矛盾撞着 - 男
菊が去り、その背が見えなくなってから一刻が経過している。にも関わらず、その方向を見据えたままの男は眉間に深い皺を寄せ延々と思索していた。
菊を泣かせてしまったその理由に皆目見当がつかずにいるのだ。
九年前に多くの働き手を失った村は再生しつつあり、菊はもう飢えた孤独な童ではなくなった。
好い男も出来て、己に会いに森にやって来る事もめっきりと減った。
だから、己は役目を終えたのだと―――菊には不要な存在になったのだと判断し、もう会わぬと伝えた。
すると菊は大きな瞳を見開いて、ぼろぼろと涙をこぼしたのだ。
少しでも寂しいと思ってくれるのだろうか、と考えはしたが、その反応はまるで予想外だった。
(何故泣く必要があるというのだ……!?)
むしろ、泣きたいのは男の方だった。
本来であれば、長年見守ってきた娘が手を離れ、男と結ばれようとしているのは喜ばしい限りであるはずなのに―――現状は苦痛以外の何物ももたらさなかった。
あれは冬も半ばの、昼下がり。
森への足が遠のいた菊を訝しみ、村まで様子を窺いに行った事がある。
作業小屋の縁台に腰掛ける菊の傍らには若い男の姿があった。二人は共に草鞋を編んでいた。
その仲睦まじい様子から、いつしか菊が語っていた件の男だと理解した。
それは男の目に、とても温かな光景として映った。
傍らに座る男の顔と草鞋とを交互に見ながら作業をしていた菊の幸せそうな顔が、脳裏を焼き付いて離れない。
それを思い出す度に胸の奥深くが煩くざわめき、身を貫くようにキリキリと締め上げる。
あのような村人としての平凡な幸せは、己では菊に与えてやることが出来ない―――そう、否応がなく思い知らされた瞬間だった。
男は嘆息し、静かに頭を振る。
((だいぶ堪えているわねぇ。そんなに辛いなら我慢しなければいいのに。まったくお馬鹿さんね))
王珠が呆れたように、だが気遣うように脳に呼びかけてくる。
「簡単に言ってくれるな……」
((だって簡単なことじゃない。なにを悩む必要があるの?))
「悩んでなど、おらぬ―――とっくに結論は出してあるのだからな」
そもそも、血は嗜好品であって必需品ではない。
にもかかわらず、わざわざ菊が好みそうな食糧を入手し共生関係を続けたのは、一重にあの娘を気に入っていたからに他ならない。
だが―――種が違うから、童であるから、血が美味であるだけだから―――などと理由をつけ、必要以上に関わらないよう自らを戒めて過ごしてきた。だから、いくら聞かれようとも己の名すら明かさなかった。
菊が己を求めるのは親がいない寂しさと空腹からであり、いつかは村人の輪に入るのだと―――ちょうど今のような状態がいずれ訪れるだろうと考え、適度な距離を保ってきたつもりだった。
その結果がこれだということは、目論見は外れることなく達成されたということ……。
「菊が泣こうが喚こうが、これが最善なのだ。あの娘のためを考えるならば、な」
己の胸の痛みなど、無理矢理に消し去ってしてしまえば良いだけなのだから―――。
薄い瞳を閉じ沈黙した男は、昏い森へと身を投じる。
その姿は誰の目にも触れることなく、夜の闇へと融合した。
矛盾撞着:物事の前後が食い違い、つじつまが合わないこと。