AB(5)
眼前に並ぶ、いかにも高級そうな陶器のティーセット。陶器の皿が三枚重なるケーキスタンドには、これまた高級そうな菓子が飾り付けられている。
少なくともエマが自分では買わないような高級な茶器で、高級な紅茶と菓子に舌鼓を打つ、という状況に、いつの間にか随分と慣れたものだとエマは息を吐いた。
「お疲れなのかしら、エマさん」
エマのため息が聞こえたらしいセリアが、穏やかに微笑む。高そうなカップも、高そうな菓子も、彼女が手に持てば、途端に小道具のひとつと化す。
さらりと流れる艶やかな黒髪にふと目を奪われ、エマはうっかりとセリアの言葉を聞き逃した。
「……すみません、今、なにか」
「疲れているのかって、……もう。大丈夫?」
呆れたようなセリアのきれいな顔を、やはりぼんやりとしながらエマは眺めた。
今日は、話がある、とアデールに呼び出された休息日である。呼び出した当人は、まだ支度が済んでいないとかで、エマとセリアは、アデールの顔を見ていないまま、彼女の部屋でお茶を楽しんでいる。
「やっぱり、疲れているのよね?」
妙に、意識がふわふわとして定まらない。先日、今と同じアデールの自室で、アデールとセリアの前で泣いてしまってからずっと。勉強に集中しているときは大丈夫だが、こうしてひと息ついているときに、ふっと意識がどこかへ行ってしまう。
人前で泣いたのなんて、何年ぶりだろう。死んだ家族を思って泣いたのなんて。
「エマさん?」
セリアがエマの名前を呼ぶ。心配そうな声色に、エマは我に返った。
「本当に大丈夫? 医師科は普通科より大変でしょう?」
「いえ、すみません、大丈夫、……大丈夫です、セリアさん。それは本当に。ちゃんと授業には追い付けてますよ。課題もまだ、手に負えない量ではありませんから」
聞かれていないことまで口走り、ああやはり妙に意識が浮ついているな、とエマは唇を噛んだ。
ここ二、三日の授業ではノートを取り損ねたこともあったし、課題も提出期限ぎりぎりまで取り組んでいることが多い。しかしそんなことは、セリアに言っても仕方のないことなのに。
ため息をまたひとつついて、エマは話題を逸らす。
「それよりも。遅いですね、アデールさん」
「そうね。ここに通したメイドも、待てとしか言わなかったものね。いつまで待てばいいのかしら」
お茶も飲み終わってしまうわ、と軽くカップを振ってみせるセリアに、
「お注ぎしますよ」
ポットのカバーを外してエマが声をかければ、セリアは少し目を見開いてから、くすりと笑って首を振った。
「違うの。もういいのよ。お腹がふくれてしまうから、休憩」
「……そうですか」
エマはカバーをポットにかぶせ直そうか少し悩んで、結局自分のカップにおかわりを注いだ。空のカップになみなみと注がれた紅茶の水面に、ティースプーンを突き刺した。
「ミルク、こちらよ」
「あ、……ありがとうございます」
セリアが差し出した小さなポットを受け取り、ひとさじ掬ってカップに流し入れた。底に落ちていく白い模様を目で追いかけて、突き刺したままのスプーンを揺らした。紅茶が白く濁る。エマは目を伏せた。
エマの耳に、少しだけ面白がるような響きの、高い声が聞こえてきた。
「もしかして、泣いたのがそんなに堪えてらっしゃいますの?」
がばりと身を起こしたエマの勢いに驚いたのか、セリアは身を引いてエマを見ていた。声の聞こえた扉の方を振り向くと、アデールがエマたちの方へ歩いてきているところだった。
「ねえ、エマさん」
「……アデールさん」
エマたちの座るテーブルに座ったアデールは、連れていたメイドが淹れた紅茶をひと口飲んだ。カップを置いて、ふふんと笑ってエマを見てくる。
「…………正解です、アデールさん」
エマは、がっくりとうなだれた。そう、結局は、気まずかっただけ。あの日、アデールを慰めるつもりでいたのに、泣き出して慰められたのはエマだった。
「お見苦しいところを、お見せしました……」
「そんなに気になさらないで。私としても、あなたのおかげで覚悟を決められたのですわ、エマさん」
覚悟。アデールの言葉に、エマは顔をあげる。アデールが頷いた。
「お話というのは、そのことですわ。私、神授籍に入りますの」
カチャン、という陶器が鳴る音がした。見れば、セリアが唇を噛んでアデールを見ていた。
「アデールさん、本気、なのね」
セリアの震える指先を、アデールがそっとつかんだ。
「ええ。卒業後に、オーガスト様と一緒に」
「けれど、アデールさん、ああ、わたくし、お父様に伺ったの。神授籍について、詳しいことを教えてと」
セリアが首を振って、アデールの手にもう片方の手を重ねた。
「アデールさん、あなたは、子を成すつもりが、ないの?」
エマはぎょっとして、手にしていたスコーンを皿に取り落とした。家というものが強いしがらみであるこの世界において、夫婦間に子どもがないことは、庶民の家であってもデメリットになる。こと貴族社会においては、大きなデメリットのはずなのに。
エマとセリア、二人からまじまじと見つめられたアデールは、いいえ、と微笑んだ。
「卒業してから神授籍に入るまで、少しですが時間はありますもの。ですから、エマさん」
「え、はいっ」
唐突に話を振られたエマが、思わず起立して背筋を伸ばした。エマの慌てぶりに、アデールはともかくセリアまで吹き出していて、エマは赤くなって頬をかいた。
笑い交じりにアデールに着席をうながされる。先ほどまでの重たい空気が、少し軽くなったことにエマは安堵した。
「エマさん、卒業しましたら、研修医になるのでしょう?」
「そのつもりです。王立医師学校の附属病院ですね」
「あなたを贔屓にするというお約束もありますし、私の診察をお願いしたいのですわ」
エマは、飲んでいたお茶を噴きかけた。
「そ、それ、アデールさん、あの、待ってください、私は内科の希望で」
「体内の様子をみるのですから、似たようなものでしょう?」
きょとんとして首をかしげるアデールに、エマは頭を抱えて叫ぶ。
「――知識もないのに、妊婦の診察なんか適切にできないですよ!」
エマの叫びに、とうとう声をあげて笑い出したセリアが、目じりの涙をぬぐいながら頷く。
「よかったわね、エマさん。こんなに大口の顧客、ないわよ」
「他人事だと思って、セリアさん!」
「あら、もしかしたらわたくしも、お世話になるかもしれないわ」
「……自分の患者に、侯爵家と、伯爵家の、ご令嬢……」
セリアの追撃に、思わず皮算用を始めてしまう。この世界で、養父のように研究しながら町医者をやるためには、後ろ盾になってくれるような顧客がいなければならない。アデールとセリア、この二人に懇意にしてもらえるのであれば、エマの医師としての将来は安泰だろう。
「ない知識なら得ればいいだけだわ。悪いお話じゃないでしょう、エマさん?」
「もちろん、産婆までお願いするつもりはございませんわ。健康の管理だけ、信頼できる人にお願いしたいのです」
セリアが、上品だが底意地の悪い笑みを、アデールが、少々不安そうな表情を浮かべている。
打算的なことはともかくとして、この、美しく可愛らしい、素敵な友人たちのために、頑張れないなんてそんなことがあるはずもなかった。
「ええ、はい、わかりましたよ。やります、やってやります。任せてください」
反らせた胸をひとつ叩いて、エマはにこりと微笑んだ。
「私は、あなたの恋を、最後までお手伝いします」
その宣誓は、過去に縛られたまま医師を目指していたエマ・バトーが、本当の意味で、医師としての自分の未来を選択するものだった。
自分の無力感を晴らすためではなく、誰かの心を晴らすために。失われる命を救うだけではなく、新しい命の誕生を手助けすることもできるように。
「どうぞ、これからもよろしくお願いいたしますわ、エマさん」
アデールの美しい微笑みに、自然と頭を下げながら、エマは高揚感を感じていた。
‘Affective Blooms’ end.