水の境界よりご来店 ~5~
心地よい風が頬を撫でた。眩い太陽の光を感じ、私はゆっくりと目を開けた。すでにそこは境界ではなく、慣れ親しんだ場所へと変わっていた。案外すんなりと戻れたものだ。セーヴェルの口ぶり的にもっと苦労するのかと思っていた。とはいえ、無事戻ってこられたことを喜んだ。田んぼに落ちてからどのくらいの時間が経ったのだろうか。日が落ちていないところを見ると、私が境界で過ごした時間ほど経っていないように感じる。
私は田んぼの畦道をまた歩き始めた。今度は落ちないように慎重に地面を踏みしめながら。今はちょうど苗を植える時期で、まだ何も植わっていない田んぼは浅く水が張っており、水鏡のようになっていた。そこに映る風景に違和感はない。
そこでようやく思い出した。田んぼに落ちた時のことを。水田に映るのは、普段は気にも留めない見慣れた光景だったが、落ちる直前だけ、ここには存在しない案山子が映り込んでいたのだ。畦道を歩いてる時に目の端でその違和感を感じ、水面に目をやると案山子が映っていた。私は恐怖にも近い驚きでバランスを崩し、水面に吸い込まれていったのだった。今思うと、その案山子の映った風景こそが、別の世界の風景だったのかもしれない。
「おかえり。」
バルがシファとノヴァの帰宅に気付いて、にこやかに微笑んだ。セーヴェルはカウンターに座り、今まさに飲もうとしたコーヒーを一旦置いた。
「ただいま。今回はあっという間だったね。」
シファは一目散にカウンターに向かい、セーヴェルの隣で、バルがコーヒーを入れてくれるのを待った。仕事終わりに一杯いただくのが、ここ最近のシファのお気に入りだ。
「世界移動に失敗して境界に来た理由があの子の記憶からだと分からなかったからね。原因の解明に時間がかかると思ったんだよ。」
セーヴェルが淡々と述べている内に、ノヴァも珍しくセーヴェルの隣に座った。
「まさか、共有者が案山子とはな。目立つし、水の境界に落ちてもらうのに、細かい説明も要らないから助かったよ。」
シファとノヴァの前にコーヒーが置かれる。二人とも思い思いに砂糖とミルクを入れてカスタマイズした。
「人が造ったモノにも命が宿ることはあるからね。相当なレアケースだと思うけど。」
セーヴェルは話しながらも、シファの入れるミルクの量とノヴァの入れる砂糖の量を横目でちらちらと追っていた。
「でも何で移動が不完全に終わったのさ? 」
シファは完成された自分好みのコーヒーを一口飲んでから、疑問を呈した。
「単にヒトとモノだったからだよ。水の境界の本質はあくまで等価交換。命の起源が同じでも、ヒトとモノの体じゃ質量が違いすぎる。」
シファもノヴァもその説明に納得がいったらしく、なるほどと頷いた。
「無事に見た通りになって良かったわ。」
バルも自分のコーヒーを手にして、カウンター内の椅子に座り、安堵したように微笑む。
「バルの未来は外れないからね。」
セーヴェルはおどけたような口調で言ったが、それが本心からの言葉だと他の三人はよく分かっていた。




