02. ジョージ子爵、隣国へと旅立つ
◇ ◇ ◇ ◇
フロルはこの春で十七歳になった。
彼女の母はフロルが幼い頃、病いで亡くなっている。
母親は娘とよく似た銀髪で、光の加減で銀色にも橙色にも映る、はしばみ色の瞳がとても美しい人だった。
父親のジョージ子爵は、幼くして母親を失った一人娘を溺愛していた。
◇
その夜、ジョージ子爵はフロルに正直にジャンヌとの過去を説明した。
「フロルすまない。確かにジャンヌは昔、私が学生の頃、隣国へ留学していた時に付き合った女性だ」
と嫌々ながらも認めた。
ジャンヌは隣国の男爵家の娘だった。
ジョージ子爵は留学生として招かれた王宮の夏の舞踏会で、ジャンヌと知り合い若気のいたりで、つかの間のアバンチュールを愉しんだという。
だがジャンヌには当時、伯爵家の令息である婚約者がいたので、二人の関係はジョージが帰国してそれっきりとなった。
それから二十二年以上の月日が流れ、突然、昔の別れた恋人が屋敷に現れて『ヤコブは自分の子供だ』
と、言われてもジョージ子爵は一切信じなかった。
息子のヤコブが二十一歳なら、ジョージ子爵の留学期間中にジャンヌが彼の子を宿せば、確かに年齢だけは一致する。
「だがフロル、信じて欲しい。あの男は断じて私の息子ではない、これは直感だが私にはわかる!」
「私もそう思いますわ。お父様とお顔立ちも、雰囲気も全然似ていませんもの」
フロルも父に同意した。
それにフロルは、ヤコブが初対面の時から自分をじろじろと、蛇のような厭らしい目で見られている事に嫌悪感を抱いていた。
「ジャンヌは、当時から派手な女だった。婚約者がいるのに何人も他の男を誘っていたんだ。私もその内の一人に過ぎない。もしヤコブが夫の子供でないのなら、他の愛人との子供だろう」
ジョージ子爵はフロルに断言した。
しかし、翌日もジャンヌは「ヤコブは貴方の息子だ!」と一転張りに主張するばかりだ。
何度となく口論の末、このままでは埒があかないとなった。
ジョージ子爵はヤコブが実の子かどうか、身辺調査を顧問弁護士に依頼する事にした。
また、彼の仕事は王国の外交官だったので、ちょうど隣国に五月に向かう予定だった。
弁護士と一緒になって調査ができる。
そのためジョージ子爵が隣国から戻るまでは、王国に来たばかりで行く宛のないジャンヌと二人の子供たちは、屋敷に居座らざるを得なくなった。
ジョージ子爵がいくら「出ていけ!」といっても、三人はわが物顔で一歩たりとも、屋敷から出ようとはしない。
仕方なく問題が解決する迄は、屋敷に滞在させる羽目となった。
「フロル、あの女は私とお前を陥れようとしているのは明白だ。私はあいつらの化けの皮を何としても剥がしてやる!──来週から仕事と調査も兼ねて隣国へ行ってくる。私が帰ってくるまで少しの間辛抱しておくれ」
「お父様……」
フロルは胸騒ぎがして仕方なかった。こんな状況下で父親がいなくなるのがとても怖かったのだ。
「いいかい、私の娘はフロル、お前ただ一人だ。執事や乳母のサマンサたちには、しっかりお前の事は頼んでおく。どうか体だけはくれぐれも気をつけるんだよ!」
「お父様、お願いです。どうか一日でも早く帰ってきてください。フロルはあの人たちの、蛇みたいな黒い眼がとても恐ろしくてたまりません」
フロルはうるうると瞳に涙を一杯浮かべて父親を見つめた。
「ああ、私のフロル、こんな事になって本当にすまない。だが私はけっしてこのままにはしてはおかない。こうなった以上、徹底的に戦うつもりだ!」
父親のジョージはフロルをきつく抱きしめて、決意も新たに隣国へと旅立っていった。
◇ ◇
しかしその父の決意も空しく数日後、ベルチェ家に一通の電報が届いた。
ジョージ子爵を乗せた船が季節外れの大嵐で転覆して、多くの乗客が海の中に消えたという。
大勢の乗客が亡くなった中で、ジョージ子爵の遺体はまだ見つからず行方不明となっている、と悲しい知らせだった。
その知らせを受けたジャンヌとフロル。
ジャンヌは運命が自分の味方をしてくれたと、ひた隠すように微笑む。対してフロルは運命の残酷さに声をあげて嘆き悲しんだ。
「サマンサ、お父様が行方不明なんて酷い⋯⋯そんな……私はどうしたらいいの」
フロルは乳母のサマンサに泣きついた。
「フロルお嬢様、お気を強く持ってくださいまし、まだ旦那様は亡くなったわけではございませんよ!」
サマンサはフロルを優しく抱きしめながらも、励まし、フロルの悲しみも受け止めてあげた。
「ふん、あの乳母は邪魔だわね」と、二人を見つめてジャンヌが忌々しそうに呟いた。
屋敷中の家令たちが主の悲報に悲しみに暮れているにも関かわらず、ジャンヌは新たな行動に出た。
まず自分の息子のヤコブを、ベルチェ家の跡継ぎ代行にする為に、前もって作成していたのか、ジョージ子爵との婚姻届を役場へ提出してしまう。
なぜ、婚姻届にジョージ子爵の実印が押印してあったのか。
謎だがジョージ子爵の実印が押してある限り、二人の結婚は成立してしまった。
「悪夢だわ。あの人が私の母親になるなんて⋯⋯お父様が結婚するわけないわ、あの人が何かしら謀ったに違いない!ああ……お父様!」
フロルは絶望して、嘆くばかりだった。
この時のフロルは親鳥を失くして、ただメソメソと泣く雛鳥そのものだった。