おまけSS「がおぉ」
<イワン視点>
その日、俺は憂鬱だった。
……と言うより、ここ数日、ずっと。
原因が何であるかは分かっている。
俺の専属メイドである、エミリアだ。
よく分からないのだが、夜寝ているエミリアを見ていると裸にひん剥いて「食べたい」という衝動を覚えるようになってしまった。
朝のおはようからおやすみまで、これほど尽くしてくれる相手に対してこんなことを考えるなんて、俺は……頭のどこかがおかしいんじゃないか。
それをずっと悩んでいた。
一人では抱えきれなくなり、このことをウトに相談してみた。
「なぁ。女を食べたいって思ったことはあるか?」
俺からの問いかけに、ウトは珍しいモノでも見たかのように目を丸くした。
「急にどうした? まさかお前からそんな台詞を聞ける日が来るなんて」
「なんていうか、最近ずっと思うんだよ」
「おーおー、イワンもついに大人の仲間入りをしたくなったのか?」
ウトは嬉しそうに俺の肩に手を回してくる。
「俺も先輩から聞いたばっかで覚えたてだが……いくつかいい店を知ってるぜ」
「店?」
ウトが言うには、そういう専門店が夜の街にはたくさんあるらしい。
「ってことは……みんな、女を食べたいと思うのか?」
「そりゃそうだろ。そのために生きてるようなモンじゃないか?」
そうだったのか……。
ということは、俺は正常……なのか?
「でも食べたら相手は痛がるだろ?」
「そりゃ最初はな」
「最初だけなのか?」
「ああ。慣れたら全然そんなことないし、店の女はもう慣れっこだ」
……女は食べられても再生する能力があるんだろうか。
でも、エミリアの傷の治りは至って普通だ。
個人差があるってことなのか?
それとも、数をこなせば再生能力が高まるのか?
……エミリアを食べても、大丈夫なんだろうか。
夜、必死に抑えている衝動の枷を外しても……俺とエミリアは、今までのままでいられるんだろうか。
「ところで、誰のことを食べたいって言ってんだ?」
「エミリアだ」
「……イワン、今の話は忘れてくれ」
「え?」
さっきまでの調子とは打って変わって、ウトは真面目な顔で告げる。
「エミリアはやめとけ。そういう感情を持っているなら、離れて暮らした方がいいぞ」
◆ ◆ ◆
ウトから話を聞いた夜。
「……」
俺は、『食べても大丈夫』という言葉が忘れられず――エミリアを、少しだけ食べることにした。
もちろん痛がらせるつもりはないし、裸にするつもりもない。
ほんの少し――ほんの少しだけだ。
俺は、そっとエミリアの細い首を噛んでみた。
ヴァンパイア種族の犬歯は長い。
そのまま噛んだら皮膚に穴を開けてしまうので、唇を少し付ける程度の……いわゆる甘噛みだ。
子犬がじゃれる程度のもの。
それでこの衝動が収まるなら――。
「んっ」
「!?」
これくらいなら大丈夫かと思ったが……エミリアは起きた。
慌てて狸寝入りをする。
「んぁ……なんだぁ?」
エミリアは起き上がると、首筋を触る。
「寝惚けて噛み付いてきたのか?」
「……」
まるで俺が起きてることを知っているかのように話しかけてくる。
ウトには「男ならそう思って当然」と言われはしたものの、まだ俺の中で食べるという行為は後ろめたいことに分類される。
だから必死で狸寝入りをした。
「たく……相変わらず寝相が悪いなお前は」
部屋が暗いことが幸いしてか、エミリアは俺が起きていることに気付かなかった。
ベッドからはみ出している俺の手足を、寝やすい位置にしてから乱れた布団を整えてくれる。
「……」
寒い冬でも、俺はよく布団を蹴飛ばすことがあった。
エミリアが来てから、それが全く無くなったから寝相が良くなったんだとばかり思っていたが……どうやらエミリアがいつも直してくれていたらしい。
本当に、頭が上がらない……。
「くっそ……体勢を変えたからヌルッと出てきたじゃないか」
(……?)
「なんで女ってだけで、毎回毎回こんな不快感を味わわにゃならないんだ」
エミリアは布団をめくり、ベットから降りた。
寒い寒いと連呼しながらトイレの方へ行き、ごそごそと何かをしている。
……何だろう。
そういえば、今は生理とやらの期間中だ。
初日さえ乗り越えれば平気、とエミリアは言っていたけど……ひょっとして、まだどこかが痛むんだろうか。
「ふぅ」
ほんの数分程で、エミリアは帰ってきた。
「お前のせいで寒い思いをさせられたぞ。体温を寄越せ」
俺の背中に、ぎゅう……、と、くっついてくる。
布団の中で温まった温度が、エミリアの方に吸い取られるような錯覚があった。
「どうせなら、ちゃんと『がおぉ』して来いよ……この、意気地なし」
……がおぉ?
がおぉってなんだ?
なんて思っていたら――エミリアがもぞもぞと動いて。
耳に、吐息を感じた。
はむっ
(?!)
喉元まで出かかった叫び声をなんとか自制する。
「ふっふっふ――さっき噛まれたからな。お返しだ」
……耳を、甘噛みされた。
顔を見るまでもなく、エミリアの悪戯っぽい笑みが頭の中に浮かぶ。
間違いなく、いま、エミリアはこういう表情で笑っているだろう。
「――おやすみ、イワン」
心臓の鼓動で狸寝入りがバレるのではとヒヤヒヤしたが、エミリアはそのまま寝息を立て始めた。
一方の俺は、全身が汗をかくほど熱を帯びていた。
結局その日は、朝方になるまで眠れなかった。
◆ ◆ ◆
結論としては、甘噛み程度では俺の衝動は満たせなかった。
むしろ、より強くなった気すらする。
それに関しては今まで通り我慢すればいい。
でも、一つだけ……分からないことが増えた。
『がおぉ』って――何のことだ?




