言葉
ある日アヤは学校から息を切らしながら帰ってきた。もちろん僕もアヤと同じスピードで走っていたのだけれど、体の構造が違うのか、僕の呼吸は乱れてはいなかった。僕は学校から止まる事無く道を走り抜けたアヤに「何があったの?」っと聞けなかった。何もないわけがない。ベッドに頭を預け、腕で顔を覆い、肩が震えている。制服すら脱いでいない。
いつもは二人でお話しながら、小さく咲いている花を眺めたり、流れる川に光る魚の数を数えたり、寄り道と呼べるほどではないのだがゆっくり僕たちは同じ景色を見ながら歩いて帰ってくる。今日は最短記録だ。学校で靴を履き変えたアヤと今ここに居るアヤの間の景色がすっぽりと抜け落ちている。僕はアヤしか見ていない。アヤと同じ物を見てない僕の景色は音も立てずに消えていく。
「泣いてるの?」
「泣いてないよ。」
「でも泣きそうだよ。」
「でも、まだ泣いてない。」
「どうしたの?」
「私、生意気なんだって。使う言葉が偉そうでムカつくんだって。」
僕はアヤと一緒にいるのに、いつどこでだれに言われたのか分からない。僕はアヤに話しかける誰かに興味が無いことを少し後悔した。僕はアヤの味方だから贔屓目に見てしまう。でも、アヤの使う言葉は綺麗で、誰かを傷付けようとして紡がれた記憶はない。アヤはたくさん本を読む。本を読むと必然的に、使える言葉が多くはなる。アヤは自分の理解出来ない単語がどの言語であっても、辞書を片手に自分が納得するまで調べあげる。理解している言葉が多いアヤは、今はあまり使われていない慣用句を意識せずに使う。今回はたぶん誰かにそこを指摘されたのだと思う。
「がうがうがぉぉん。がう。」
僕は久しぶりに吠えた。アヤは目を見開いて止まった。よしよし成功。
「どうしたの?」
「がう。がううがう。がおお。」
「氷室君?」
震えるマツゲに涙が滲んで今にも滴り落ちそうになっている。
ふにゃりと口元が緩む。
「アヤ、僕は黒豹だよ。本来「が」と「う」と「お」たまに「あ」って音でコミュニケーションを成立させる生き物なんだよ。ちなみに僕は雄だから男性詞を使うんだけど、雌は女性詞を使わなくちゃいけない。細かい決まりがあるんだよ。」
僕は流暢な日本語で嘘を付き始めた。
「四種類の音の並べ方、高さ、長さで使い分けてるんだ。状況によって同じ文章でも違う意味になったりする。日本語で言う。同音異義語だね。アヤはさっき僕が何言ったか分かった?」
「わからない。」
口元が緩む。もう少しだ。
「なんで分からないの?」
「知らない言葉だから」
「「がうがうがぉぉん。がう。」が「僕はアヤが泣きそうだから嫌」「がう。がううがう。がおお。」が「なんで僕の言ってる事わかってくれないの?」だよ。」
「無理だ。氷室君の使う言葉が理解できない。」
「僕がいつも使う言葉はアヤには難しい。だから僕はアヤとお話する時はアヤの理解できる日本語なんだ。それと一緒だよ。」
「一緒?」
「そう。アヤが誰かとお話する時、今度からで良いからもう少し相手に分かってもらえる言葉を使うと良いよ。」
「でも日本語しか使ってないよ。」
「僕だって「が」と「う」と「お」と「あ」しか使ってないよ。同じ意味でも簡単な言葉に変えて口に出したら良い。そうすれば簡単に相手に分かってもらえるよ。」
「今度やってみる。」
アヤは思った事を一度頭の中で咀嚼して簡略化して外に出す事を覚えた。そして、僕が即興で作った「氷室君語」を覚えようとし始めた。僕は自分の嘘で少し困った。