第64話:食わせろ
泣いている店長を尻目に立ち上がり、ポットのお湯を借りてすなお茶を入れ直す。
そしてカップをテーブルに置き、それを一口飲んで、小さな頭に向かって語り掛けた。
「あの、店長」
「…………」
店長は答えない。だが、自分も勇気を出して思ったことを言おう。
「私がエルドラで出会ったダンテさんは、店長みたいに自分の仕事を愛している、素敵な料理人さんでした。右も左もわからない、魔法もあっちでうまく使えなかった私を雇ってくれて、色々叩き込んでくれて、素晴らしい尊敬できる人でした。私は、日本で私に色々教えてくれた店長にも、あちらで私を育ててくれたダンテさんにも感謝しています。なので、チャンスがあれば再会してほしいと思うんです、だって二人とも会いたいのにそれが叶わないなんて、私は嫌です」
店長が、ゆっくり頭を起こした。うつむいたままだが、自分の話を聞いてくれているのはわかる。
「ディアンさんがカイワタリに対して少し態度がおかしい理由に、心当たりがあるんです。私、もしもう一度あちらに行けたら、私、あの人と話してみます」
「鈴木、さん……?」
店長が不思議そうに顔を上げた。真っ赤な目で、じっとこちらを見ている。
たぶん『あちらに行く』という言葉に反応したのだと思う。もう一度エルドラに行って、愛した人の顔を見たい。それが彼女の望みなのだと思う。
たとえディアンさんをどれだけ傷つけたとしても、彼の人生と彼女たちの人生は別のものだ。
ダンテさんには『一生奥さんと会えない』なんて酷すぎる罰を受ける謂れなんてないし、ディアンさんにも二人を逆恨みする権利なんかない気がする。
大事なものを捨てることは償いではない、ただ逆恨みする人間の要求に答えているだけだ。罪の償いって言うのは、自分を痛めつけて何かを捨てることじゃなく、奪った何かを返すよう努力することなんじゃないだろうか。殺人とかを犯した場合は、また別の話だけど。
何故そう思うかというと、自分は父と母にすべてを奪われ、何も返してもらえないからだ。
『捨ててごめんね』という気持ちすら見せて貰えなかった。
自分を傷つけた相手に、同じように傷ついてほしいわけじゃない。そんなのは後味が悪いだけだと知っている……。
その証拠に自分は、一人ぼっちで長患いの末に死んだ父に対し、ざま見ろなんて思わなかった。全然、思わなかった……。むしろ、ぼろぼろになって一人で野垂れ死んで欲しくなかった。倒れた時に『菜菜ごめん、お父さんが悪かった』って言ってほしかった。そして、謝るから看病をしてくれって言ってほしかったんだ……。
父のノートの最後のページに書かれた言葉を思い出す。
『子供たちにも合わせる顔がないので、さっさとお迎えが来てほしい。墓は貯金の500万で誰か何とかよろしくお願いします。田舎の墓なら安く上がるんじゃないかと思います』
ああ、本当に、合わせる顔がないなんて、勝手に決めないでほしかった。自分は他ならぬ父自身に、父という存在を取り上げられてしまった……。
『父が死んでた』と告げた母の乾いた言葉を思い出したら、また涙がにじんできた。取り返しのつかないことで泣くのは辛い。
店長はまだ取り返しがつく。だから、同じ過ちを目の前で繰り返さないでほしい。
「なんとなくですけど、私、もう一度エルドラに行けそうな気がします。そうしたら、通路を固定して、店長を呼べるようにしますから」
涙をぬぐってそう告げた瞬間、掌についた傷がじくじくと痛んだ。とっくに乾いた傷なのに、まだ塞がり切れずに血が滲んでいるかのように感じる。
「鈴木さん……」
店長がぐ、と唇をかみしめて、またちゃぶ台に突っ伏した。
自分の言葉で心が乱れているのだろう。
でも、本当に、ディアンさんの事は一度脇に置いて、自分たち親子と旦那さんの事だけに今は集中してほしいな、と思う。
「私も頑張ってあちらに帰れるように挑戦しますから、店長も勇気を出して、ケンタ君と一緒に来てください」
なんとなくだけれど、事態は急速に動く予感がする。
家で太り続ける怪しい鳥もなんだか怪しげな策略をにおわせているし。何よりあいつは確かに「店長もエルドラに連れて行ける」って言った……。
そう思った瞬間、ガラスの破片をねじ込まれるように、傷が痛んだ。ふと見ると、爪で刺しただけの小さな傷が、手のひらを横切り、亀裂の様に無数のヒビを広げているのが見えた。その亀裂からは虹色の光が立ち上り、自分のぽってりした手のひらを淡く輝かせている。
何これ、と思い、反射的にポケットに突っ込んだ。皮膚に光るヒビ。こんなのおかしい。
「あの、店長、私色々と用事があるので帰ります」
立ち上がり、顔をハンドタオルで拭いながら見送ってくれた店長に微笑みかける。
「鈴木さん、今日もなんか……ごめんね、あの、どうしようもない昔話をダラダラ一方的にしちゃって……お菓子ありがとう、ケンタが喜ぶわ。また来てね」
店長はそう言って、自分の姿が見えなくなるまで、通路に立って見送ってくれた。
ダンテさんが愛したあの美しい人を、なんとかエルドラに行かせてあげたい。心の底からそう思った。壊れた家族なんか、自分はもう見たくない。
パーカーのポケットに突っ込んだ手を、人気のない場所でそっと出す。手の平に入った謎のヒビは手の甲にまで達し、皮膚が鱗になったように見える。痛いし、亀裂は虹色だし、一体何なんだろう。
あまりの自分の手の不気味さに立ち止った瞬間、頭の中に見慣れたペレの村の光景が浮かんだ。
村はずれの枯れ川のほとりに蹲り、両手を地面に押し付けて、蒼白な顔をしているタイゾー君の姿。なぜ、こんなものが見えるのか。
かつてタイゾー君が自分に語ってくれた内容を思い出す。
『カイワタリの魔力が何でも教えてくれる、魔力の使い方も、教わらなくてもわかる』って。
苦しげなタイゾー君の姿が遠ざかり、人通りの少ない歩道で我に返った。
「カイワタリの魔力……」
呟いて、手のヒビから漏れ出す虹色の光を見つめる。
エルドラでだけ使えるはずの、不思議な魔法の力。もしかしてこの光は、自分の中の力が漏れているためなのではないだろうか。
自分があちらの世界で倒れ、声が出なくなったのは、デブ鳥が『魔力の殻を破ろうとして、死ぬ程苦しい思いをさせたせい』だからだと言っていた。こちらの世界で魔力が漏れ出した理由は不明だが、今まさにその『魔力の殻』とやらはやぶれようとしているのではないだろうか?
「魔力が全部教えてくれる……」
呟いて、じわじわと増えてゆく手のヒビを見つめた。
頭の中に、いろんな風景が浮かんでは消える。蹲って地面を抑えているタイゾー君、走り回り、必死で家畜や村の人を誘導しているアレンさん、荷車への積み下ろしを指揮しているダンテさん、そして泣いているデイジー……この光景が、現実のものだと理解するのに時間はかからなかった。
ああ、ペレの村で何があったというのだろう。
そのまま自分の『視線』がゆっくりと、地面のなかへ降りてゆく。真っ暗な地面の中で蟠る巨大な蛇が、じりじりと鎌首をもたげ、少しずつ、少しずつこちらを向く。
――食わせろ。
低い、割れたガラスの軋むような声がそういった。確かに自分に向かって、『食わせろ』と言った。
無意識に唇を舐め、ここではないどこかから自分に語り掛ける、恐ろしい『そいつ』を睨み返す。ああ、これがエルドラの竜。
何度も生まれ、国を荒らし、カイワタリの勇者に退治される運命の生き物……。
そこまで考えて、ちがう、と思った。
違う。あの竜は、初めから一匹だ。誰に言われたわけでもないのに、そんな確信が心の中で生まれる。
あの竜は、勇者によって体を砕かれ、眠るだけ。
わざわざ暴れ、体を破壊させる理由は、勇者によって叩きつけられた『カイワタリの魔力』を食うため……なのだ。
「弟」
呟いて、鈍い銀色に輝く、電車のように大きく長いそいつと茫然とにらみ合う。
「あんたが弟、あのデブ鳥の」
すぐ近くでにらみつけていた、巨大な顔がふと揺らぐ。動揺したように、自分の目には見えた。
――その瞬間、今度こそ完全にすべての幻が消えた。
目の前には古びた集合住宅とスーパーマーケット、そして公園がある。親子連れが行き来する、見慣れた下町の団地。
けれど確かに自分には分かる。エルドラで、まだすべきことがあると。
ひびの入った手が、ずきずきと痛んだので歯を食いしばる。光は強まり、ぼろぼろになった皮膚が剥がれ落ちそうに見える。
「あの竜、止めないと」
そう呟いて、慌てて走り出す。鳥にもうすべてを話させる。あいつが求めているのは、きっとこの手から漏れている光の源。胡散臭いアイツと、最後の取引をしてやる。
『カイワタリの魔力』が、自分にあの地に戻れと告げてくる……。




