(番外編) アリス立つ【1】シュジュの悩み
リュオンという超天才を兄に持ち、巫女という特殊な存在である妹アリスとの間に挟まれ翻弄されるシュジュ。彼女は結婚して僅か半年で父ラヴェイドが企てた“アダム拉致誘拐事件”に巻き込まれ、夫と離れ離れの逃亡生活を余儀なくされた。家族の中で一人だけ特別な力を持たぬ彼女は、自分の存在理由を見つけられぬまま時勢に流されて行く。
やがてシュジュは苦しみながら自分の進む道を見つけるが、それが真に彼女の望んだ未来であったのかを知ることは出来なかった。能力の覚醒により姿を変えてしまったシュジュを討つと決めた凜々の苦悩。アリスがはじめて味わう敗北感。リュオンの激しい怒り。
“シュジュ覚醒”と“別れ”へと続く外伝三話を収録しました。お楽しみ下さい。
*************************************
【1】シュジュの悩み
「ちょっと、そこの人! 何度言ったら分かるの? その動作の時は必ずつま先に気を配って、螺旋の動きに体重を乗せながら踏み込んで下さい。あなた達は体術のエキスパートなのでしょう? 出来ないはずが無いのです。要はやる気の問題なの!」
「こ、こうかな?」
「少し違うわ。微妙に外側へと体が流れてしまってる。けど、おかしいわね? 昨日は出来ていたように思うのだけど?」
身の丈2㍍を超える大男が、自分の半分にも満たない子柄な女の子に注意れてあたふたとフォームを直す。彼が同じところで何度もしくじるので、そのたびに集団演武が中断してしまって先に進まないのだ。仲間の冷ややかな視線を浴びながらもマイペース過ぎる若者の態度に、鬼教官の声が響いた。
「このボンクラめ! そうじゃないって何度言われてんだ? アリス先生が直々に教えてくれてるのに、貴重な時間を無駄にするな!」
怒鳴られて肩を落とす大男の前にツカツカと歩み寄った凛々(リンリン)は、軽く三倍は越える体重を持つ男に向かってグンと勢いよく前に踏み込み、肩をぶち当てた体勢から更に進んで捻りを加えながら、男を広場の端にある樹木が立ち並ぶ位置まで勢いよく突き飛ばした。男は派手な音を立てて木の根っこに顔面をぶつけ、鼻が曲がったと言いながら手で覆い涙目になっている。
「こうやるんだ。頭じゃなく体で覚えろ!」
深い森に囲まれたこの一画には、大小様々な形をした丸太造りの家が適度な太さの枝ぶりを利用して木の上に造られており、約80世帯ほどの樹上集落を形成していた。
少し見渡せば分かるが、この村は非常に厳しい環境下にある。周囲を囲む深い谷。濁流のごとく流れる渡るに難い橋の無い川。深くて濃い霧が一年中たち込めていて、村へと近付こうとする全ての者からその所在を隠していた。
ここは絵に描いたような理想的な“隠れ里”であり、たとえ上空から探索しようとしても、谷から吹き上がる強烈な乱気流とぶ厚い雲によって容易く見つけ出すことができない。その上、里の周囲8キロ地点には太古より存在する“迷い呪”を利用した回避不能な結界が張られており、通行手形の役目をする霊御札を持たぬ他所者は方向感覚を失って永遠にさまよい続けることになるのだ。
ここは『天狗の隠れ里』と呼ばれる世界で最も侵入が困難な場所のひとつであり、そこでは9日前に訪れた客人による武術指導がされていた。その客人とは小さく可愛い美少女で、しかもウサミミをぴょんと生やしている。小さいと言っても子供ではない。この村の天狗族から見れば10歳に満たない子供の身体付きだが、人間の尺度で見れば16歳くらいの平均的身体つきをしていた。
彼女の名はアリス。脚王ラヴェイドの第八王妃アフロディアの二番目の娘であり、アダムと契約を結びし消失血統の巫女である。もちろんその事は秘密であり、それを知る者は家族4人と、この里の首領であり天狗族の長である『朱天紫丸』だけだった。
母親のアフロディア、兄リュオン、姉のシュジュ、それにリュオンの正式な妻となった凛々たちは、9日前の深夜、雷鳴轟く豪雨の中を仮死状態となったアリスを運びながらこの『天狗の隠れ里』の結界内に入った。
天狗族の首領の紫丸は、突然の来訪者に対し当然のごとく警戒したが、相手が五人だけであった事と、内ひとりは瀕死の重体であり、男ひとりの他は全員が女性であった事から、手荒な扱いはせずに幻惑術を行使して結界の外に誘導しようと試みた。
しかし、その試みは失敗に終わった。先頭に立つ男の術によって、隠れ里ご自慢の結界がいとも容易く無効化されていく様を見て驚いた。だがこれで彼らが遭難者ではなく、明らかに里を目指していることが確信できた。浸入者は全て排除するのが古くからの掟だ。たとえ病人を抱えていたとしても例外はない。
それにしても、なんと凄まじき魔導幻士の術か? 幻惑結界を得意とする天狗の術士数名で作った“天狗の時騙し”が全く通用せず、逆に術を返された術士たちが次々に眠らされて行く。
ならば!と出した格闘術の手練衆10名が、瞬く間に返り討ちにされた事に更に驚き恐怖した。月の光があるでもなく、深淵に近い深き闇と、雨音による騒音に加え足場などは最悪に近い状態でありながら、土地勘も無いはずの女剣士相手に防御の要である手練衆が2分とたたずに全滅したのだ。その余りにも速すぎる太刀筋に誰ひとりとして対応できず、一刀のもとに倒された。
『鞘走り月影』
“閃光の凛々”の名で知られる彼女の抜刀術は、音速を軽く超えると言われており、初見でその太刀筋を見極める事は極めて難しい。無手格闘術でもかなりのレベルにある彼女だが、一番の得意は剣術であり、身の丈ほどもある長剣を自在に操る鞘走り(抜刀術)は一撃必殺と自負する超絶技だった。
「こうなれば、ワシが出るしかあるまい」そう言って“動かざる紫丸”と呼ばれる伝説の大豪傑が動いた。彼がひとたび戦場に出れば、如何なる状況であろうと一瞬で終わる。紫丸が有する固有能力は防げるようなモノではなく、術の有効範囲内に捕われでもしたらその対応は不可能に近い。たとえスキルの効果を知っていたとしても、訓練なしでは絶対に対処できない特殊な力なのだ。
全ての行動を裏返す能力『体感反転』。右を向こうと思えば左を向き、前進しようとすれば後退する。脳が発する指令を体が勝手に逆と解釈してしまう。達人であればあるほど、反射的に動いてしまうのを制御するのは難しいものだ。体に染み付いた動きを頭の中で逆転させ行動するのは、咄嗟であれば事さらに不可能だった。だが、この里の手練達は逆転空間でも動けるよう長い年月を掛けて訓練されている。その結果アリス達は、ほとんど何も出来ずに簡単に拘束されてしまったのだった。
いくら頭の回転が速いリュオンでも、普段使っている術式を逆に読み上げ印を逆さに切るなどすぐには出来ない。ワンワードで効果を発揮する短縮呪文で出せる術では訓練された手練たちの動きを止めることが出来ず、病人のアリスを除いた全員が気絶させられて里の地下牢獄へと入れられた。
紫丸は呪文使いであるリュオンを一番に警戒した。先ずは女の方から尋問する事にして、最も年長だと思われる女をひとりだけ牢屋から出し、拷問部屋に放置し恐怖心を煽った。恐怖は容易く精神に穴を開ける。その穴を的確に突けば、口を割らせる事など容易であると紫丸は思っていた。
得体が知れぬ兎族の女を自ら直接尋問しようと拷問部屋に入ると、女は怯えもせず毅然とした態度を保ったまま真っ直ぐに紫丸を見つめ返して来た。その高貴な眼差しと清らかなる波動を前に、紫丸は用意していた言葉を失って戸惑った。胸が高鳴り、年甲斐もなくドキドキと動悸が早くなるのを止められない異常な現象が肉体を支配する・・・
「ワシは何かとんでもない勘違いをしているのではないだろうか?」
この時、紫丸の脳裡にそうした思いが走ったという。侵入者と決めつけ攻撃を仕掛けたのはこちら側だった。はじめから対話を持ち掛けていれば、戦闘にならなかったかも知れない。斬られた者もみな峰打ちだったし、『呪い返し』も手加減が加えられており、精神に異常をきたした術士はひとりもいなかった。
はじめから闘う気はなく、ただ庇護を求めてこの里に来たのだとしたら? 紫丸はアフロディアから視線を外す事が出来ず、身を硬直させた状態でしばらく黙って立っていた。
天狗族は生まれながらにして霊力に優れており、自然界の精霊との間に契約を結ぶ者も多い。非常にプライドが高く偏屈な者も多いが、超自然現象を操れるシャーマンなど覚醒者に対しては昔から敬意と尊敬の念を強く抱く古い習慣を持っていた。
紫丸も例外ではない。彼はいきなり両膝を地面に付き「ご無礼を働き、大変にすまなかった」と頭を下げて謝った。側にいた二名の護衛役の若者は、首領の態度に驚き目を疑った。プライドの塊のような首領の、このような姿など初めて見たからだ。大天狗の首領紫丸は、大魔王ゾーダの前でさえ両膝を付いて頭を下げた事など一度もないはずである。
天狗族の中でも飛び抜けて霊力が高く、つい20年前までは第一線で活躍した魔王のひとりであった紫丸には、アフロディアが普通の兎族の女ではない事がひと目で分かった。神と交信をした事がある者にしか持ち得ぬ天狗族の超感覚が告げていた。間違いない。この女性は『天啓の巫女アニエス』その人だ!
そう感じた時、紫丸の膝は自然に落ち、頭は深く下げられていた。そして自分が大きな間違いをした事を理解したのだ。
「アリスを・・・私の娘をどうか助けて下さい。大自然の精霊と通じる貴方がた天狗の霊力に頼る他には、もうあの子を救う手立てがないのです」
はじめて聞くアフロディアの声は、深き山々を巡る風よりも清らかで、澄んだ水の流れの如く紫丸の心深くに染み渡った。
死んだはずの天啓の巫女が生きていた!
対外的には隠居し、今や魔王ですらなくなった自分には彼女を殺さなくてはならない理由はどこにも無い。それにしても、なんという運命のいたずらか?兼ねてより興味の対象であった『巫女』が、自から手元に舞い込んで来たのだ。高鳴る鼓動と、はやる気持ちを抑えながら、紫丸はアリスが回復するまでの滞在の自由と、貴重な霊丸薬を使った降霊術による高度な霊的治療を約束したのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「オイ、見ろよ。首領ってば今日もアフロディアさんにべったりだぜ。ありゃ完全にイカれちまってるよな?」
「まあ、気持ちは分かる。あれだけ綺麗な女性は天狗族にはいない。まるで女神様みたいじゃないか? この世のものとは思えない美しさだよ」
「確かにな。でも俺はシュジュさんの方が好みだ。派手さは無いが清楚な感じがグッと来る。何でも新婚ホヤホヤなのに旦那にはもう会えないんだとさ。戦死してんなら今がチャンスだぜ!」
「寂しさにツケこむってか? でも簡単にはいかんだろう。かなり身持ちが硬そうな真面目ちゃんタイプだぜ?」
「ナニナニ? 何の話してんの?」
若者三人が集まって話しているところに、鼻を腫らした先ほどの男が近寄って来た。全員若く筋骨隆々であるが、その男は少しだけぽっちゃりした体型で、力は強そうだが俊敏さにかける印象を受けた。
「こっちに来るなボンクラ! 今日だけで何回凛々さんにぶっ飛ばされてんだ? 天狗族の面汚しめ!」
一人が言うと他の者も頷き、あっちヘ行けと言った。
「だってさ、ああでもしないと凛々さんに触れないだろ? 痛い思いなんて何でもないよ。ボクはこれからもたくさん殴って貰えるように頑張るんだ!」
「なんだコイツ? わざとやってんの?」
「おまえ変態かよ。流石にキモいわ」
ここにいる者達は、遠くの村々から派遣された部族の代表者であり、二年間の修行を終えて故郷に戻れば次期村長候補となるエリート達だ。この『天狗の隠れ里』は聖地であると同時に修行場であり、本来は女人禁制だった。修行中の若者達が女性と触れ合う機会など、普段なら考えられない状況なのだ。
「あざといヤツだな。そうまでして凛々さんに触れたいのか?」
「当たり前じゃないか。見てみなよ、あの鍛え抜かれた美しい身体を! 無駄な肉ひとつ無い究極のプロポーションだよ。あの割れた腹筋を近くで見た事があるかい? あれは神の造形物だね。芸術だよ」
「ゲゲ、おまえ腹筋フェチか? 俺はやっぱりフワフワ柔かそうな子がいいな。アリスちゃんなんて、あと二年もしたら凄え美人になるぞ。ありゃ母親を軽く越えるな」
「オイそこの連中、インターバルは過ぎたぞ。だらだら喋くってサボってんじゃねぇ!」
凛々のよく通る鋭い声が、水飲み場の日陰にたむろっていた天狗の若者達に浴びせられた。三人はすぐに立ち上がりヘイヘイと広場中央に移動するが、ひとり残ってグスグスと動こうとしない者がいる。
「どうした? どこか具合でも悪いのか?」
それが何度も突き飛ばした例の若者だったので、もしかしたら何処か痛めたのかと心配して近寄る凛々に、ボンクラと言われた男は振り向くと「ふぃ〜、もう疲れたッス」と答えた。
「午後に入って最初のインターバルだぞ。若い奴がそんなスタミナでどうする? ダレてんじゃねえ! てめぇは後で特別メニューだ!」
そう言って凛々がお尻を蹴飛ばすと、ボンクラ天狗は尻を押さえて痛がりながらも仲間達に向かってブイサインを送っていた。
「全く・・・アイツの根性には脱帽だぜ」
今までただのボンクラと思われていた彼は、このあと根性のあるボンクラという意味で『コンクラ』というあだ名で呼ばれていたが、面倒くさいので最終的に『コラ』になった。
「盛況のようですな。微笑ましい事です」
若者たちの練習風景を眺めながら、隠れ里の首領朱天紫丸は先に見学に来ていたアフロディアに声を掛けた。
「アリスもあのように元気になり、こうして人前に出れるほどに回復いたしました。それもこれも朱天様のおかげです。貴重な霊丸薬まで処方して頂き本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
「いやいや。話も聞かずにいきなり襲い、あのような怖い目に合わせてしまった事ヘのせめてもの償いです。この程度では全く足りません。償い終るまでは滞在して頂かないと先祖の霊に申し訳が立たない。この老体のわがままだと思い、しばらくはゆっくりして行って下さい」
満面に笑顔を浮かべながら紫丸は言う。若者たちは怒ったような顔をした首領の姿しか知らないので、あの顔を見ると寒気がするとかなり不評だった。
「わがままなどと・・・それに、朱天様はまだお若いではありませんか? 素晴らしい覇気と鍛え抜かれた逞しいお体をお持ちです。とても魔王を引退なされたようには見えません。いっそ服役なされては如何でしょう? 空席も出来ました事ですし」
空席とは当然ラヴェイドの事だ。拉致事件の顛末を知らぬ紫丸に、アフロディアは全てを包み隠さず語って聞かせていた。
「その事につきましては本当に驚きました。ラヴェイド殿がご乱心なされ、無限牢獄に堕とされたとは・・・相手があの蛇王の術となれば、ラヴェイド殿とこちらの世界で会う事は不可能でしょう。心中お察し致します」
「いえ、全く気にしておりませんのでお気遣いなく。子供の頃に拉致され、無理矢理に妻にさせられたのです。親の仇でもありますし、こうして自由になれて心晴れやかな気分でさえあります」
そう言って微笑むアフロディアに少し驚きながら、ならばワシにもチャンスが?などと鼻の下を伸ばす朱天紫丸。若い衆が噂する通り、天狗族の象徴的リーダーであり不動の紫丸とまで言われた伝説の大豪傑も、アフロディアの美しい容姿と気高いオーラに心を奪われていた。事あるごとに話かけ、側に寄っていつまでも離れようとしない。
アフロディアの長女シュジュは、この老人の事をあまり良く思っていなかった。妹のアリスを治療してくれた事には感謝するが、だからと言って必要以上にベタベタして良い理由にはならない。新婚ホヤホヤという事もあり、彼女は結婚というものに自分の理想を重ねていたし、父と母の間には愛情があり、その末に自分が産まれたのだと信じたかった。
だから、父が帰らぬ者となって10日あまりしか経っていないのに、あからさまに情欲を向けてくる男とあのように笑顔で会話を交わす母に対しても同様に嫌悪感を抱くようになっていた。昨夜など、夜遅くまでふたりでいったい何をしていたのか?アフロディアが首領の屋敷から帰って来たのは、自分がとうに寝ていて当然の深夜だった。
体の関係を持っているなどと疑っている訳ではない。しかし、あのアダムとの激しい交わりを経てからというもの、母からはどこか今までとは違う雰囲気を感じていた。色気というか、妖艶さというか、そういった女の部分を強く感じてならないのだ。アリスが回復して安心してからは、益々そうした雰囲気が強くなっている気がする。母が母親から女に戻りつつあるような気がして、シュジュはとても強い不安を感じていた。
そういった不安を抱くのも、自分がどうしようもなく暇であるせいだ。アリスと凛々は若い衆の武術指導に忙しく、兄のリュオンは魔術を教える為に朝早くから遅くまで教壇に立って鞭をふるっている。魔術の実演も兼ねているので、疲れて帰って来るなりバタンと倒れ込むように寝てしまう日も多い。かと思えば、朝までアリスと難しい話をしながら本を広げて地図を前に書き物をしていたりもするし、新婚だから仕方ないが、シュジュの目を盗むように凛々さんと夫婦の営みに励んでいたりもする。
今朝などは、夜が明けぬ薄暗い時刻に尿意をもよおして厠に立つと、裏手にある納屋の方から押し殺すような女性の声がしたので覗いてみれば、兄が凛々さんを激しく後ろから攻め立てていた。
凛々さんはガサツで男ぽい感じがするから、“受け”より“攻め”のタイプだと思っていたけれど実は逆で、兄も優しくおとなしそうに見えてあの時になると別人のように雄々しかった。そんな二人を見つけたのは今朝だけではなかったけれど、はじめて見た時はショックだった。
小さな小学生くらいの時は「わたし大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになるの!」が口癖であり、10年ほど前までは本気で兄と結婚できるつもりでいた。今でも憧れの存在であり、自慢の兄だ。幼なじみのユタと結婚したのは、兄離れしなくてはならないと自分に言い聞かせての事でもあった。
だからと言って、夫を兄の代わりなどとは一度だって思った事はない。全くタイプも違うし、インテリでも地位がある訳でもないが、優しく真面目で、なにより体が丈夫で自分より長生きしそうだった。夫に先立たれ一人寂しく余生を送るなど絶対にイヤだった。だから、殺しても死ななそうなユタとの結婚に踏み切ったという感情も全くゼロとは言えない。
それが間違っていたとは思わないし、新婚生活も穏やかで毎日が幸せな気持ちになれた。このまま歳を重ね、孫に囲まれながら老いていくのが一番幸せだと普通の人が当たり前に描く普通の人生設計を立てていた。
アダムが召喚されるのがあと10年早いか、逆に遅ければ、実際にそうなっていたと思う。しかしアダムは来てしまった。自分が結婚し、さぁこれからだと言う時に現れ、彼女の人生設計を根底から破壊してしまった。
アリスの想い人『アダム』
この事はもう随分も前に妹の口から聞いていた。
アリスは産まれた時から普通ではなかった。三歳年下の妹は、自分が物心ついた時には既にスラスラと喋っていたように思う。自分が五歳の時の記憶だからアリスは二歳のはずだが、自分が字が読めるようになる前から大人が読むような難しい本を普通に読んでいたと記憶している。
はじめはお姉ちゃんの真似をしてただ眺めているだけだと思っていたが、学校の教材図書を朗読している時に間違っているところを指摘されたり、算数の宿題で分からないところを教えてくれたり、他にも習ってもいない知るはずもない事をなぜだかいろいろと知っていた。
当時の自分は面白がって、兄の部屋から高等魔術学概論の問題集を持ち出し、片っ端から問題を出したりして遊んだ。アリスはそれにスラスラと答え全て完璧に正解し、あまつさえ誤植による模範回答の不憫を指摘し直したりしたのだ。
妹は、天才などというレベルを遥かに超えた異常な存在だった。そんな妹の事を気持ち悪いと感じるようになったのは何歳の時からだろうか?学校の友達に妹の話をして、そんなのあり得ないと嘘つき呼ばわりされてからだろうか?いつの間にかアリスと距離を置くようになり、友達から妹の事を聞かれても適当にごまかして、無口で喋らない子だからよく分からないと答えるようになっていた。
しかしそれは全くの嘘だ。
アリスは良く喋る明るい子だった。今日はどんな本を読み、どんな事を知り、何に興味を持ったのか?学校から帰って来た自分を捕まえ、何時間でも話をする利発でよく笑う女の子だった。
アリスは皆が通うような普通の学校には行っていない。当時その理由など知らなかったが、毎日決まった時間にあやしげな迎えの人達が来てアリスをどこかヘ連れて行った。だから普通の学校がどんなところかを知りたがり、つまらないような話でもニコニコ笑って聞いていたりした。
そのアリスが喋る事をやめ、笑う事も無くなったきっかけとなったのは、学校の友達が家に遊びに来た時にアリスに興味を持ち、いろいろ話かけた時の事だった。
「この子は人見知りが激しくて、はじめての人は怖がって話さないわ。だからそんなふうに話し掛けたりしないで!」
姉の自分ですら気味が悪いと思いはじめていた頃だったので、友達の間で変な噂が立ち、おもしろ半分興味半分で話が大きくなるのが怖かった。ただでさえ第八妃の母のせいで学校では微妙な立場にあるのに、これ以上注目を集めたり話題にされたりするのが凄く嫌だった。その姉の気持ちを知ってか知らずか、アリスはその日を境に本当に喋らなくなった。いつもニコニコして可愛い笑顔を見せてくれていたのに、人前では決して笑顔を見せたりしない無表情な子供になった。
自分はなんて残酷な事をしてしまったのだろうか?その時まだ子どもで悪気などなかったとしても、アリスから笑顔とお喋りを奪ったのは姉である自分なのだ。
シュジュは“罪の意識”に苦しんだ。表情の消えた妹を抱きしめ、許して欲しいと涙を流しながら声をあげて泣いた事もある。それが6年前、自分が14歳でアリスが11歳のある日のことだ。そのときアリスはこう言った。泣き止まぬ自分の背中をポンポンと軽くあやすように叩きながら。
「これで良かったのよ姉様。噂が立たなかったおかげで私は注目されずに済んだ。本当の私が何であるかを政府機関にも父にも悟られずに来れた。これは姉様のおかげでもあるの。姉様のことは露ほども恨んだりしていない。逆に感謝しているくらいよ?」
「感謝? 何を言うのアリス! 私はあなたからお喋りと笑顔を奪った! 自分可愛さに友達の前で嘘をついたの。恨まれて当然だし、この罪は一生消える物じゃない。私はあなたにどうやって償って良いのか分からない・・・ おおアリス! 私の可愛いアリス! この愚かな姉に贖罪の機会を与えてちょうだい。あなたの為なら何でもすると誓うわ!」
感極まって泣き叫ぶシュジュに、アリスはまるで母親のように深く暖かい眼差しを向けて優しく言った。
「その必要はないわ。姉様は正しい事をしたのよ? それが分かる日はそれほど遠くない。140年の沈黙を破り“彼”がこの世界に召喚される。この世界だけでなく、全ての負の鎖を断ち切る“最後の希望”がこの世界にやって来る。でも彼には凄く困難な試練が待ち構えていて、とてもひとりでは使命を全うできない。彼には私の力が必要なのよ」
「あなたが何を言ってるのか私には分からない。最後の希望? 召喚と言うならアダムの事だと思うけど、それがどうしてあなたと関係して来るの? 次のアダムが海王様のところへ行くという事は誰もが知っている事なのに・・・」
「そうではないの姉様。アダムはこの国に来て私と契約を結ぶ。それは運命であり、誰にも変える事は出来ない既に決まっている未来なの。ただその運命に、兄も母も姉様までも巻き込んでしまうのが私は辛い。特に普通の人である姉様には堪え難い生活を送らせてしまう事になりそうで、私はとても心配なの・・・」
「アリス、あなたに見えていることは私には分からないし、理解できそうにない。あなたが何を心配し、何に心を割いているのか分からない。教えてちょうだいアリス。未来のあなたは幸せになれるの? 昔のように笑い、昔のようにお喋りする事が出来るの? こんな私には幸せになる資格はない。でも、あなたにはどうしても幸せになって欲しいの」
「安心して姉様。私は幸せになれる。これ以上ないほどの幸せを手にする事が出来るの。運命のひとと結ばれ、たくさんの子どもを産み、それが未来永劫永遠に続くのよ? 前世からの約束をやっと果たす事が出来るの。私ほどの幸せ者は他に見つける事が出来ないでしょう。全ての女神から妬まれてしまわないかと今から心配しているほどなの」
「なんか凄いけど、それは本当のこと?」
「ええ、本当よ」
「間違いなく?」
「間違いなく。それはもう確定した未来なの」
「よく分からないけど、凄い自信ね?」
シュジュは泣き腫らした目に笑みを浮かべ、この不思議な妹にどこまでもついて行こうと心に決めた。この先どんな運命が待っていようと、この子の笑顔が側で見られるならそれでいい。そう思ったのだ。
天狗の隠れ里での滞在が許され、回復したアリスはよく笑うようになった。アダムが現れて、予言した通り契約を交わしてからのアリスは本当に別人かと思うほどに明るくなった。
兄も変わった。今までにも増して精力的に動き、新しい目標に向けて着々と準備を進めている様子だった。そしてあの厳粛な母までもが変わり、しかしその変化には悲観的な印象しか持てないでいる自分がいる。母が何を考えているのかが分からない。悪い方へと変わってしまう印象しか持てなかった。
皆が変わって行く。自分も変わるべきなのだろうか?そうは思っても、何をどうすべきか見当もつかない。そんな悶々とした日々を過す中、兄と凛々さんの情事を見せられて夫との夜を思い出す自分。やる事もなく、何の目標もない為にそんな事ばかりが頭に浮び、寂しく自分を慰めている自身が酷く情けなく惨めだった。
男を知り快楽を知ってしまった肉体は、はしたないと思いながらもソレをとめる事が出来ない。昨夜も、寝ていなければならない時間に起きていたのはそういう訳なのだ。
「何もかも、暇なのがいけないんだわ! 何でもいいから早くやるべき事を見つけなきゃ」
そう呟きながら村を歩いていると、いつの間にか村外れにある湯場にまで来てしまっていた。産まれ育った土地にも温泉があった。王である父ラヴェイドの特権で、自分はいつでも自由に湯場を使う事が出来た。この天狗の秘境にも温泉があると分かった時は心から喜んだものだ。
「やる事もないし、温泉にでも入ろうかな? お湯に浸かってればいいアイディアが浮かぶかも知れない」
シュジュは湯場に先客が居ないかを確かめた。ここには女湯や男湯という区別はない。自分の国では観光用の湯場では男女を分けていた。無用なトラブルを避ける為であったが、それは一般開放されている湯場に限ってであり、王家の使う温泉は当然ながら混浴の家族風呂だった。兄も温泉が好きで、つい三年前までは一緒に入ったりもしていた。
「誰かいますかぁ〜?」
湯気が濃いので奥の方はここからでは見えない。格闘家でもないシュジュには気配を察する能力など無いし、視力も普通の一般人レベルだった。兎族だから聴覚はそれなりに優れているが、奥で流れ落ちる源泉の音が反響する湯気の中で細かい音を聞き分ける程に飛び抜けて優秀という程でもない。
「どなたかいらっしゃいますか〜?」
返事がない事を確かめたあと衣服を脱いで岩の陰に置き、シュジュはゆっくりと湯に脚を入れた。かなり熱い。自国の温泉は、寒冷地であるせいかそれほど高い温度の湯は出ない。魔法で熱を加え温めないと使えない源泉もある。
この天狗の隠れ里にある温泉は、シュジュにとってかなり熱いと感じる温度だった。時間をかけて慣れれば大丈夫だが、注意しないとのぼせてしまいそうだ。少しづつ体を沈め、2分ほどもかけて肩まで浸かると思わず声が出た。
「ああぁ、気持ちイイーっ!」
温泉は好きだ。こうして何も考えずお湯に身を任せていると、僅か10日の間に起きたあの出来事がまるで夢のように感じられる。アダムが来ていると知らされ、アダムの子を孕むようにと集められた女子の中に、自分とアリス、それに母親のアフロディアまで入っていた。半年前に結婚したばかりで夫の子ですらまだなのに、当日の朝になり突然に命令が下されたのだ。
奥座敷にある奥衆の部屋に集められた女性達の中にはどう見ても未経験の子も混じっており、学校の同級生や後輩の姿もあった。確実に妊娠するための薬を渡すので、作戦開始の一時間前になったら服用するようにと言われた。
今作戦の責任者は第一妃の麗々様で、なんと本人も作戦に同席して一番にアダムと交わり受精を果すという。第一妃だけでなく、他にも普通では考えられないほど高位の妃様方が作戦に加わっていて、一昨年前に嫁いだはずの凛々様と爛々様までもが、この日の為に離婚してまで準備する念の入れようには驚きを通り越して呆れるばかりだった。
この国はいったいどうなってしまうんだろうか?シュジュはそう思った。狂気の沙汰としか思えぬ作戦に誰も反対しようとしない。そればかりか、アダムの遺伝子が貰える事に興奮ぎみの妃達は、ひとりやふたりどころの数でなかった。
薬を飲む気などはじめからなかったシュジュは、飲んだふりをしてやり過ごそうと考えていた。夫以外の子どもを孕む気など毛頭ない。だがそれは出来なかった。麗々様自らが一人一人に手渡した薬を、皆が見ている前で飲み干さねばならない状況をつくられてしまった。その薬は強力な媚薬でもあったらしく、効果が現れた頃には皆の目付きが妖しく変わっていた。発情した雌の匂いを強烈に放ち欲情していたのだ。
その中で平気なのはアリスと自分だけだった。薬を飲まされたあと、アリスが胃の辺りに手を触れると手には胃の中で溶ける前の状態の少しふやけた丸薬が握られていた。すぐどこかに飛ばしてしまったみたいで、見えたのは一瞬だったけれど、自分はアリスのおかげで発情しなくて済んだのだ。
アリスの能力は本当に凄いものだった。何がどう凄いのか全てを説明できないが、胃の中から丸薬を排除した方法一つにしても普通ではなかった。
アリスは魔法を使う時も詠唱したりしない。詠唱破棄という高等技術を使って、3章節から4章節ある長い呪文をひとことに圧縮した上、ある約束事を付加することで汎用性まで確保していた。丸薬を取り出した時に小さく呟いた言葉、それは『来い』と『ポイ』だけだ。魔法陣は現実空間では展開せず、アリスの内側にある仮想現実世界で展開しているという。
シュジュには全く理解できない事だが、アリスは自分という存在の内側にもうひとつの世界を創ってしまえるらしい。ただの空想や夢と違うのは、そこで体験した事や覚えた技術を現実世界に持ち込めるという事だ。つまりはアリスは、自分が自由に設定できる理想の世界で、現実世界の法則に縛られずに行動でき、その経験値全てを持ち帰る事が出来るのである。
その能力がどれほどに異質で、飛び抜けて特別なスキルであるかをシュジュは身を持って体験して知っている。6年前の泣いて許しを求めたあの日、どうしても償いたいと言う自分を連れてアリスは仮想現実世界に招待してくれた。
アリスの理想なのか、その世界には白く可愛らしい家と花や野菜などが栽培された小さな畑があった。家の中はたくさんの小部屋があり、外見と部屋の中の面積がつり合っていなかった。中には研究室のような部屋もあり、見た事もない機材が所狭しと置かれて、不思議な匂いと音を出しながらガチャガチャと勝手に動いていた。
そうした中にベッドが中央に置かれた手術室のような部屋があり、アリスはそこで簡単な手術を受けて欲しいと言った。脳の中にアリスの細胞から培養した小さなメダルほどの大きさの円盤のような物質を埋め込むと言うのだ。
シュジュははじめて見る手術室の機材やその雰囲気に不安と恐怖を感じたが、アリスが痛みもないし命の危険はないと言うので信用して手術を受ける事を承諾した。
手術はあっと言う間に終わり、続いて埋め込んだ細胞との間にリンクを繋げる訓練がはじまった。これはかなりの時間が掛かり、その仮想現実世界に少なくとも10日は滞在していたと思う。しかし現実世界に戻ると1分も経っていなかった。まるで狐に抓まれたみたいな気分だったが、シュジュは仮想現実世界から帰還した時から超能力者になっていた。
国の正規機関による適正検査でも、特殊能力なし、魔法の才能なし、これと言って特出すべき点は何もないと判断されたシュジュが、特Aランクの予知能力者になっていたのだ。
元々ない才能が突然開花するという事は絶対に無い。魔法にしても体術にしても、産まれながらに素質がある者がそれを発現させる環境で育てられてはじめて開花するのであり、ゼロはどれだけ時が過ぎようとゼロのままだ。
国の最高教育機関のお嬢様学校に通うシュジュは、親の七光りで入学できたと言われ続けていた。そのシュジュが一夜にして超能力に目覚め、能力開発調査局に特Aランクとして登録されたのだ。それは兄のリュオンにとっても驚くべき事だったが、信じられないと言いながらも手放しで喜んでくれた。
アリスの予知を夢で受信するだけの偽物予言者だったけれど、兄の喜ぶ顔が見れた事と、アリスの隠れ蓑となり代わりに注目を集める事はシュジュに喜びを与え、自分の存在価値をそこに見出す事ができた。
「アリスは・・・今も続けてるのかなぁ?」
湯あたりしそうになり、少し体を冷ます為に湯から上がったシュジュは、里の若者達に指導するアリスの姿を思い浮かべながらそう呟いた。
今も続けているとは、仮想現実世界でアリスが進めていた研究と、絶え間なく続けられている魔法や幻術などの訓練の事を指している。
アリスは確かに天才で、有りとあらゆる知識を持ち、凄い数の魔法や幻術を兄のリュオンよりもたくさん知っている。一度見た事は絶対に忘れず、どんな魔法も幻術も完璧に再現してしまう。そう見えるし、事実そうなのだけど、誰にも知られる事のない仮想現実世界という特殊空間で訓練し、誰にも知られる事なく努力を続けているのだ。
出来るようになるまでは決して現実世界には戻らない。それが何年掛かろうと決して諦めず、必要と思えば絶対に身につけるまで努力を止めない。
アリスは何でも出来ちゃう天才少女ではなく、何でも出来るようになるまで諦めない不屈の努力家なのだ。天才であり努力の達人でもある彼女は、既に何十年に該当する年月を仮想現実世界で過ごしていた。たったひとりきりで、運命の男性の役に立つその時の為に黙々と努力を続けて来たのだ。
なんという一途な愛だろうか?
まだ会ってさえもいない男の為にひたすら努力し、本当にそうなるか分からないのに技術を磨く。シュジュには到底理解できず、また真似など不可能な事だった。
だが、それは現実の事となりアダムはアリスを愛した。彼女が瀕死の状態になった時、あれほどに取り乱し必死になっていた。シュジュは妹の努力が報われた瞬間をこの目で見た。そしてアリスは今、彼を支援する為の秘密組織を作ろうと里の若者達を指導している。しかも教えているのは猿王拳の基本体術なのだ。
猿王の技を見た事がある首領朱天紫丸はアリスが教えようとしている拳法が本物だと知ると、彼女を格闘術の特別顧問に任命してしまった。凛々さんはアリス付きの専属補佐官として軍事的地位まで与えられる始末だ。なんて図々しいジジイだろうかとシュジュは思ったが、お互いに利用し合う関係が一番良いと、兄のリュオンも自ら買って出て魔術の指導をしている。
隠居の身の紫丸は、国の政や外交などは二人の息子を立て全てを任せているらしいが、実質的な支配権はまだ握っていると聞いている。この隠れ里は天狗族発生の地と云われる聖地らしいが、この地の首領が一族全てのリーダーとなるのは大昔からの慣わしで、国土としての領地とは別格視されていた。
この里にいる者たちは体格の大きな大天狗達ばかりであるが、小天狗、烏天狗、鞍馬天狗、鬼天狗と、他にも天狗族はたくさんいて、全部族を集めればシュジュたち幻惑兎の国よりも遥かに大きな領地と領民を有している。深き森に囲まれた未開の地のような場所に住んでいるように見えるが実はそうではなく、天狗の国には独自の文化が自然と溶けあいながら存在している。
大自然と共に暮らし、多くの精霊たちと交信することで絶大な霊力を発揮する天狗族。その歴史はたいへん古く、秘密とされ公表されていない技術も山ほどあるという。基本的に彼らは他の種族と深く交わらない。だから生き残って来れたのだろうとシュジュは思った。こうして聖地である『隠れ里』に滞在が許され、何の制約もなく自由にさせて貰えるなど本来あり得ない事だ。知識に乏しいシュジュにさえ充分すぎる程に理解できる。
囚われたあの日、廊から出され2時間ほどして戻って来た母は、首領の朱天紫丸というひときわ大きな身体を持つ大天狗を後に連れていた。母がどんな交渉をしたのか知らないが、それから天狗達の態度は一変し、まるで国賓扱いの最大限のおもてなしを受けた。
この隠れ里に来客などあり得無い事なので、もちろん里には宿など存在せず、今の住家は若者達が一晩で拵えた地上に造った家だ。天狗族は普通、木の上に棲家を造る。地上にあるのは神事に使う建物だけで、神殿を含む敷地に木造の屋敷が建てられいて首領はそこに住んでいる。もちろん敷地内は聖地の中でも特別な力場であり、部外者が入る事など絶対にあっては成らないと厳重な警備がされていた。だが、母だけは例外的に敷地内に入る事を許されている。
どうしてお母様だけが?
屋敷の中で何をしているのかシュジュは知らない。母に聞いても教えてくれなかった。自分には話せないような事をしているのだろうか?
「心配しなくても大丈夫よ。あなたはあなたの道を見付けなさい」
母はそう言うが、自分の道とは何なのかシュジュには分からない。国を出てからアリスの隠れ蓑を演じるという役目も必要なくなり、この10日間というもの夢でアリスとの交信もない。自分はいま宙に浮かんだ何の価値もない存在だと強い無力感を感じている。
「あなたはあなたの道をって言うけどさぁ〜。私には何の取り柄もないし、この先どうしていいかなんて分からないよぉ〜」
のんびり湯に浸かり、のぼせそうになっては岩に腰掛け涼むを繰り返しながら時が流れて行く。気が付けば湯場に来てから二時間以上が過ぎていた。ときおり霧の晴れ間から日の光が差すものの、この地は基本的に外界から隔絶された秘境で、標高も高く空気も薄い。空気の薄い土地で体温を急に上げると意識が途切れてしまいそうになる。温泉に入るにも注意が必要だった。
「そろそろ上がろうかな? 戻らないとアリスが心配するかも知れないし」
ひとりそう呟いて湯から出ようとしたその時だ。下の方から湯場に向う道を上がって来る大勢の声がした。
「え!? もうそんな時間?」
シュジュは慌てた。夕刻になると訓練を終えた若者達がこの湯場を使う事を知っていたからだ。だから、その前には帰るつもりでいたのに、ぼんやりといろいろ思いを巡らせ考えているうちに訓練が終わる時間を過ぎていた事に気づいていなかった。霧のせいで太陽がぼんやりとしか見えず、時刻が正確に分からなかった事もあるがウッカリしていた彼女のミスだ。
「いやぁ〜、今日の修行もキツかったなぁ〜。マジで筋肉痛だぜ! 明日の朝起きれるかなぁ〜?」
「お前なんかマシな方だろ? 俺なんて教官自らの組手の相手でよう、マジで死ぬかと思ったぜ! 凛々さんって容赦ないって言うか完全にSだよな。鬼だぜ鬼!」
「だよな!痛め付けて転がした後のあの顔。悦に入って笑ってる姿には寒気がするぜ。起こしてやるって手を出して、俺を引っ張るなり急所に三連打。マジで呼吸止まったぜ! 死んだばあちゃんが向こう岸に見えたもんな」
「ひぇぇ、やめてくれよ。俺は明日、凛々さんの相手をする事になってんだぜ! 脅しっこ無しにしてくれ!」
「脅しじゃねぇよ。マジだ、マジ! 幻惑兎の女性ってあんなに強いのかって、今までの考えが甘かったのを痛感したぜ。ありゃ完全にバケモンだ。種の限界を超えちまってるよ」
何人いるのか正確には分からなかったが、少なくとも五人は居る様子だった。もうすぐ側まで来ていて、今からでは服を脱いだ岩場まで裸を見られずに移動するのは無理だ。シュジュはどうしようか迷ったが、湯けむりが濃い源泉が落ちて来ている滝のある場所に身を隠す事にした。彼らが長湯などしないで汗を流してすぐ湯から上がることを祈りながら。
「いや。あのひとが特別なんだろうさ。なんでも、教官たち手練衆も一撃でやられたらしいぜ? 本当は剣士らしいよ、あのひと」
「剣士? そりゃ珍しいな。魔法や呪術による『廃刀術』が一般的になってからは、剣士って職業はかなり減ったって聞いたぜ? 時代は無手格闘術か魔法闘技だろう?」
「俺達の国じゃそうだけどな。他国じゃまだ剣士もいるんだろうさ」
天狗の若者たちは胴着を思い思いの場所に脱ぎ捨てると、いきなり湯にザバザバと入って来る。感覚が違うのか、熱がる様子は全くない。それにしてもなんという筋肉量なのだろうか?若いせいもあるだろうが、皮膚を突き破らんばかりに隆起した筋肉が脈動している。練習で乳酸が溜まりパンプアップしているので、朝方見た身体つきより一回りは大きく見えた。
「おめえ達は知らないようだから教えてやるよ。凛々教官が持ってる刀は金属製じゃないんだ。なんと『呪刀』なのさ」
「呪刀? あの同族の躰から造るって言うアレか?」
「そうそう。今や禁止された技術だが、霊格の高い者の躰を生きたまま刀にしちまうって言うアレ。やられた手練衆がそう言ってんだから本当だろうさ。じゃなきゃ、あの結界の中で剣なんか使えるかよ」
「なるほど。確かにそうだ。教官がときおり見せる狂気めいた表情は呪いのせいか・・・全く恐ろしいぜ。呪われし女教官凛々・・・こりゃ近いうちに犠牲者が出るかも知れんな。明日あたりにさ」
「ひえぇぇ! だからヤメテくれって! 俺は明日凛々教官とだなぁ〜」
怯える彼をからかって、更に凛々に対する憶測を重ねる若者たち。シュジュに事の真相は分からないが、凛々さんが呪われているなどという事実はないと思っている。呪われているのなら兄が放っておくはずがない。兄は『呪い』に関してもかなり高い知識があり、妻を呪われた状態のままにしておくなど考えられないからだ。
それにここにはアリスもいる。妹が側についていて凛々さんが『呪い』で正気を失って暴走するなど100%無いと言い切れた。『呪刀』の事が事実だとしても、その呪いは既に克服されていると考えて間違いない。
そんな事よりも、シュジュは今かなり危険な状態にあった。源泉の滝が流れ落ちるこの辺りはかなり温度が高く、熱い湯に不慣れな彼女には長い時間ここに留まるには無理があった。裸を見られたくなくて咄嗟に隠れたが、その選択は失敗だったと後悔が走る。意識が朦朧として頭がぼんやりとして来た。気絶でもしたら溺れて死ぬか、溺れなくても高温のお湯に漬かったまま放置されたら命が危ない。
シュジュは背に腹は変えられぬと、若者たちに裸を晒してしまうのを覚悟してこの場から離れようとした。
えっーーー!?
か、体が動かない?
「た、助けて!・・・お願い・・・私・・・」
四肢に力が入らない。頑張っても小さくかすれた声が出ただけで、滝の音にかき消され声は天狗の若者たちには届いていない様子だ。
ーーーアリス・・・お兄さま・・・
薄れていく意識の中でシュジュが最後に思い浮かべたのは、愛する夫の姿ではなく兄のリュオンの笑顔だった。




