第49話 大商会の名前が出ます
臨時確認役。
その言葉は、店に戻ってからも机の上に残っていた。
正式契約ではない。
でも、領主館の倉庫を見ていい。
帳簿も、現物も、照合していい。
「ロイ」
「はい」
「これ、すごいことですよね」
「すごいことです。ただし、重いです」
「すぐ重くする!」
ロイはもう紙を広げていた。
正式帳簿、別帳簿、受取印記録、仮置き場記録、外出し記録、ハインさんの控え。
「多いです」
「多いから、隠れます」
「嫌な名言ですね」
「普通です」
昼前、領主館から帳簿の写しが届いた。
セムさんが持ってきた。
顔が少し青い。
「これで、代官様から許可の出た分です」
「ありがとうございます」
「ベルトラン書記官は?」
ロイが聞く。
「別室で確認中です」
「何を?」
「出せる帳簿と、出せない帳簿を」
「出せない帳簿があるんですか」
わたしが言うと、セムさんは困った顔をした。
「ある、というより、出し方があるそうです」
「便利ですね」
「商会主」
「はい、黙ります」
でも、便利だと思った。
出せる帳簿。
出せない帳簿。
見せる帳簿。
見せない帳簿。
帳簿は多いほど、物が遠くなる。
ロイは写しを一枚ずつ並べた。
「まず、五日前です」
「また五日前」
「ここが始点です」
正式帳簿では保存箱四つ、小樽十、桶二、薬草箱二。仮置き場の板札では布袋三、古材一束、箱一。外出し記録では箱一。ハインさんの控えでは桶二。
どれも少しずつ違う。
「この箱一は、どこへ行ったんですかね」
「外へ出ています」
「どこへ?」
「そこを見ます」
ロイは外出し記録を指した。
そこに、短い文字があった。
転送。
「転送?」
「外へ出したあと、どこかへ移したという意味でしょう」
「どこへ?」
「記録にはありません」
「また!」
ロイは次の紙を見た。
「ただし、受取印記録には、別の印があります」
「別の印?」
「領主館の印ではありません」
紙の端に、小さな印が写されていた。
丸い印。
中に、鳥のような印章。
「これ、何の印ですか」
セムさんは首を振った。
「私は見たことがありません」
ハインさんも、横で首を振る。
「倉庫では使いません」
クロードさんが紙を見た。
「商会印だ」
「ガリオ商会ですか」
「違う」
ロイが目を細めた。
「ガリオ商会の印は、荷札にあります。これは別です」
別の商会。
上。
大商会。
嫌な言葉が、線でつながっていく。
その時、倉庫の入口が少し騒がしくなった。
ベルトラン書記官が来た。
その後ろに、見慣れない男が一人。
商人だ。
服がいい。
だが、派手ではない。
上等な布を、目立たない色で着ている。
それだけで、逆に高そうだった。
男は穏やかに頭を下げた。
「ベルカ商会の方々ですね」
「はい。ミリア・ベルカです」
「レグナ大商会、領都支店の使いでございます。名をオルドと申します」
レグナ大商会。
その名前が、倉庫の中に落ちた。
ロイの筆が止まる。
ハインさんが息を呑む。
セムさんは、一歩下がった。
「レグナ……」
わたしは名前を繰り返した。
知っている。
王都にも店がある大商会。
領都にも支店がある。
大口の穀物、鉄材、薬草、布、保存食。
うちとは、比べるのも変なくらい大きい商会。
オルドさんは、静かに笑った。
「このたび、当商会の印が確認されたと聞きまして」
「この印ですか」
ロイが紙を示す。
「はい。たしかに当商会の中継印です」
「中継印?」
「荷の所有が移ったのではなく、運送経路上で当商会が一時管理したことを示す印です」
言葉がきれいだった。
きれいすぎて、嫌だった。
ロイがすぐに聞く。
「つまり、箱一はレグナ大商会が中継したのですか」
「可能性はあります」
「箱の中身は?」
「確認が必要です」
「記録は?」
「当商会に残っているかもしれません」
「今、見せていただけますか」
オルドさんは、少しだけ笑った。
「申し訳ありません。内部記録ですので」
「また内部記録」
思わず言った。
オルドさんがこちらを見る。
怒ってはいない。
でも、見られた瞬間、背中が伸びた。
「ミリア様。大きな商いでは、すべての記録をその場で出すことはできません」
「小さい商いでも、出せないと困ることはあります」
「なるほど」
オルドさんは、にこりとした。
「西区施療院を止めなかった商会らしいお答えです」
褒められているのか、測られているのか。
わからない。
クロードさんが、横で低く言った。
「見ているな」
「え?」
「値踏みだ」
小さい声だった。
でも、聞こえた。
値踏み。
わたしたちが棚や札を見るように、この人はわたしたちを見ている。
オルドさんは紙を見た。
「五日前の件ですが、当商会が関わった可能性はあります。ただし、ガリオ商会も、領主館も、当商会も、それぞれ正式な手続きを踏んでいるはずです」
「はず」
ロイが言った。
「はい。はずです」
「現物はありません」
「それを確認するために来ました」
「では、箱一の行き先を確認できますか」
「すぐには」
「なぜですか」
「大商会ですので」
出た。
大きいから。
領主館も大きい。
大商会も大きい。
大きいものは、何でも遅くなるらしい。
「大きいと、荷は待ってくれるんですか」
言った瞬間、倉庫の空気が止まった。
ロイが目を閉じた。
またやった。
でも、オルドさんは笑みを崩さなかった。
「待ちませんね」
「はい。荷は待ちません」
「その通りです。だからこそ、流れを乱されると困ります」
「乱しているのは、こちらですか」
ロイが聞いた。
「今は、まだわかりません」
「まだ?」
「はい。荷が消えたのか、動いたのか、記録が遅れているのか、誰かが誤ったのか。現時点では、まだわかりません」
もっともらしい。
でも、違う。
今まで、その「まだわからない」で止められてきた。
ハインさんも。
セムさんも。
倉庫の荷も。
わたしは木片を出した。
赤い蝋のついた、小さな木片。
「これは、レグナ大商会のものですか」
オルドさんの目が、ほんの少し動いた。
クロードさんが言う。
「動いた」
「クロードさん!」
「見えた」
オルドさんは、初めてクロードさんを見た。
「あなたは」
「荷を見る人間だ」
「なるほど」
オルドさんは木片に視線を戻した。
「似ています」
「何にですか」
「当商会の封緘蝋に」
倉庫が静かになった。
ロイの筆が動く。
「レグナ大商会の封緘蝋に類似」
「断定ではありませんよ」
「類似、と書いています」
「慎重ですね」
「必要ですので」
ロイ、強い。
オルドさんは、少しだけ楽しそうに見えた。
「ベルカ商会には、良い帳簿係がいますね」
「うちのロイです」
わたしは言った。
ロイがこちらを見る。
「商会主」
「はい」
「余計です」
「褒められたので」
「今は、受け取らなくて結構です」
「もったいない!」
オルドさんは小さく笑った。
でも、すぐに顔を戻した。
「では、当商会でも確認しましょう」
「いつまでにですか」
ロイが聞く。
「数日中に」
「遅いです」
わたしが言った。
今度は、ロイも止めなかった。
「領主館の倉庫は、今足りていません。箱一の中身も、消えた荷の行き先も、今必要です」
「急ぎたいお気持ちはわかります」
「気持ちではありません。現物です」
言えた。
声は震えていなかった。
オルドさんの笑みが、少し薄くなる。
クロードさんが短く言った。
「十割」
今は振り向かなかった。
でも、背中が少し熱くなった。
オルドさんは、ゆっくり息を吐いた。
「では、明日までに一次回答を出しましょう」
「一次回答?」
「箱一に関する当商会側の記録の有無です」
「中身は?」
「記録があれば」
「なければ?」
「その時は、その時に考えましょう」
「便利な言い方です」
オルドさんは微笑んだ。
「商売では、便利な言い方も必要です」
「現場では、不便です」
自分で言って、また少し怖くなった。
でも、引かなかった。
オルドさんは、今度ははっきりこちらを見た。
初めて、ただの小商会ではなく、相手として見られた気がした。
「ミリア・ベルカ様」
「はい」
「ベルカ商会は、この件をどこまで追うおつもりですか」
それは、ガリオ商会の問いより重かった。
どこまで。
領主館の倉庫。
ガリオ商会。
レグナ大商会。
役人の印。
箱一。
赤い蝋。
どこまで行けば終わるのか、わたしにもわからない。
でも、答えはあった。
「荷が使える場所に戻るまでです」
言った。
倉庫が静かになった。
オルドさんは、少しだけ目を細めた。
「大きな商いは、そこまで単純ではありません」
「小さい商いは、そこを外すと終わります」
ロイの筆が止まった。
ハインさんが顔を上げた。
セムさんもこちらを見た。
クロードさんは何も言わなかった。
でも、たぶん見ていた。
オルドさんは、しばらく黙った。
そして、丁寧に頭を下げた。
「承知しました。明日、一次回答をお持ちします」
「お願いします」
「ただし」
オルドさんの声が少し低くなった。
「レグナ大商会の名前を軽く扱うことは、おすすめしません」
空気が冷えた。
やわらかい脅しだった。
ガリオ商会のものより、ずっと静かで、ずっと重い。
わたしは、少しだけ息を吸った。
「荷も、軽く扱わないでください」
言ったあと、手が少し震えた。
でも、声は出た。
オルドさんは、薄く笑った。
「覚えておきます」
そう言って、ベルトラン書記官とともに倉庫を出ていった。
後には、紙と棚と、赤い蝋の木片が残った。
ハインさんが、小さく息を吐く。
「レグナ大商会まで……」
「大きいんですか」
わたしが聞くと、ハインさんは真面目にうなずいた。
「この領内で、あの名前を知らない商人はいません」
「ですよね……」
知っていた。
でも、聞きたくなかった。
ロイが紙を整理した。
「商会主」
「はい」
「上位商会の名前が出ました」
「出ましたね」
「ここからは、言葉も記録もさらに重くなります」
「はい」
「でも、名前が出た以上、追えます」
クロードさんがうなずいた。
「逃げ道が太くなった」
「太くなったら、追いやすいんですか」
「ああ」
「大きいから?」
「大きいものは、跡も大きい」
怖い。
でも、少しだけ頼もしい。
わたしは木片を見た。
赤い蝋。
レグナ大商会。
上位商会。
ガリオ商会は、上に逃げた。
でも、その上には名前があった。
名前が出たなら、帳簿に書ける。
帳簿に書けるなら、見に行ける。
領主館の倉庫は、まだ足りない。
箱一の中身もわからない。
でも、ひとつだけはっきりした。
相手は、ガリオ商会だけではなかった。




