第3話 古樽が銀貨に変わるまで
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「本当に買うんですね」
ロイが、銀貨の入った革袋を見ながら言った。
「買います」
わたしは答えた。
声は落ち着いていたと思う。
でも、胃は痛い。
返済用の銀貨四枚。
そのうち三枚を、これから空樽に変える。
失敗したら、ベルカ商会の倉庫には豆の代わりに古い樽が並ぶ。
しかも明日の返済には足りない。
「クロードさん」
「なんだ」
「今なら、まだやめられます」
「やめる理由がない」
「怖くないんですか?」
「怖がるのは、買ったあとでいい」
「買う前に怖がってください!」
クロードさんは、もう倉庫の外へ歩き出していた。
最初に向かったのは、隣の酒場だった。
酒場の裏には、古い空樽が五つ積まれていた。
売り物というより、邪魔な荷物だった。
「親父。裏の空樽を買う」
クロードさんが言うと、酒場の主人は目を丸くした。
「空樽? あんなもんを?」
「五つ全部だ」
「別にいいが……ベルカ商会、大丈夫か? 豆の次は樽を集めるのか」
笑われた。
わたしは笑顔を作った。
「ええ。少し入り用でして」
「変わった商売だな」
主人は首をかしげながらも、安く譲ってくれた。
次は南通りの宿屋。
その次は、市場裏の物置。
さらに劇場近くの食材店。
どこでも反応は似ていた。
「そんなものを買うのか」
「好きに持っていけ」
「ベルカ商会は何を始めるんだ」
わたしは、そのたびに曖昧に笑った。
正直に言えば、わたしもよくわかっていない。
倉庫に戻るころには、空樽は二十二個になっていた。
銀貨三枚と銅貨少しが、古い空樽に変わった。
わたしは帳簿を開いた。
支出、銀貨三枚。
残金、銀貨一枚と少し。
何度見ても、胃が痛い。
「クロードさん」
「なんだ」
「本当に、これが銀貨九枚になるんですね?」
「なる可能性が高い」
「そこは、なると言い切ってください」
「商売に絶対はない」
「昨日からずっと、そこだけ誠実ですね」
「嘘で安心しても意味がない」
わかる。
わかるけれど、少しくらい安心したい。
ロイが空樽の数を確認している。
「二十二個です。割れや漏れのあるものは?」
「三つある」
クロードさんはすぐに答えた。
「それは劇場裏に回す」
「なぜですか」
「水を入れるわけじゃない。乾いた食材の一時置きなら使える」
「そんなことまで考えていたんですか」
「売れないものから売る」
クロードさんは、古い空樽を順番に分けた。
正直、わたしにはどれも同じように見えた。
昼前。
市場の様子が変わり始めた。
最初に来たのは、食堂組合の若い使いだった。
息を切らして、倉庫の前で叫ぶ。
「空樽はあるか! 仕込み用の樽が足りない!」
わたしは固まった。
本当に来た。
クロードさんは固まらなかった。
「十個ある」
「全部くれ!」
「銀貨四枚」
「高い!」
「夕方なら銀貨五枚だ」
「くっ……!」
昨日と同じやり取りだった。
豆の時と同じだ。
違うのは、今度はベルカ商会の商品だということ。
食堂組合の使いは、しばらく悩んだ。
けれど、すぐに銀貨を出した。
「十個だな!」
「状態のいいものを十個渡す」
ロイが空樽を運ぶ。
十個の空樽が、銀貨四枚に変わった。
わたしは帳簿に書いた。
売上、銀貨四枚。
もう、仕入れ額を超えている。
「……戻りました」
「ここから増える」
「ここから?」
「酒場が来る。劇場裏も来る。宿屋も来る」
「全部来る前提なんですね」
「来なければ、こちらから売りに行く」
その言葉どおりだった。
昼過ぎには酒場が来た。
劇場裏の料理番も来た。
朝、空樽を売ってくれた宿屋の女将まで買い戻しに来た。
クロードさんは、状態のいい樽から順番に売った。
水漏れする樽は、乾いた食材の一時置き用だと説明して売った。
夕方前には、二十二個の空樽はすべてなくなった。
売上は、銀貨九枚と銅貨三十枚。
わたしは帳簿に数字を書いた。
銀貨九枚。
銅貨三十枚。
もう一度見た。
数字は変わらない。
「……増えました」
「増えたな」
「本当に増えました」
「だから言った」
「言いましたけど!」
声が大きくなった。
でも、今度は怒っているのではない。
返済できる。
倉庫を守れる。
それどころか、馬車の修理代も出せる。
次の仕入れ資金も残る。
ベルカ商会は、今日一日で豆と古樽を銀貨十三枚以上に変えた。
「クロードさん」
「なんだ」
「昼食だけではなく、夕食も付きます」
「それは重要だな」
「そこが重要なんですか?」
「重要だ」
この人の判断基準が、少しだけわかってきた。
商売では大胆。
食事には真剣。
わたしは帳簿を閉じた。
「これで、明日は安心です」
「そうだな」
クロードさんは、珍しく素直にうなずいた。
わたしが安心したのは、そこまでだった。
「では、明日の朝、馬車を二台借りる」
「何のためにですか」
「豆を仕入れに行く。食堂組合に納品する分だ」
「……納品?」
「前金はもらった」
「いつの間に!?」
「樽を売った時」
わたしは、帳簿を落としかけた。
「待ってください。つまり、うちは今、まだ持っていない豆を売ったんですか?」
「そうだ」
「明日、仕入れられなかったら?」
「食堂組合への信用が落ちる」
「商会として最悪では!?」
「仕入れられれば、食堂組合の継続取引が取れる」
わたしは額を押さえた。
助かった。
確かに助かった。
なのに、昨日より危ない状態になっている気がする。
「クロードさん」
「なんだ」
「ベルカ商会は、これで安定しますか?」
「しない」
「即答!?」
「安定したら遅くなる。今は速度が要る」
「えぇぇぇぇ!?」
ベルカ商会が貧乏商会でいられた時間は、今日また少し短くなった。
ただし、安心できる時間も同じくらい短くなった。
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