五本爪の傷跡④
「鍵がみつからないのです」
診療所に戻ると、三苫巡査部長が言った。
「鍵ですか? 診療所の?」顔見知りしか住んでいないようなところだ。診療所に鍵をかける必要などなかっただろう。
「診療所の入り口には日頃から鍵がかかっていなかったそうですが、首藤医師の車を調べようと鍵を探したのですが、ありませんでした」
診療所の前に泊めてある軽自動車が首藤医師の愛車だ。
「遺体が持っているのでは?」
「診療所にないので、そう思って、入田家に行って鑑識官に聞いたのですが、遺体のポケットに鍵は無かったそうです。芦刈さん曰く、最近、首藤医師は運動不足だと言って、往診は歩いて回っていたそうです」
――犯人が持ち去ったのかな?
何故、わざわざ? 車を置いて、鍵だけ持ち去るなんて。
「変ですね」と言った後、隈井さんは僕に向かって「ぼちぼち日暮れだ。今日はこれくらいにしておこう。係長に報告して来るから、ちょっと待っていてくれ」と言った。
隈井さんが携帯電話をかけながら歩いて行った。
三苫巡査部長と二人切りになる。「山の日暮れは早いですからね。気を付けた方が良いですよ。あっという間に日が暮れてしまいます。夜道を走るには、なかなか厳しい山道ですから、谷底に落ちれば一巻の終わりです」と三苫巡査部長が物騒なことを言う。
確かに、ここに来るまでの道は崖の斜面を削り取ったような山道ばかりだった。
「三苫巡査部長はどうされるのです?」
「私はここで交代を待ちます」
下郷警察官駐在所から交代要員が来るまで、犯罪現場の警備を指示されていて、まだ当分、帰れないと言うことだった。
「大変ですね。帰りが遅くならないと良いですね」
「はは。日が暮れたら、交代が来ることができませんから、戻るのは明日の朝かもしれません」
「気をつけて下さいよ。犯人がその辺をうろうろしているかもしれませんから」
「人間なら怖くはないのですけどね・・・」と三苫巡査部長が眉をひそめる。
「クマゼコですか?」
「ですね。話の通じない相手は質が悪い」
無言になった。辺りは徐々に暗闇に覆われて行く。目を凝らして、何か動きはないかと診療所の先に広がる林を見つめた。あの林の中にクマゼコが潜んでいるかもしれない。そして、襲い掛かってくる機会を虎視眈々とうかがっているのかもしれない。
音も無く忍び寄ると、五本爪の手で襲い掛かって来るのだ。
「うわっ――!」と背後から大声がしたので、僕らは「ひえっ――‼」と悲鳴を上げて飛び上がった。三苫巡査部長などは独楽のようにくるくると回転してから、尻餅をついた。
「はは。悪い、悪い。何だか二人とも、びびっているようだったから――はは」
隈井さんだ。真面目な人だけど、時に子供じみたことをする。
「勘弁してくださいよ~隈井さん」
驚いた拍子に飛んで行った度の強い眼鏡を拾いながら、三苫巡査部長が鼻を鳴らした。
――ネットで七軒屋を検索したい。
疲れていた。七軒屋での事情聴取を終え、県警本部に戻って報告を済ませた後、自宅に戻って来たばかりだ。コンビニで買った弁当を食べて、早く寝たかった。
「疲れているんだ」と言うと、広大君が言った。
――そうかい? 僕には体の疲れがどんなものか分からない。だって、僕には体が無いんだから。自由に出来る体があるって羨ましいよ。
「仕方ないなあ~」
それを言われると、頼みを聞かざるを得ない。
一人だと、こうして声に出して会話ができる。だから、外でついうっかり声を出してしまうことがある。傍から見ると、ぶつぶつと独り言を言っている変な奴に見えるだろう。
食べながらで良いよと広大君が言ってくれたので、弁当を片手にパソコンを立ち上げて、七軒屋を検索した。人口よりも獣の方が多いような場所だ。ヒットした件数は三件しかなかった。トップに来たのは、七軒屋の悪魔というブログだった。
――ああ、それ。面白そうだね。
こういう時に楽なのが、真剣に記事を読まなくて良いことだ。ぼんやりと見つめているだけで、広大君が読んでくれている。もっと下、スクロールしてと、広大君の指示通りにマウスを動かしていれば良い。
ああ、ありがとうと広大君が言った時には、弁当を食べ終わっていた。
「もう、良いの?」と聞くと、広大君は面白い話を見つけたと答えた。
どんな話なのか尋ねようとした時、携帯電話が鳴った。父だった。父が電話をかけて来た。どうしよう? いや、どうしようも何も居留守を使うなんて出来っこない。電話に出るしかない。
「昴か。どうだ? 中津で殺人事件があったそうだな。お前の担当か?」
流石に早耳だ。
「はい」
「難しい事件になりそうだな。大丈夫か?」
「お父さんもご存じの通り、事件のことは話せません」
「そうだったな」
父のことだ。事件について僕より詳しいはずだ。何せ、父は大分県警の本部長を務めていた人物だ。どこまで偉くなるのだろう。僕のような出来損ないが、県警の捜査一課に配属されたのは、父のコネによるものだ。そう思っている。
「とにかく心血を注いで捜査に励め。絶対に犯人を逮捕しろ。困ったことがあれば、いつでも相談に乗るぞ」
そう言って、父は電話を切った。
父は現在、警察庁に異動となっており、母と二人で都内に住んでいる。僕は一人、大分の家に残った。念願の一人暮らしだった。
人間性に優れ、誰からも好かれる。部下から頼りにされ、数々の功績を挙げて来た。完璧な人物、それが父だった。僕にとって、父は追いかけても、追いかけても届かない永遠の憧れであると共に、僕の神経を崩壊させた元凶でもあった。
子供の頃は父が自慢だった。大勢の人たちから尊敬の眼差しを向けられる父が眩しかった。父のようになりたかった。警察官になることが僕の夢だった。
だが、長じるに従い、僕は父のようになれないということが分かって来た。母親に似たのだ。体力も知力も平均以下の僕が父のような偉大な人物になれるはずがない。大きくなるにつれ、そのことが重くのしかかって来た。
僕は苦しんだ。
父のことだ。パワハラ、モラハラといったことには無縁だ。僕のことを見守ってくれていただけだ。だが、僕が失敗する度に、父が漏らすため息が、僕の心をずたずたに引き裂いた。
仕方ない。お前は母親に似てしまった。だから、そんなことも出来ないのだ。父がため息をつく度に、父の嘆きが聞こえて来るような気がした。
僕は自分の殻に逃げ込み、そして、広大君を作り上げた。




