Ⅸ
その終わりを魔女は己の鼓動が最後の音を刻むまで忘れることはないだろう。
ねぇ、名前も知らぬ王よ。貴方は名前も知らぬ魔女をどんな思いで見ていたのだろう。
魔女自身の手で開け放たれた扉が静かに閉まり、外を遮断する。
無駄なものを一切省いた室内。実用性を重視する主の姿があちらこちらに見受けられる室内で彼は静かに終わりを迎えようとしていた。
記憶よりもシワの増えた顔、白いものが混じり始めた髪。病の影響で痩せた手足、痩けた頬。
そこに眠るのは記憶にあるよりずっと老いた王。
魔女は知っている。王が青年だった日々を。何者にも屈しない強さと美しさを秘めた姿。同じ刻を刻んだはずなのに何故、こんなにも自分達は離れてしまったのだろうか。
変わる王と変われぬ我が身。それを見せつけられた魔女はしばし立ち尽くしす。
この期に及んで終わる貴方の心を知るのが怖いと震える自分を魔女は苦く嘲笑った。
「………何時まで馬鹿のように立ち続ける気だ」
掠れ、ひび割れた声にはっと顔を上げれば寝台からこちらを見る瞳を見つけた。
王は記憶にある通り、感情を読ませない瞳のままこちらをみていた。魔女は一瞬、息をすることすら忘れ、時間を遡った気さえした。
「俺を殺しにきたか」
王は静かにだが確信を持ったように深く息を吐くとそう、呟いた。殺すなら、殺せ。と言う王の言葉に魔女は緩く頭を振って否定した。
「いいえ。それは違います」
「何が違う。お前は俺を怨んでいるのだろ?それだけのことをされたのだから当然だ。だから殺しにきたのだろ?それとも無様に死ぬところでも見物にきたか?」
あざ笑うような言葉が王の口から零れていく。そのどれもが間違いであり、魔女はただただ頭を振った。
「違う、違うのです。私がここに来たのは、貴方の元に来たのは………」
言葉が詰まる。時間がない。この王にこの心全てを伝えるには残された時間はあまりにも、本当にあまりにも少なすぎる。
伝えたいことが多すぎて、知りたいことが多すぎて、なのに時間は手の中からどんどん零れ落ちていく。
魔女は王の枕元に近寄るとそっとそのやせた手を掴む。王が息を呑んだのが伝わったが構わずその手を額につける。
祈るように。
赦しを請う様に。
王を連れ去ろうとする刻に抗うように強く強く握り締めた。
繋いだ手から感じる体温にこみ上げる愛おしさが魔女の心を満たした。
「私は…………王、貴方にたくさんの、本当にたくさんのことを伝えたくて、また、教えてほしくて貴方に逢いに来ました。だけど、全てを知るには時間が余りにも足りなさ過ぎる」
王は悟っていた己が死期を。魔女も同じ。薬草や医学の知識に長けていた魔女は王の様態を正確に把握していた。
時間がない。
この心をあかし、彼の心を開く時間がない。
王が苦しげに息を吐く。その身を蝕む病はどれほどの痛みを彼に与えているのだろう。
お願い。もう少し、もう少しだけでいいから私達に時間をください。
伝えたい言葉も知りたい気持ちもたくさん、たくさんある。
だけど、だからこそ、魔女はそっとそれらに蓋をして、たった一つだけを王からもらおうと思った。
彼の行動の意味も気持ちもなにもいらない。何も伝えられなくていい。ただ、一つこれだけを彼の口からきけて、そして彼に呼んでもらえればそれだけで、いい。
涙に濡れた瞳でそれでも微笑みながら魔女はそっとその願いを王に告げた。
「名前を、貴方の名前を教えてください」
魔女の想いに握った手が強く握り返された。
扉が開かれ、王のもとへと駆け寄った人々が見たのは驚くほど安らかな死に顔の王と王の手を握り、静かに涙を流す魔女の姿。
誰も、言葉一つ、発しなかった。
それほどまでにその光景は静謐で何者にも冒し難いもだった。
老いた賢王を忌まわしい魔女が看取った。それだけですぐさま魔女を王から引き離し、投獄すればいいのにそんな考えすら思い浮かばない。
一目見ればわかる。
魔女は、王を愛していた。
そして、愛していたがゆえに彼女はいま、悲しみ涙を流している。
魔女は静かに手をはずすと王の胸に組ませ、愛おしそうに彼の髪を撫でた。
「さよなら。憎くて愛おしい私の初恋のひと」
「せんせい!」
幼い弟子の声にまどろみの中にいた女性が瞳を開く。覚醒しきれない頭でもたれていた木の幹から身を起こす先生に早足で近づいてきた弟子である少女が腰に手を当て叱り付けてきた。
「また、こんなところで眠って!風邪をひいてしまうから外で昼寝はダメだってなんども言っているじゃないですか!」
見事な朱金の髪と青い瞳の弟子にようやく意識が覚醒してきた先生は苦笑いをしつつ地面に落ちていた本を拾い上げた。これではどちらが弟子がわからないですね、などと考えながら。
「すいません。今日は天気が良いのでつい」
「ついではありません!」
「はい。すいません」
くすくす笑いながら謝罪すれば「反省してない」と怒られてしまった。
弟子と先生は連れ立って家路につく。
少し歩いたところで足をとめ、先生は夕焼けに染まっていく空をつかの間仰ぎ見る。
先生の白い髪が夕焼けに染まり、風に揺れた。
長い、永い夢を見ていた。同胞を殺され、身の自由を奪われた。憎んだ男に心までも奪われた日々。
かって魔女と呼ばれた女性は己が夢に見た日々よりも永い時間の果てにいた。
辛く苦しい初恋の終わりは自分に終わりをもたらしたと思った。この先の時間になんの意味など見出せない。
そう、思った魔女は己の間違いをすぐに気づかされた。
成長した友人達、そして王であった人の伴侶たる王妃の優しさ。
その後も続いた人生の中で出会い別れた様々な人々との関わり。
気づけば魔女は笑うことができた。幸せだと思うことができた。
王がいない悲しさはあっても己の生に意味を見出すことができはじめた。
魔女と呼ばれた、今は先生と呼ばれる女性はふっと綺麗に笑う。
「私は幸せですよ」
誰にともつかない言葉を残し先生は少し先で立ち止まって怒っている弟子に向かって歩き出した。
一応、これで本編は終了です。蛇足的な話を数話書く予定です。