Ⅴ
その日は雲ひとつない青空が広がっていた。
何も変わらない日々になるはずだったその日を魔女は、永遠に忘れることはなかった。
いつものように疲労から崩れるように眠っていた魔女がのろのろと身体を起こした。翡翠の瞳が怯えたように扉を見つめ、そしてそっとため息をついた。
じっと扉を見つめる。あの扉が開けば、魔女は、どこに行くのだろうか?
「ひらく、はずなんて、ないのに……」
閉じ込められ、忘れられた存在が何を言っているのだろうか。
自分の考えに自虐的に笑う魔女。ふふっと笑い声が静寂に響く……。
「のぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「?」
遠くから雄たけびのようなものが聞こえたような?
「負けてなるものですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!これしきの石段ぐらいでぇぇぇぇぇぇぇ!」
「………」
気のせいではなくこちらに近づいてくるのは女性の雄たけびとものすごい足音。
長い間、静寂しかなかった塔にそれらはまるで、時が動き出したことを告げるように響いた。
「ここね!!!!」
声と共に長い間閉ざされていたはずの扉はあっさりと開いた。そう、まるで、最初から鍵など掛かっていなかったようにあっさりと。
まさか、と思った。もしかして、扉は最初から………。
困惑した魔女の元に扉を解き放った女性は迷いなく近寄ってくる。年の頃は三十半ばだろうか?金色の見事な髪を結い上げ、走ってきたためか頬をばら色に上気させた女性は美しい顔に酷く、焦りを浮かべながら魔女の腕を掴んだ。
「魔女!大変よ!」
「貴女は………?」
「わたくしのことは後でいいの!今はとにかく急いで!」
戸惑う魔女に女性はその青い瞳に涙を浮かべつつ立たせようとする。
「あ、あの……!」
弱った魔女に抗う術はなく容赦なくベットからおろされてしまった。
「王が……!王が、危篤なの!病気で、年も年だからもう、もたないだろう、って……!」
女性の言葉に、魔女が震えた。
王。
危篤。
病気。
もう、もたない。
「あっ……」
めまいが、した。理解、出来ないのに身体から力が抜け、へなへなと魔女はその場に座り込んだ。
死ぬ?王が?
心が真っ白になるぐらいの衝撃を受けた。
養母を殺し、自由を奪い、身体を奪い、心まで奪った男が今、死に掛けていると聞かされ、滑稽なほど、何も、考えられなかった。
魔女の中の王はいつだって絶対者だった。
何者にも侵される事のない威風堂々とした王。
閉じ込められても逢うことがなくとも、彼は存在し続けると思っていた。愚かにも。そう、思い込んでいた。
ああ、でも。そうだ。
魔女は気づいた。
王は人間だ。そして、人間は老いる。出逢ったころは魔女とほぼ年齢の変わらなかった王だが、もう、彼の孫が生まれてもおかしくはないぐらいの時が流れているのだ。
魔女には老いが遠い、しかし人間である王は老いる確実に。
消えてしまうのだ。魔女の前からあの王は。
扉を見た。ずっとずっと見つめ続けていた扉。今ならわかる。私はあの扉が開くことを望んでいた。 来るはずのない人を私は、待ち続けていた。
どれだけ時が流れても王は居てくれる限り、可能性はゼロではないと心のどこかで思っていたから。
人間と魔女は生きる流れが違うというのに、愚かにもそう、信じた。
「魔女!」
支えてくれる女性の腕にすがりつきながら魔女は立ち上がる。
時は最期を刻み始めている。
この恋の、魔女の初恋の終焉に向かって。
奪い続けられる人生だった。悲観して怨んで憎んで苦しんでそして愛した。
幸せなど、なかった恋だった。いつだって胸が痛くなる思い出ばかり。
だけど、それでも、魔女は恋をしたのだ。愛したのだ。
残忍ででも、どこか寂しい瞳をした王に魔女は恋をした。
震える足で魔女は一歩足を踏み出す。
「魔女……」
「お願いします。私を王の下へと連れて行ってください」
奪われ続けた魔女は初めて己の意思で選んだ。
王と逢うこと。そして己の恋の行く末に決着をつけることを、彼女は選んだ。




