば、ぽろりと言葉が零れていた。
「………眠れないんだ。身体は疲れているのに、妙に目が冴えて……」
幼い頃からの婚約者であったケイトリンとの未来は無くなり、俺は彼女の姉、クラリッサとそのまま結婚した。彼女らの父である侯爵の判断で、ケイトリンが戻ってくるまでは、と俺たちの式は延期されていたが、彼女がいなくなり一年経ち、二年経ち……時間の経過と共にクラリッサは頻繁に癇癪を起こすようになった。このままただ時間が過ぎていくのを待っていても仕方ないと腹を括り、少し前に式を挙げた。
クラリッサは幼い頃から王太子殿下の婚約者として決まっていた。そのまま彼女が殿下の妃に収まっていれば、その結婚式は国を挙げて華々しく執り行われた筈だ。その地位を追われた今でも、思い描いた未来から外れることは許せない、とでも言うように、クラリッサは豪華な式にしたがった。
けれど、俺も、侯爵も――というより、クラリッサ以外の誰もが分かっていた。クラリッサの望むような式になどは到底ならないだろう、と。
王太子殿下の婚約破棄に始まる俺たちの婚約に纏わるゴタゴタは、醜聞となって広まっている。侯爵はローリエ家の持てるすべての力を使い、姉思いの妹が姉のために自ら身を引いた美談に仕立て上げようとしたが、肝心のケイトリンの不在が隠し通せる筈もなく、おまけに王家の厄介者であるナルサス卿と縁を結ばせようとした話が何処かから漏れ、そのような戯言を信じる者は誰一人としていなかった。
はっきり言って、俺も含めてローリエ家の人間は社交界で白い目で見られている。王太子殿下に婚約破棄されてすぐの頃は、それなりに同情する声や、表立って口には出さないものの、王子の教育に失敗した王家へ批判的な視線を向ける人も多かった。強引な婚約者の変更などしなければ、ローリエ侯爵家の立場は今よりは悪くなかっただろう。
当事者の一人である俺が言えることではないが、ローリエ侯爵の取った方法は完全に悪手であった。あの頃の俺は突然のことに混乱していて、ケイトリンに悪いと思いながらも、結局流されるままに受け入れてしまった。
寄親である侯爵家にたかが子爵家の令息が逆らえる訳ない。侯爵家には何かと便宜を図ってもらい、時には金銭的に支援を受けてきた過去がある。
俺個人としても、将来婿入りし次期当主の補佐をするためという名目で、幼少期からケイトリンと共に実家の子爵家では到底受けさせてもらえないような教育も受けることが出来た。生家である子爵家は、貧乏ではないが裕福という訳でもなく、子供達ひとりひとりに跡継ぎである長兄と同等の教育を施すことなど出来なかった。俺が侯爵家と縁を結ぶことを前提に享受してきた恩恵は、計り知れない程大きい。これまで散々世話になっておきながら、今更クラリッサと結婚出来ないなど俺には口にすることが出来なかった。
姿を消したケイトリンのことは勿論心配だった。婚約者である前に、ケイトリンとは幼馴染で友人でもあったから。その反面、突然全てを放り出していったことに対する苛立ちもあった。
俺とケイトリンは既に侯爵の執務の一部を引き受けていて、ケイトリンがいなくなったからといって俺が投げ出していいか、というとそういう訳にもいかない。姉のクラリッサは王妃教育を受けてはいたが、領地経営に関しては殆ど知識は無いと言っていい。
結局、これまでケイトリンと二人で行っていた仕事を俺がひとりでこなす日々が続いた。
そうこうして過ごす内に、新たな婚約者となったクラリッサと執務の合間に過ごす時間が多くなった。
婚約者がクラリッサになるまで、俺はクラリッサのことはよく知らなかった。ローリエ家には頻繁に訪れていたが、クラリッサは王妃教育のため不在にしていることが多く、あまり顔を合わせる機会は無かった。
侯爵夫妻は普段不在がちなクラリッサを何かにつけて優先しがちな所があり、クラリッサとケイトリンは同じ家で育った姉妹にしては距離があった。
昔からケイトリンと行動を共にすることが多かった俺は、ケイトリンが内心姉に複雑な感情を抱いていることは分かっていたから、自分からクラリッサに積極的に近づいていくことも無かったのだ。
改めて婚約者として接したクラリッサは、健康的な美人であるケイトリンと違い、何処か儚さの漂う美貌を持った女性だった。柔らかい口調の中にも気の強さを感じさせる部分はあったが「私にはレイモンドが必要なの」「レイモンドに優しくされるケイトリンが昔からずっと羨ましかったの」と手を握って頼られると悪い気はしなかった。
思い返せば、ケイトリンとは共に苦難を乗り越えてきた仲ではあるが、俺はあくまでも女侯爵となるケイトリンの補佐という立場であり、ケイトリンは自分から俺に助けを求めてくることは無かった。信頼されていない訳ではない。心を開いていない訳でも。
それでも、婚約者とはいえ、他人でしかない俺に判断を任せたり、仕事を任せきりにすることは無かった。
それは、侯爵家の跡継ぎとしてはこの上なく正しい姿勢なのだと思う。
けれど、いずれは夫婦としてやっていく前提があるのに、自分を頼ろうとしないケイトリンに対して、不満に感じていた自分に、クラリッサと婚約してから初めて気が付いた。
昔から長い時間を共有してきたため、いまいち異性としてより友情や親愛を抱いてしまうケイトリンといる時とは違い、クラリッサが近くにいるとドキドキした。
クラリッサは休憩時間の度に茶を持って現れ、ソファーに並んで座る。俺だって若い男だ。隙間無くぴったりと並び、柔らかい胸を押し当てられ腕に巻き付くようにされると、クラリッサの柔らかい身体や時折香って来る花の香りに心臓が高鳴った。
幼い頃から婚約者の決まっていた俺は、女性に対する免疫が無かった。侯爵家に婿入りの決まっている男に粉をかけてくる令嬢は居なかったし、俺自身も自分の置かれた立場は弁えていたのでケイトリン以外の令嬢と付き合うようなことはしなかった。かと言って、ケイトリンと二人でいても恋人同士のような甘い雰囲気になることは無く、軽いキスすらしたことは無かった。
最初の内は婚姻前の男女として適切な距離を取ろうと苦言を呈したが、クラリッサは全く意に介さず、侯爵家の使用人たちも用事を済ませると当たり前のように俺たちを二人きりにして退出していく。ケイトリンとの婚約中ですら、必ず二人きりにならないよう部屋に誰か残していたのに。
段々とクラリッサに大胆に迫られるようになり、ある日とうとうソファに押し倒され、求められるままにクラリッサを抱いてしまった。拒絶しようと思えば出来た。けれど、身体は自然に反応し性欲に負けてしまった。夢中で終わった行為の後、クラリッサがぽつりと呟いた。「これで婚約は破棄出来ないわね」と。
もしかしたら、殿下にこっぴどく振られたことがトラウマになっての発言だったのかもしれない。それでも、その言葉を聞いた瞬間、心臓が握り潰されたように痛んだ。
取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと――。次にケイトリンに会う時、俺はどんな顔をしたらいいのだろう。
途方に暮れながらも、一方で身体は一度覚えた快感に貪欲だった。駄目だと思いつつ、クラリッサの積極的な行動に翻弄され、それからも度々身体を重ねた。元々爵位が下ということもあり、気付けばクラリッサの言いなりになっていた。
ケイトリンと揃いで買ったピアスに目敏く気付いたクラリッサから外すように請われればすぐ外し、新しく誂えたクラリッサとの揃いのピアスに取って代わった。
クラリッサはケイトリンと関係のある持ち物を俺が持つことを嫌った。ケイトリンから贈られた刺繍の入ったポケットチーフや誕生日に貰ったブローチ、揃いで作ったスーツ、町歩きの際に互いに贈りあった万年筆まで――ケイトリンを少しでも想起させるような物の殆どは処分された。それでもどうしてもずっと着けていたピアスだけは何故だか手放すことが出来なくて、クラリッサには内密にして引き出しの奥に眠らせた。
ケイトリンがいなくなって半年程経った頃、学内で噂話を耳にした。平民街でケイトリンらしき少女の姿を見たというのだ。髪色は違ったそうだが、あの顔立ちは間違いない、と話す生徒を締め上げ、学園を飛び出して街に向かった。途中、血相を変えた俺と擦れ違ったハワードが事情を察して、無理矢理馬車に同乗して来た。正直迷惑だったが、公爵家子息でもあるハワードを面と向かって追い払うことも出来ず、仕方なくそのまま出発した。
会ってどうする気だ、と馬車の中でハワードに問われた。何を馬鹿なことを言ってるんだ?と内心で呆れた。
そんなの、連れ戻すに決まっている。この時の俺は、ケイトリンが戻ってくることを疑ってすらいなかった。これで漸くあるべき物があるべき場所に返り、この半年喉につかえていた物が取れると――。
久々に顔を合わせたケイトリンは噂の通り、真っ黒な髪に庶民的なワンピースを着て知らない男と歩いていた。まるで違和感無く道行く人々に馴染む姿を見て、自分でも形容し難い感情に襲われ、じりじりと胸を焼かれた。気付けばケイトリンの腕を掴んで声を掛けていた。
ケイトリンは俺の姿を見るなり目を見開き、今にも逃げ出しそうだった。ハワードの勧めもあり、その後なんとか場所を移して話したケイトリンの声は硬く、以前瞳に灯っていた親愛の情は見る影もなくなり向けられる瞳は氷のようだった。違うのは髪色だけの筈なのに、俺の知らないケイトリンが其処にいた。
軽蔑の籠もった冷えた視線を向けられ、クラリッサの色の耳元のピアスを指摘されると、血が逆流したかのようにかっと熱くなった。ケイトリンを見捨て保身に走った自分を、流されるままにクラリッサと関係を持った汚れた自分を見透かされたようで、情けなさと羞恥でひどい言葉を吐いてしまった。
あとから思えば、ケイトリンが本当はそれ程強くないことは、俺が一番知っていたのに……。一番支えが必要な時に、俺は何もしなかった。それどころか、ケイトリンを地獄に突き落とすのに荷担してしまった。
ケイトリンはピアスを外すと、テーブルの上に残したまま連れの男と去って行った。ハワードが二人の後を急いで追いかけて行ったけど、俺は呆然と座り込んだまま動くことが出来なかった。
侯爵家を飛び出してから、どういう経緯でケイトリンが今の商会で働くようになったのかは知らない。あの日家を飛び出したケイトリンは、傘一つ、銀貨一枚持たず、着の身着のまま出て行った。金に困ることもあったろう。ケイトリンと俺の色を合わせて特注したピアスは、純度の高い宝石を使っており、片側だけとはいえ売ればそれなりの値段になった筈だ。
それでもケイトリンはそうしなかった。ケイトリンは俺がとうの昔に外してしまいこんだピアスを、まだつけてくれていたのだ。
――俺は何てことをしてしまったんだろう。
どれだけ後悔しても、時間は巻き戻せない。犯した罪は無くならない。
この日のことが切っ掛けとなり、ハワードからも絶縁宣言をされてしまった。ハワードは自らの兄の愚行が周り回って今回の事態に繋がっていることに罪悪感を覚えているのか、ケイトリンの味方をすることに決めたようだった。
それまで俺は心の何処かで思っていた。理不尽な境遇に追い込まれているのはケイトリンだけじゃない。ケイトリンとの婚約解消からクラリッサとの婚約に至るまで、そこに自らの意志を何一つ介入出来なかったのはケイトリンも俺も同じだ。
それなのに、周囲の人間からも、血の繋がった子爵家の家族からさえも白い目を向けられるのはあまりにも理不尽だ。俺の置かれた立場を鑑みれば、現状をただ黙って受け入れる選択肢しか無かったのに。仕方ないことだったのに……と。
けれど、本当にそうなのだろうか。
一度頭に浮かんだ疑問は、いつまでも消えない。焦燥が胸を焦がす。
子爵家の、それも嫡男でもない俺が侯爵家に逆らうことは自殺行為だ。けれど、それでも俺が流されるままに取った行動は、本当に最善だったのだろうか。
結局はケイトリンでなくクラリッサと婚約する結果になったとしても、何もかも捨てて出奔を選ぶ程の絶望からケイトリンを救うことは出来たんじゃないか。
今更考えたって遅いのに、ぐるぐると頭の中でそればかり考えてしまう。過去をどれだけ悔やんだところで今の俺に出来ることはこれ以上侯爵家の評判を下げないように息を潜めて暮らすことだけだった。
***
貴族社会では、貴族――特に男は学園を卒業していてやっと一人前という風潮がある。そのため、クラリッサを妻に迎えた後も俺は学園に通い続けていた。
侯爵家に生活の場を完全に移し、クラリッサと夫婦として生活を送る内、次第にクラリッサはヒステリックになっていった。
起死回生のつもりで大々的に売り出した、領地の蜂蜜を使用した美容関連商品だったが、商品自体の評判は良かったものの、俺と共に研究開発の大部分を担っていたのがクラリッサではなくケイトリンだということが何処かから広まり、良識ある貴族からそっぽを向かれていた。
これまで殿下の婚約者として、未来の王太子妃として、羨望の眼差しを送られていたクラリッサには耐えられない程の屈辱だったようだ。夜会や茶会から帰る度、激しい癇癪を起こすことが増え、終いにはちょっとしたことでメイドに当たり散らすようにさえなった。
そうなると、侯爵家で過ごす時間は地獄だった。学園から疲れて帰っても心休まる時は無く、妻となったクラリッサの機嫌を取りながら執務をこなす日々。
まともに夫婦として機能していたのは最初のほんの数ヶ月くらいのものだろう。短い婚約期間のように二人でお茶を飲みながら寄り添うこともなく、共有の寝室ではなく自分に与えられた部屋のソファで眠ることも増えた。
日に日に窶れていく俺の姿を見兼ねてか、何時かの絶縁宣言を曲げ、ハワードは時折俺に話しかけてくるようになった。ハワードは父と同じ騎士を目指しているからか、何故か常日頃からレーションを持ち歩いている。少量でも栄養があり腹持ちするからと、それをすっかり食の細くなった俺に度々押し付けては去っていく。決して美味しいとは言い難いが、それでもその気遣いが有難かった。
ハワードとは違い、これまで友人と思っていた多くの人間は波が引いたように離れていった。俺にその自覚は薄かったが、以前は今後ケイトリンと共に未来の侯爵家を盛り立てていく人間として寄って来ていたのだろう。次期当主の配偶者という俺の肩書自体は同じでも、今や醜聞に塗れた落ち目のローリエ家に取り入っても旨味は無いと判断されたのだ。俺が彼らでも同じ行動を取ったかも知れない。俺には彼らを責める資格は無い。
俺たちが拒絶されたのは貴族たちからだけではない。侯爵家の評判を回復させるためとはいえ、ケイトリンの功績を丸々奪うような形で商品を発表したことで、共に研究に取り組んでくれていた領民からも軽蔑の眼差しが向けられた。口には出さないもののあからさまに侮蔑的な視線を送ってくる者もいれば、領民長のように直接苦言を呈してくる者もいた。
ケイトリンと共に訪れる度に温かく迎え入れてくれていた彼らとは、それなりに良い関係が築けていると思っていたから、彼らから向けられる非難の籠もった視線は、正直俺にはかなり堪えた。
歩み寄ろうにもクラリッサの気位の高さが災いし、領民との間には更なる軋轢が生まれるばかりだ。次第にクラリッサは領地を訪れることすらせず、王都の屋敷に留まり商人を家に呼んではあれこれ買い漁り、それを注意するとあちこち出掛けては散財するようになった。ケイトリンに代わり立派な当主となってみせるとあれだけ言っていたのに、すべての仕事を俺と父である侯爵に押し付け遊び回っている。注意すればする程酷い癇癪を起こし、手に負えなくなっていた。
本格的な不眠に陥った俺は、深夜部屋を抜け出しては一人パティオで酒を煽ることが日常化していた。手にはこっそり保存していたケイトリンと俺の色が合わさったピアス。
ケイトリンは今頃何をしているだろうか。俺や侯爵家のことなど忘れて、元気に暮らしているだろうか。
侯爵は未だにしつこくケイトリンの居場所を探り、あれやこれやとしているようだったが、ケイトリンに合わせる顔のない俺はただ未練がましくピアスを見つめることしか出来なかった。
ケイトリンと顔を合わせることは、もう二度と無いかも知れない。ケイトリンの心を傷つけるような言葉を吐いたあれが最後なんて、情けなくて申し訳無くて……今俺が置かれている状況は、きっと罰なのだと思う。幼馴染みをあっさりと裏切った罰……。
***
相変わらず領民との関係はこじれたままだったが、そのままでいるわけにもいかない。貴族向けに開発していた美容関連商品の売上が奮わず、クラリッサの婚約破棄から始まった一連の醜聞劇で侯爵家の評判は地に落ちている。
新たな一手として、貴族向けに開発していた美容商品を改良し、価格帯を抑え庶民向けに売り出すことにした。
ベースとなる商品はあるとはいえ、改良にはそれなりに時間も人手もいる。なんとか領民長に頭を下げ協力を取り付けたものの、前回の例から研究に協力しても手柄を取られるだけ、と領民たちの態度は非協力的だった。
なんとか確保出来た人員は、領民長とその妻、前回から協力してくれている研究者が一名に後は数人の女性たちだった。彼女らには開発した商品の被験も兼ねて貰う予定だ。
協力してくれた女性たちの殆どは、生活に困っている者たちだ。賃金目当てで無ければ、今の侯爵家に協力したい人などいないということなのだろう。
その中に一人、夫を事故で失った未亡人がいた。名前はラナ。彼女は女手一つで幼子を育てながらあちこちで仕事を掛け持ちしていた。
現在、領民の俺に対する態度は主に二分している。明らかな軽蔑の眼差しを向け拒絶するか、扱いに困りながらも領主代行としての地位もあり邪険に扱うことも出来ず腫物扱いするか、だ。
それも仕方ないと甘んじて受け入れていたが、ラナは最初からそのどちらとも違う態度だった。
「協力してくれてありがとう」と一人一人に声を掛けていた時、他の人間は苦い顔で頷いたり曖昧に苦笑するだけだったが、ラナははっきりと「お金のためですから」と言い切った。
厳しい言葉とは裏腹に、彼女は相手が俺であろうと他の領民であろうと態度を変えることはなく、黙々と作業を続けていた。安易に人の力を借りることをよしとせず、なるべく自分で仕事をこなそうとする。
それ自体は素晴らしいことであるものの、その生真面目さから領民の中でも少し浮いていた。嫌われているわけではないが、近寄りがたい。そういった雰囲気が漂っていて、その不器用さが災いして割を食っていることもありそうだった。
ある日、街中で幼い男の子の手を引いて歩くラナの姿を見つけた。彼女と亡き夫との間の子なのだろう。仕事中の彼女とは別人のような穏やかな笑みを浮かべていて、俺は思わずその笑顔に見入ってしまった。
彼女の夫が亡くなったのは三年も前だという。若くして夫を失った女性が長らく独身でいることはそう多くない。貴族の世界でも平民の世界でも、男性優位なのは変わらないからだ。女性が一人で生きていくことは想像以上に大変なことであり、家族や周囲の人間がいれば再婚を世話するため、大抵の女性は例え亡き伴侶に思慕を抱いていたとしても、それを押し隠して次の男へと嫁いでいく。
正確な年齢は知らないが、見たところラナはまだ若く健康で働き者、見た目も平凡ではあるが清潔感はあり悪くない。そんな彼女が三年もの間未だ独り身でいることを不思議に思い、それとなく領民長に尋ねてみた。領民長は「あの子は他人に寄りかかることを是としないからね」と言うだけだった。
平民向けの商品開発で最もネックになっていたのは、香り付けの部分だ。既に販売している貴族向けの商品には、様々な花やハーブの精油を組み合わせ、ほんのり持続する複雑な香りを表現することに成功していたが、それをするとコストが圧倒的に高くなりすぎ、庶民でも手の届く価格帯に抑えるのは難しい。かと言って、ミツロウを使っただけのクリームならば類似品は既に沢山市場に出回っている。あくまで廉価版として販売するためには香りも重要になってくることは間違いない。
コストを抑えながら最も適した香りを見つけるため、精油より低コストで済む浸出油を使うことにした。浸出油とはハーブを植物油に浸けて成分を抽出したものだ。収穫までの時間が短いハーブや育てやすいハーブにいくつか的を絞り、浸出油を作っていく。
作り方は簡単で、ハーブを浸けた植物油を湯煎し温めながら成分を抽出するだけだ。常温で作る方法もあるが、そちらの方法だと抽出するのに時間がかかるため、今回は温める方法で作ろうと話し合いで決まった。
それぞれに仕事を割り振っていく中で、ある時ラナと他の女性陣の間で諍いが起きた。
ハーブの摘み取りに加え、湯煎した後ガーゼで油を漉し、残る中に浸していたハーブをぎゅっと絞る作業があるのだが、これが中々の重労働だった。
ラナによると、以前から手を抜くことの多かった他の女性たちの分まで仕事を押し付けられていたらしい。工程表より作業が遅れないよう、黙々と作業をこなすラナと彼女たちの間の溝は次第に広まっていったそうだ。
ラナの話を聞いた時点では、彼女が腹を立てるのも当然だと俺も思った。しかし、ラナと対立していた女性たちに話を聞くと、彼女たちの言い分はまた違っていた。
彼女たちは決して仕事に手を抜いているわけではないが、ラナの言う通り確かに常識の範囲内で仕事中に雑談をしたり、時に休憩を挟んでいたことは事実だそうだ。
しかし、彼女たちにしてみればラナに仕事を押し付けるつもりは無く、可能な範囲で仕事をこなし、工程表とズレが出てしまう分に関しては現場の責任者である領民長と相談して工程表の調整をしてもらう腹積もりだったらしい。
ところが、少しでも工程表とズレがあれば許さないとばかりにラナが休憩時間を削ったり、残業してでも作業を続け、一人そのズレを埋めてしまった為に、領民長に相談することも出来ず、かと言ってラナと同じような働き方は御免だということで、彼女たちは彼女たちでフラストレーションが溜まっていったらしい。
俺はその話を聞いて思わず唸ってしまった。
ラナの生真面目さは信頼に値するし、賃金を貰う以上全力で仕事に取り組もうとする姿勢は素晴らしいことだと思う。
けれど時には他人の分まで働いて、それで彼女は、周囲の人間は幸せになれただろうか。
ラナと一緒に作業していた女性たちにも悪いところは無かったとは言わないが、俺には彼女たちの気持ちもよく分かった。彼女たちが怠け者などではないことはよく分かっている。
ラナは彼女たちからすれば無茶苦茶な働き方で目標を達成しているように映るのだろう。誰もがラナのように出来るわけではないし、ラナだって年を重ねれば今と同じような無茶がいつまでも続くわけではないだろう。
彼女たちは彼女たちなりに、今後侯爵家の事業として破綻することが無いように、関わる者が長く働ける環境を作れるように、という考えの下で動いていた。
現実を理想に合わせようと懸命なラナと、理想を現実にそぐう形に変えようと動いた彼女たち。
どちらが良くて、どちらが悪いとは俺には言えない。
けれど今回はラナに無茶な作業をさせ、気が付かなかった俺や領民長の責任だ。無理のない範囲で効率よく仕事を終わらせられるよう工程表を見直すことで話は落ち着いた。
それでも、何処か落ち込んだ様子のラナが気になり、俺は迷った末に彼女がひとりの時にそっと声を掛けた。
「今回は君に負担を掛けていたことに気が付いてやれなくてすまなかった。これからは言いづらいなんて思わずに、辛いことや疑問に思うことがあれば相談してほしい」
「……分かってるんです。本当は、私だって。真面目過ぎて皆から煙たがられていることくらい……。昔からずっと、クソ真面目って言われてきました。でも容姿も能力も秀でた所の無い私には他に取り柄なんて無かったから……私から真面目さを取ったら何も残らない。だから真面目に頑張るしか無かった。
他の人みたいに肩の力を抜いて、雑談も楽しめたらどんなに良いかって何度も思った。せめてもっとニコニコ誰にでも愛想良く振る舞えればって。客観的に見れば、私みたいな堅物で滅多に笑わない女より、私だって多少ずるい所があったっていつも愛想よく可愛く振る舞える女の人の方が良いって分かってます。でも、出来ないんです……。面白くもないのに笑えないし、好きでもないのに愛想振り撒けない。物理的には出来るんでしょうけど、それをやって他人に好かれたところで、そんなのは私じゃないって心が叫ぶんです」
一度ぽろりと涙が落ちると、止まらなくなったようで、ぽろぽろと泣きながら話す彼女に胸が締め付けれられた。
あまりにも不器用な彼女を見て俺の頭に浮かんだのは、つい数年前まではいつも自分の隣に姿のあったかつての婚約者の姿だった。ラナの不器用さは何処かケイトリンに似ていた。二人とも優秀ではあるが、決して要領の良いタイプではない。もっと楽に、いい加減に生きることも出来るのに、それをしない、出来ない不器用さが時に痛々しかった。
彼女たちは他人に頼らないわけじゃない。頼れないんだ。それは恥ずかしさだったり、意地だったり、見栄だったり、誇りだったり――根本には色々な物があるのだろうが。
それでも――と、俺は何年も経って初めて気が付いた。
ケイトリンは確かに、婚約者であっても安易に俺に頼ることも寄りかかることも無かった。
けれど、俺が手を差し出した時には、いつだってその手を取ってくれたじゃないか。「ありがとう」と、感謝していたじゃないか。
他のすべての人間にそうだったとは思わない。ケイトリンにしてみたら、あれで俺に甘えているつもりだったのだろう。あれで俺を頼っているつもりだったのだろう。
今更ながら、そんなケイトリンに、君は強いからひとりでも平気だ、などと言った自分の愚かさが身に染みる。
――ごめん。ケイトリン、ごめん。俺は何年経っても愚かなままだった。
此処で何もせずにラナを突き放すことは簡単だ。でも――。
「ラナ。君は確かに生真面目過ぎて周囲の人から浮いてしまっている節はある」
「……はっきり言いますね」
「ごめん。でも、俺は君のその真面目さは間違いなく長所だと思うよ。責任感の強い所も雇う側としては好ましく思っている。だから、もう少し肩の力を抜いて……って言われても、急には出来ないだろう?だから、まずはお子さんも一緒に連れてきてみたらどうかな」
「え……?」
「君には幼いお子さんもいるんだろう?実は以前君と歩いている姿を見かけたことがあって。お子さんといる時の君は、此処で見る君とは全然違ってとても柔らかい雰囲気だったよ。お子さんが周囲の人との潤滑油にもなるのではないかな。勿論、君やお子さんの都合もあるだろうし、無理にとは言わないけれど」
「……いいんですか?」
話を聞けば、ラナは働きに出ている間、両親や店をやっている近所の友人の所に子どもを預けているらしい。此処で働き終わった後、別の仕事に出かけることもあり、一緒にいる時間を中々取れないことが気がかりだったと。
職場の他の人からも同意を得た上で、翌週から彼女の子どもも一緒にやってくるようになった。期待通り、ラナは愛らしい息子の姿に柔らかい笑みを浮かべるようになった。彼女の息子のマイクは、幼いながら利発で、仕事の邪魔をするようなことは無く、空いている机に座って絵を書いたり本を読んだりお昼寝したりして過ごしていた。母親の彼女が出来ない分、とばかりに全方面に愛嬌を振り撒く彼に職場の同僚たちも骨抜きだ。ラナと同僚の女性たちの間に横たわっていた筈の深い溝はいつの間にか無くなっていた。
完成し、第一弾として売り出したローズマリーの香りのクリームは庶民の間でよく売れた。研究所の規模も広げ、新たに領民を雇い入れた。彼ら、彼女らの中にはラナと同じく幼い子を抱えて働いている者も多く、次第に子を連れて出勤する者も増えてきた。子の数が五人を超えた頃から、保育スペースを設け、簡単な文字の読み書きも教えることにすると、更に子の数は増え、気付けば研究所に保育所が併設されていた。領民であれば誰でも預けられるとあって、沢山の子どもや親がやってくるようになり、識字率も徐々にではあるが向上し、領民同士の交流も随分と増えた。
この頃にはもう、俺は王都の屋敷には数か月に一度帰る程度で、殆どを領地で過ごしていた。相変わらずクラリッサとの仲は冷え切っている。彼女が悪いのか、俺が悪いのか――たまに義務のように閨を共にはするものの、俺たちの間に子どもが出来ることは無かった。
ケイトリンにはどうやら子どもが出来たらしい、と風の噂で聞いた。相手はあの時隣で彼女を支えていた商会の男だろうか。
侯爵はケイトリンの子どもを養子にしようと躍起になっていたが、多数の家から睨まれ難航していた。何よりケイトリン本人にその気は無いだろう。いい加減諦めるべきだと侯爵を諭した末、結局他家に嫁入りしていた侯爵の妹の三男を養子に取ることになった。
時は流れ、陛下の許可なく婚約を破棄するという稀に見る大騒動を引き起こした殿下が、再教育の末信頼を取り戻し、再び王太子に任命された頃――かつて殿下の婚約者として淑女の手本を体現していたクラリッサの姿は、今はもう何処にもない。あれ程溺愛していた自慢の娘が以前のような淑女に戻ることはないと、侯爵は漸く諦めたようだった。
クラリッサと殿下の婚約破棄以降、悪手を打ち続けた侯爵だったが、領地や領民の未来を冷静に考える理性は残っていたらしい。とてもでは無いがクラリッサに領地を任せることは出来ないと、最終的に爵位はクラリッサではなく養子に取った男児に譲ることに決めた。彼はまだ幼いため、独り立ちするまでの間は俺が中継ぎの侯爵として一時的に爵位を継いだ。
引退した前侯爵夫妻は領地の屋敷に離れを建て、晩年は人目を遮るようにひっそりと暮らした。両親ですら手に負えなくなっていたクラリッサは、最終的に領地内で最も厳しい修道院に送られた。彼女と離縁することは無いが、今後会うことも無いだろう。
俺は養子に取った息子と二人、普段は領地で暮らしながら、必要な時だけ王都を行き来する生活を続けた。
クラリッサと婚姻したばかりの頃、領民から向けられていた軽蔑の眼差しは今はもう無い。紆余曲折はあったものの、彼らとは今もいい関係を築けている。ラナは例の一件から暫くして、正式な職員として研究所で働くようになり、現在も彼女らしい生真面目さを時に発揮しながら働いている。初対面の時ですら臆さず物を言ったラナは、度々俺に辛辣な言葉を吐いたが、その助言は友人の殆どを失ってしまった俺にとっては有難いものだった。
ラナの息子のマイクは成長し、特待生として王都の学園に通うことになった。立派な少年に育ったことを誇らしく思いつつも、愛する息子が自分の手を離れたことが寂しいらしい彼女は、いつの間にか私の息子と距離を縮め、母親代わりのような存在になっていた。
二人で並んでのんびり景色を眺めながらお茶を飲む。隣に座る、出会った頃より皺の増えたラナの横顔を眺めながら、ふとケイトリンを思い出す。
侯爵家を出てからのケイトリンのことは、積極的に調べようとは思わなかったが、庶民向けの商品が完成した時、一度だけどうしても謝罪がしたくて、かつてケイトリンが働いていた商会経由で手紙を託した。完成した美容クリームに、それから最後にケイトリンと会ったあの日、彼女がテーブルに残していった片側のピアスを添えて。
暫くして、見事な立体刺繍の施されたハンカチーフが一枚、送られてきた。差出人の名前は無いけれど、本物と見紛う程の見事な刺繍の腕前の持ち主は言わずとも分かった。ハンカチ一面に咲き乱れるネモフィラの花。花言葉は――『あなたを許す』。
その夜、一晩中涙が止まらなかった。
その後、俺に分からないように件の商会を通して隣国から大口の商品注文が何度か来た。
見事騎士となったハワードも、里帰りの度にメイドや執事への土産という名目で俺に内緒で沢山の商品を購入してくれた。
敢えて俺に知れないように行動する二人の気持ちを無下にはしたくないから、表立って御礼を言うことは無かったけれど、心の内ではいつも感謝していた。
結局彼らに何一つ恩を返せていないと嘆く俺に、ラナは言った。
彼らは見返りが欲しくてやっているわけではないから気に病む必要は無い。その代わりに彼らがもし今後困ることがあったら、その時いつでも助けられるよう、備えておけばいい。
それでもどうしても気が済まないならば、彼らが自分にしてくれたように、自分も誰かに手を差し伸べて上げればいい。それが廻りまわって彼らの役に立つこともあるかも知れない――と。
ラナのこの言葉は、その後の俺の人生に於いて一つの指針となった。
未だに彼らに報いることは出来ていない。
自分の可能な範囲で伸ばした手は、彼らのように誰かの支えになっただろうか。
答えは分からない。それでも俺は、手を伸ばすことは止めないで生きていきたい。
***
王国歴××年、ローリエ侯爵レイモンドは息子シエルに家督を譲ると領地へ隠居した。生涯をローリエ領の発展に捧げた彼は、晩年領内の福祉の充実に努め、教育水準の向上に寄与した。平民に混じって過ごす彼の傍らには、一人の未亡人の姿がいつもあったという。
―――『王国の近代史150年』より一部抜粋。




