提案
さて、今日もしっかり仕事仕事!と気合いをいれていたら、亜季ちゃんから提案があった。
「ねえ、先生。今日はリビングでお勉強しませんか?」
「えっ、でも……ご家族の皆さんは……」
「大丈夫よ。だって……」
彼女は体をピッタリとくっつけてきて、そっと耳元で囁いてきた。すると、甘い吐息が耳にかかり、フローラルな香りが鼻腔をくすぐる。さらに、柔らかな感触が肘やら股やらに密着し、思考を根こそぎ奪おうとしている。
「今日は私しかいないから」
「…………」
いや、わざわざそんなくっつかくても……ていうか、そう易々とそんな提案を受け入れるわけないじゃないか。そういつもいつも翻弄されていては、家庭教師としての面目が……。
*******
「たまにはリビングで授業受けるのもいいわね、先生?」
はい。面目も何もあったもんじゃないですね。いや、いいんだよ。……面目なんて。
「先生、テレビつけてもいい?」
「えー……さすがにそれは」
ご両親が帰ってきた時に流石に気まずいし、何よりそんな状況でまともに勉強なんてできるかどうか……。
「私、そのほうが集中できそうなの。ね、お願い」
「……わかった。いいよ」
まあ、彼女がやりやすいなら、そのほうがいいだろう。なんだかんだ結果は徐々に出してるし。
流されやすい自分に溜め息を吐きながら、僕は一人かぶりを振った。
そして、その選択を10分後に後悔する事になるのであった
*******
『愛してる』
『……ええ。私もよ』
どうやら恋愛ドラマの再放送でもやっらていたらしい。時代を感じさせる服装の男女二人が抱き合い、口づけを交わしていた。
……気まずい。
なんか家族でドラマ見てる時に、濡れ場に突入した時より気まずい。
「先生、どうしたの?」
「な、何でもない……」
「顔が赤いわよ。熱でもあるのかしら?」
そんな事を言いながら、亜季ちゃんは髪をかき上げ、自分の額を僕の額に、そっと当ててきた。
ひんやりした感触と、あまりに近すぎる端正な顔立ちに、僕は身を捩ろうとするが、彼女はそれを許さない。肩に手を置き、ポンポンと叩いた。
「動いたら計れない」
「いや、そもそも熱じゃないし……」
「じゃあ何でそんなに顔が赤いんですか?」
「こ、これは……」
「思春期?」
「いや、もうとっくに終わったよ、そんなの」
「じゃあ……変な妄想でもした?ドラマのキスシーンを見て……」
「……ち、違う」
「あら、じゃあなんで目を逸らすんですか?」
亜季ちゃんは、じりじりと獲物を狙うように距離を詰め、僕の顔を除き込もうとしてくる。その瞳の輝きは、肉食獣のそれに見えた。
僕は、ごくりと唾を飲み込んでから、縫い付けられたように動けなくなった。
「先生、こっち向いて」
「ちょ、ちょっと待て……」
「授業できないでしょ?」
「……たしかに」
いかん。完全に向こうに主導権を握られている。何とか普通の授業にしなくては。
……今まで一回も普通の授業とやらをした事がない気がするのだが。ま、まあ今は置いとこう。
「よし。じゃあ、先日の小テストの採点しようか」
「ええ。お願いします」
採点してみると、前回より1点だけ上がっていた。
わあい……う、嬉しいんだけどね?なんだこの上がり方。まるで狙っているかのような……。
「先生、ほめてほめて♪」
「いや、でも……」
「1点だけだから褒めてくれないの?まだまだ頑張らなきゃだめ?」
「いや、う、嬉しいよ!ただ自分の教え方が悪いのかなって……なんだか申し訳なくて」
「そんな事ないわ。先生は私にとって最高の家庭教師ですよ。声はずっしり響いて気持ちいいし、目は穏やかだし、身長も私と丁度いいくらいの差だし……ね?」
「あ、ありがとう……ん?」
あんまり家庭教師関係ない気がしたんだけど……しかも、最後のほう思いつかなかったから、切っただけだろ。まあ、いいけど。悪い気はしないし。
漂う甘い香りに鼻が慣れてきたのか、頬の火照りはだいぶ治まった気がする。
「よしっ!気を取り直して続きをやろうか!」
「ふふっ、よろしくお願いします」
亜季ちゃんはそう言って、身体をぴったりとくっつけてきた。
「そ、そこまで近づかなくても……」
「先生、鎌倉幕府はいつできたんですか?」
「ここにきてそんな質問!?」
どうやら離れるつもりはないようなので、大人しくそのまま授業を続けることにした。
……ご両親が帰ってこない事を心から祈りながら。変な意味じゃなく。
*******
なるべく余計な事を考えないように、そして亜季ちゃんにからかわれながら授業をしていたら、いつの間にか終了時間になっていた。
軽く伸びをすると、彼女が温かいお茶を持ってきてくれた。
「お疲れ様、先生。ご飯にする?お風呂にする?そ・れ・と・も・もう帰る?」
「もう帰るよ。明日提出しなきゃいけないレポートもあるし」
「むぅ……少しくらい冗談にのってくれてもいいのに」
「普段からからかわれてばかりの気がするんだけど……」
「あんなの序の口……じゃなくて、そんなことないわ。私、先生を心から尊敬してますから」
「本音が隠しきれてない!しかもあれで序の口とか!」
「あ、そろそろお母さんが帰ってくるわ」
「……じゃ、じゃあ、次の授業までに課題をやっておくように」
「りょーかい。あ、先生。雨降ってるから、お父さんの傘使って」
「あ、ありがとう……」
それから亜季ちゃんは、とびきりのとろけるような笑顔を見せた。
「じゃあ先生……またね」
「ああ、それじゃあ」
こうして、いつも通り彼女に見送られながら矢内家をあとにするのだが……。
頭の中は砂糖とスパイスをめちゃくちゃに入れ、乱暴にかき混ぜたかのような、ふわふわした甘辛いものでいっぱいになっていた。