水の境界よりご来店 ~1~
来る場所を間違えたかしら。ロナはそう思った。
早く元いた場所へ帰りたいというのに、目の前の女性は鼻歌を歌いながらコーヒーを入れているし、私とそう歳の変わらない少年はキラキラした目で分厚い本のページを忙しなくめくっている。
何となく手持ち無沙汰に感じ、周囲を見回した。形のバラバラなダイニングテーブルがいくつかあり、座り心地の良さそうなクッション地のソファやスツールがちぐはぐに並べられている。どれも年代物のようだ。窓からの光がそれらを柔らかく照らしていて、時折埃がキラキラと反射する。窓横の大きな棚は比較的新しそうなスチールの機械や何に使うのかよく分からない古びた小物で雑然としていた。テーブルやカウンターがなければここが喫茶店だとは思わないかもしれない。
「はいどうぞ。」
目の前にコーヒーが置かれる。砂糖とミルクはすでにカウンター上の青いお皿にこぼれそうなほど積まれていた。
「砂糖とミルクは好きなだけ。そこのノヴァが恐ろしく甘党なのよ。」
山盛りの砂糖とミルクを見て顔に出ていたのだろう、女性は微笑みながらそう言った。
「もうすぐ元世界への帰り方を知っている同居人が戻ってくると思うわ。それまで辛抱してて。」
ごめんね、とこなれた様子でウィンクをしてみせるものだから、私はドキドキしてしまった。ふと見せる表情の作り方や仕草で異国の人だと感じる。そういう私もここでは異国の人なのかもしれない。
「バル、セーヴェルはいつ帰ってくるの? 僕にも案内できないかな? 」
本に夢中だった少年が顔を上げて言った。白に近いような金髪に青い瞳だ。珍しい外見にまじまじと見入ってしまった。
「なんでセーヴェルは出かけたのさ。バルが朝早くからコーヒーを淹れてたのに。」
少年は不満そうに顔をしかめた。バルと呼ばれた女性は大げさにため息をついて見せる。
「外れることもあるからね。信用されてないのよ。」
「セーヴェルは秘密主義なのさ。」
急に後ろから声がして、私は驚いて振り向いた。背の高い黒髪の男性が入口の扉付近に立っていた。私がこの店に入ってきた時から立っていたのだろうか。全く気付かなかった。私が驚いたことに対して、男性は戸惑ったようだ。
「ロナちゃん驚いちゃったじゃない。この場所で気配を消す必要はないでしょ。」
「普通に過ごしているつもりなんだがね。」
男性は私と目が合うと、少し申し訳なさそうな顔をして微笑んだ。私は小さく会釈をして、再びカウンターの方を向いた。その時ふと、バルという女性が自然に私の名前を呼んだことに気がついた。
「あれ、私名乗りましたっけ? 」
私が疑問を口にすると、バルは慌てた様子で弁明した。
「ごめんなさい、名乗ってなかったかしら? だとしたら、いきなりで馴れ馴れしかったわよね。」
「いえ、気にしてません。ただ驚いただけで…… 。何で分かったんですか?」
バルは少し考えるような素振りを見せ、少ししてから口を開いた。
「信じられないかもしれないけど、私は未来が見えるの。今朝あなたが元の世界に帰る姿を見た。まだ実現していない可能性の一つだけれどね。その時にセーヴェルがあなたの名前を呼んでいるのを聞いたの。」
なるほど合点がいった、とは、すぐにはならなかった。未来が見えるなんてファンタジーすぎる。とはいえ、田んぼの畦道を歩いていたら突然岩と土ばかりの何もない空間に放り出されて、フラフラさまようこと数時間、ようやくこの喫茶店にたどり着いた、なんて経験をしたばかりの私にとっては存外受け入れられる話だった。
「ということは、私は元いた場所に帰れるんですか? 」
淡い希望が見え、はやる気持ちを押さえながら、恐る恐る聞いてみた。バルはにっこり微笑んで頷いた。
「帰れると思うわ。帰り方はセーヴェルしか知らないのだけれど。可能性は無限だけど現実がその可能性を食わなきゃいいだけよ。現実は私が見た可能性を嫌うわ。」
かなり独特の表現だ。要するに、このバルという女性が見た未来は実現しやすいということだろう。
「なんだ、僕は結局案内できないのか。バルの未来は外れない。」
金髪の少年がガッカリとした声で言った。顔は上げず、目は本の文字を追っているが、バルの言った未来を本当に信じているのが声色から伝わってきた。
ありがと、とバルは少年の方を向いてウィンクをした。




