肆 人と人 廻る
「はあっ」
飛び起きた俺の目の前には、驚いた表情の六花がいた。
「六花……無事か……」
ほっと息を吐いた後、自分を見た。何故か俺は布団に寝ていた。
魑魅という巨大な厖獸に喰われたはずだ。夢だったのかと思うほどいつもと変わらぬ様子だが、俺は記憶が混濁しているのだろうか。
「無事じゃないのは耶麻人さんの方です。まったく、無茶をして…………ですが、私がきちんと話さなかったのもいけませんでした。すみません」
「……夢ではなかった、と? では何故俺は生きている?」
冷静になってみれば、いつもとは違う。部屋は肌寒く、囲炉裏の熱で暖をとっているようだった。そして、右目が見えない。
「ふ、ふ、ふ」
小さな笑い声が聞こえ、そこで初めて俺は第三者の存在に気づく。振り返ると、五、六歳ほどの女童が部屋の隅に正座し、口を袖で隠し肩を震わせていた。
「また、そうやって面白がって……勘違いですからね? そういうのでは、ありませんから」
「ふ、ふ、そお言うて、まんざらでもないじゃろう。漸くじゃあ、のう、耶麻人」
その女童はしわがれた声で俺に呼びかけた。見知らぬ童子であったが、その灰色の瞳は老婆のように濁っており、見覚えがある気がした。
「君は?」
「私から説明します。耶麻人さん、落ち着いて聞いてくだ」
「魑魅じゃ」
「魑魅さま!?」
名乗られ、無意識に「は?」とだけ声が漏れた。
「魑魅じゃ」
「…………あ、ああ、俺は耶麻人だ」
我に返り俺も名乗ると、魑魅という、あの厖獸と同じ名を持つ女童はにいと瞳を細めた。
「おぬしがあんまりにも熱いもんで、めんこくてつい舐めてしもうた。悪かったのう」
「舐め……? いや、記憶にない。大丈夫だ」
初めて見た女童に舐められた記憶など俺にはなかった。覚えのあるものは、魑魅と呼ばれる厖獸に喰われた記憶だけだ。
「ふ、ほ、ほ、おもしろいのう」
「耶麻人さん耶麻人さん、記憶にあると思います。大丈夫ですから落ち着いて聞いてくださいね?」
俺の手の甲に冷えた六花の手が重ねられる。それに俺の鼓動が場違いに跳ねた。
「まず、魑魅さまは厖獸ではありません。四山脈の主さまです」
「この小さな童子が……山脈の、ぬし?」
四山脈の主と言えば、世間に疎い厖獸狩りの俺でも知っている存在だ。
平地を治めるのが皇都の帝ならば、山を治めるのが四山脈の主である。
一生お目にかかることのない意味で言えば、俺にとっては妖とも似た存在であった。そんな雲の上の存在が目の前に座っている女童というのか。
「ええと、こちらは社で過ごされる際の仮のお姿です。魑魅さまは本来、狼に似た白獣のお姿をされています。けれどそれだと大きすぎるので童子に」
さらに信じがたい内容を六花は話した。
六花はたまに俺のことを揶揄う。これもそれではないのかと疑いが頭をもたげたが、その女童は常人とは思えぬ雰囲気を漂わせていた。
「………………俺は、君に…………矢を放った……?」
「理解が早うていいのう」
「耶麻人さんが冷静で良かったです。では、順を追ってお話ししますね。魑魅さまは、耶麻人さんを白尾申から助け出し、この社に運び、そして全身の負傷と右目を神力で補ってくださっているんですよ」
六花の話によると、白尾申に引きずり込まれた俺は雪渓亀裂の底で喰われかけていたのだという。右目は牙で潰され、出血と全身の怪我で死にかけていたところ、魑魅の神力と六花の救命措置により生き長らえることができた、と。
「………………………」
「信じられませんか?」
「…………いや」
右の瞼に触れる。皮膚の向こう側には眼球があるが、動くことはなくモノのように固い。俺の目ではないものがあるのに、今まで見ることができていた。
白尾申に深手を負わされた自覚はあり、それを助けてくれた六花が言うのだから、驚きはしたが疑いはない。
そして死にかけの俺を治癒したことにより、神力で姿が保てなくなった魑魅は、あの部屋でしばらく休眠していた。そんなところに俺が押しかけていったようだ。
しめ縄は、この社を不安定な天候から保護するための守陣というものらしい。確かに今までと明らかに異なり、現在は冷気が部屋に忍び込み、襖の先には吹雪く風の音が激しく鳴っている。
今までの摩訶不思議な状態が魑魅による神力となれば、信じざるを得ない。
「そうか……申し訳なかった。俺は、命の恩人に矢を向けてしまったのだな。詫びて済むとは思わん。罪滅ぼしは何でもする」
「ほ、ほ、ほ。よいよい。あのような小枝、なんも気にしておらぬわ」
魑魅はそれで自分の話は終わりだというように笑った。そしてひとつ瞬きをすると、笑いを堪え、続けて俺に訊く。その表情は六花が俺を揶揄う時と似ていた。
「それより、どうしてわしの寝所に来たのじゃ?」
「…………俺の早とちりだ。本当に悪かった」
「ほ、なんの早とちりだったんじゃ。詳しく話せ」
「それは…………」
魑魅が六花を縛るものだと勝手に判断していた俺は心苦しさから言い淀んだ。
視線をあちらこちらに彷徨わせ、ふと六花と目が合う。六花は不思議そうに見つめ返したが、それに俺は居た堪れなくなり目を逸らす。その先には魑魅の灰色の瞳が変わらずあり、答えを誤魔化すことは許されないと感じた。
「…………六花が……この屋敷にいる理由がそこにあると思って、な……すまない、何の確認もせず早まってしまった」
「え?」
六花を言い訳に使っているようで、後ろめたさと気恥ずかしさで俺は顔を背けた。
今思えば、あの時の俺は明らかに冷静さを欠いていた。きっと六花は呆れた顔をしているだろう。
「ほうほう、それで、わかったのか」
「……いや」
「ふ、ふ、ならば六花、話してやれ」
「え!? ……え、ええ、はい…………私は邑のお役目で、社の管理や清掃などをしています。それが…………理由です」
一度驚いた六花だったが、予想外にあっさりと回答が得られた。
以前はぐらかされた態度との相違に違和感を覚えながらも、俺は六花が「いたくているわけではない」と言った言葉を思い出した。
「そうか……役目……独りでずっと…………それは、替わることができるものなのか? 魑魅殿が良ければ俺が替わりにその役目を担いたい」
「え」
「ほ! ほ! ほ!」
肩を震わせていた魑魅は、堪えきれなくなったように床板を叩きながら笑った。
「……何かおかしなことを言ったか?」
「おかしいも何も、替わりなど要らぬわ。役目など、収穫期後の数日でよい。冬期も終わるというに未だおるのは六花が頑固なだけじゃ」
瞳の淵に涙を浮かべながら言った魑魅の言葉に、俺は余計に訳がわからなくなる。
「うん? ……ならば何故……六花はここに? いたくているわけではない、んだよな?」
疑問をそのまま六花に投げかければ、彼女は口を一文字に閉じ硬い表情だ。それから徐々に俯いていき顔が見えなくなった。
答える素振りのない立花の代わりに、魑魅が薄笑いしながら口を開く。
「こん娘は己が年上じゃから邑で見栄ばぁか張り、可愛げのねえていつも振られてここに引きこもるんじゃ。嫁ぎ遅ればぁーか気にしおっての」
「やめてください恥ずかしいからぁ!」
突然叫び声をあげた六花は頭を抱えてそのまま床に突っ伏した。
急に騒ぎ出した六花に驚いたが、魑魅の話しが本当ならここに六花が囚われているわけではない。振られて引きこもる、即ち邑に居づらいため社を避難所として使っているということだ。
そして独りは独り身という意味で言っていたことに思い至り、俺は自身の勘違いに可笑しさが込み上げてきた。密かに、相手がいないことにも安堵した。
「なんだ。そうだったか」
「は、笑い、ましたか?」
うつぶせたまま六花は頭だけを起こし、俺を見上げていた。底冷えする声音と同じように、瞳には一切の熱がない。あまりの無表情に俺はたじろいだ。
「あ、いや……良かったと思って」
「何が、いいの、ですか? …………そうですか……そうですね、ここに微睡みの毒薬なるものがあります」
「ど、毒?」
「いいえ治癒力をあげてくれる効能の抜群な薬酒です。ただ少しだけ記憶が朧げになります。たまに自分とか言葉とか人であることとかを忘れるかもしれませんが些細なことです」
「些細どころではないと思うんだが…………それは、六花のことも忘れてしまうものなのか」
「ええ、きれいさっぱり」
六花はにこりと柔らかな表情を作った。腹に一物かかえてそうな黒っぽい笑顔だったが、そんな六花の表情は無表情よりずっといい。本音を言うと凄んでみせた時より余程恐ろしかった。
しかし問題はそれすら全て忘れてしまうかもしれないということ。
「……君を、忘れたくない」
「なっ、そ、そんな……紛らわしい言い方…………わ、忘れてもらわねばならないことなのです」
「それは妖の決まりか?」
「それ……は……」
今度は六花が視線を彷徨わせた。
「妖、のう? そう呼ばれていた頃もあったの。確か、雪山姥とか言うたな」
「魑魅殿も? ならば六花は雪山姥の一族ということか? ん、邑には男もいるんだよな……婆……?」
魑魅と同じであるならば、六花のこの姿も仮初のものなのだろうか。などと思案していると、立花は慌てた様子で何かを言いかけては口を閉じることを繰り返していた。
「何を言うておる。六花は只人じゃぞ。妖なぞここにはおらぬわ」
しん、と無言の時が流れた。
六花に目をやると、顔だけが真横に向いている。俺の視線は感じているだろうに、決してこちらを見ぬ心づもりのようだ。
「嘘だったと」
「それは、だって、もとはといえば耶麻人さんが妖だなんて言うから、そんなに変……な格好ではありましたけど、そんな簡単に信じるなんて、だ、騙すつもりなんて、なかったというか、ちょっとむっとしただけで……すぐに言うつもりだったん、です……」
「愚かじゃのう」
「うぅ申し訳ありません」
言い訳を探していた六花だったが、魑魅に一蹴されて素直に謝罪をした。本当に人であるようだ。
そもそも馬鹿馬鹿しいと思っていたはずなのに、俺の妄言を、六花の嘘を信じていたことが、わかった今では信じられない。
六花に対し騙された怒りは感じない。むしろ人であったことにほっとしている。
「なんだ…………そうか、良かった、六花が人で……ならば、俺は忘れたくない……頼む六花」
「う、また、そうやって…………はぁ、わかってますよ。薬酒を飲ませるなんて冗談です。耶麻人さんて騙されやすいですよね。少し心配になってしまいます」
「そう言われたことはないが…………ああ、六花の言うことだから、か。俺は……君の言うことを信じたかったんだ」
口にし、なるほど合点がいった。
俺はどうやら六花の全てを受け入れてしまいたかったようだ。
六花の寂しさも嘘も、恩人である彼女のためと言いつつ、その実、俺自身の欲のために動いていたのだろう。してあげたい、受け入れたい、という気持ちは、俺のしてほしい、受け入れてほしいというほの暗い感情の反転だ。
惚れた腫れたは俺にとって縁のないものだったが、自覚した途端腹に熱が生まれる。息苦しさをも感じさせるこの熱は、なかなかどうして悪くない心持ちである。
六花は顔を真っ赤に染め「うぅ」と呻いている。羞恥に耐え決して目を逸らすまいと睨み付ける六花がどうにもいじらしく思えた。
ついまた「可愛い」と口をつきそうになり、これ以上彼女を辱しめれば毒を飲まされかねないと判断した俺はその言葉を飲み込んだ。
しかし自覚すればより、欲が湧く。
嘘と真を知った。六花との距離を縮めるために、もっと知りたい。
「嘘や冗談でなく、六花のことを聞かせてくれないか。君のことが、知りたい」
「なっ」
「六花は頑固者だからの、それでは駄目じゃ耶麻人」
突然、魑魅が割って入る。
魑魅は俺に近寄り、右目に己の手を当てた。氷の刃を突き刺されたような冷えた痛みが刺さり、俺は思わず表情を歪める。
「これで見えるじゃろう」
やがて魑魅が離れると、視界が晴れて見えた。曇りも濁りもない。あり得ない人外の力。俺はやっと眼前の女童が人ではないことを現実として目の当たりにした。
「……ああ」
「体ももう動くの?」
「ああ、ありがとう」
「ならばすぐに出てゆけ」
「……え?」
魑魅の突然の排斥に、咄嗟に反論したのは六花だった。
「そんな! まだ治りきってはいないのですよ。薬湯で誤魔化しているところもあります。こんな状態での下山は危険です」
「おぬしらのためにまた守陣を敷くのも面倒じゃ。何よりわしはまだ寝足りぬ。六花が騒がしくてのう」
この社の、どころか山脈の主は魑魅だ。ちっぽけな人の身の俺にこの場にいることを許されないのなら従わざるをえない。しかし、まだ何も六花と話せていない。
俺はどうにか残る術を探す。時間稼ぎでもなんでもやってやろう、と。
「じゃから、六花を持ってゆけ耶麻人」
「は?」
俺と六花の声が重なる。
俺たちの驚きなど意にも介さず、魑魅は着衣の帯をほどき始めた。
「六花は意地っ張りじゃが知識はあるでのう。役に立つぞ。それ、わしが麓まで持っていってやるわ」
「待ってくれ! なぜ脱ぐ!? それに、持っていけとは、持っていくとは、どういうことだ!?」
「そのまんまの意味じゃ」
「わ、わたし……」
「安心せい六花。邑のもんにはわしから言うておく。なあに皆、諸手を振って送り出してくれるはずじゃろうて。嫁ぎ遅れがようやっと嫁に行ったとなあ」
「魑魅さまあああぁぁぁ!?」
六花の怒りを帯びた叫びは本来の姿に戻った魑魅の口内に消えていった。巨大な体躯は容易く屋根を壁を破壊し、極寒の風雪が俺に襲いかかる。ぺろりと舌なめずりをしたその獣は、次の獲物を灰色の瞳に捉え嗤う。
本能的に弩弓を掴んだ俺は、次の瞬間、意識を黒く塗りつぶされた。
次に目を覚ました時、俺は同輩たちのもとにいた。
何故か全身が重く、指を動かすのも億劫だ。
聞けば魑魅に麓まで運ばれた後、俺は何日も眠っていたという。魑魅の加護から離れたせいで、今まで神力で治癒しかけていた傷口が全て開いたらしい。
「魑魅さまは人の身の脆さをわかっていません」
不満を漏らした六花の目元は赤く腫れていた。
「心配……して……くれたのか……」
「追い出されたので、行き場が無いのです。早く起き上がれるようになってもらわねば、私が困るのですよ」
「……そう、か」
俺の腕に触れている六花の手は僅かに震えている。強がりだとわかったが、たとえ本心からの言葉でも頼られるのは悪くない。知らぬ者ばかりの地で心細い思いをさせたのは事実だろう。早く、治さなくてはと思う。
「目ぇ覚まして早々、おアツいねぇ」
厖獸狩りの同輩の一人が、柱に寄りかかるように立っていた。にやにやと俺と六花を見下し、弾かれるように六花は俺から手を放した。
「ははっ、わぁるい。…………炊事場空いたぞ嫁さん。耶麻人の飯作ってやってくれや」
「は、はい」
それだけ言って去って行く。あいつは今何と言ったか。
「…………嫁?」
「う、あの、何者か聞かれて、咄嗟に、魑魅さまがあんなこと言うから他に思い浮かばなくて…………すみ、ません……また嘘を」
六花は潤んだ瞳で視線を右往左往させ、両手をパタパタと誤魔化すように動かした。初めの頃の落ち着いた様子とあまりにも違う慌てた様に、俺は思わず笑みをこぼした。
また別の表情が見れた、それに愛しさが募る。
俺はあちこち逃げ回る六花の華奢な手のひらを捕まえる。そういえば、最初に掴んでくれたのは、六花の方だった。
お互いの目線が重なる。
「嘘でなければ、いい」
六花は白い頬を朱色に染めて、小さく「はい」と答えた。
俺は、俺にとっての雪山姥に、魂を喰われてしまったのかもしれない。だが、輪廻る時は、共に。
お読みくださりありがとうございました。