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蛇神の聖域【11】孫悟空の闘い (その弐)

挿絵(By みてみん)

 イラスト:若かりし孫悟空


 ハヌマーンはヒンドゥー神話における智慧と闘いの神ですが、日本神話では猿田彦(サルタヒコ)の名で知られ、古事記には珍しく容姿などが詳しく記載されています。伊勢の猿田彦神社は交通安全の神様としても有名ですね。

 猿田彦は、地神五代ちじんごだいである瓊瓊杵尊(ニギノミコト)が降臨されたとき、地上を案内した神として知られ、行き先を照らす導きの神として信仰されています。だから交通安全の神様。


 ちなみに、地神五代とは日本神話において天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊の五柱の神々およびそれらの神々の時代(神代)のことを指し、天神七代と人皇の間に位置します。



********************************************

 【孫悟空の闘い】 (その弐)




「お前を殺しに来たのだ。孫悟空」


 タケミカヅチが不敵な笑みを浮かべ、言い放った。


 燃え盛る炎が、それに呼応するかのように勢いを増し、熱により巻き起こる上昇気流がハヌマンの村の周囲にある森の樹木を激しく揺らした。炎は村から森へと燃え移り、一刻も早く鎮火しなければ取り返しがつかないほどの甚大な被害を及ぼし兼ねない状態になっていた。


 炎がおさまってから村人が解放されたとしても、家と田畑と全ての財を焼き尽くされ生活の手段を失なった民が、この地に留まり生活して行く事はもう不可能であろう。それほど壊滅的状況である事は間違いのない事実であった。


「おめぇの目的がオラの命なら、他のモンは関係ネェだろ。早く村人達を解放しろ!この勢いじゃ、ここいら一帯が火の海になるまでにそんな時間はねぇ!」


 孫悟空は、もはやこの村が回復不可能な程にダメージを負った事が分かると、せめて少しでも財を回収し逃げることに希望を繋げるようと思った。生きてさえいれば、どこに住処を移そうと何とかなると思いたかった。


「ククク、先程から村人を解放しろだの家族を返せなどと言っているが、そんな事が出来る筈もあるまい」


「なんだと? それはどういう意味だ!?」


「お前は、我には罪なき者を殺せぬ理由があるから、村人もお前の家族も生きてどこかに囚われ、存在していると思っている」


「当たり前ぇだろ。神が理不尽に殺人なんかしたら『禍つ堕ち』する。上位神であればあるほど確実にな。超神となればなおさらだ!」


 孫悟空はそう言ってタケミカヅチを睨み付けた。


「その通りだ。だから戦をするなら必ず大義名分が必要となる。だが、それが罪人相手なら話は別だ。禍神同様処分されるに充分な理由であり、抵抗すればその場で始末されたとしても仕方のない事だ」


「なんだと!?」


「まだ分からぬか? 村人は全て殺したと言ったのだ」


「き、きさまぁぁ!!」


 孫悟空の氣が怒りにまかせ爆発的に上がる。


「おっと、全員ではなかったな。お前の妻と子供だけは生かしてある。ほれ、この中だ」


 タケミカヅチは羽織の胸に手を入れ、じゃらりと大きな数珠を取り出した。ひとつひとつが鶏の卵ほどある透明な石を繋いだ特別製の数珠だ。それが何であるか、孫悟空は知っていた。修行の旅の前に天帝より与えられた清めの神珠『魂破珠(タマハタマ)』である。禍神を捕らえ、封じて退治する事が出来る極上の神器だった。


「この数珠の効果を知っているな。ならば余り時間がない事も解るだろう?」


魂破珠(タマハタマ)』は、旅の道中に滅する事が困難なほど強力な禍神まがつがみが現れた時、それを持ち帰り浄化を行う目的でイザサギ神の力によって造られたものだ。


 封じられた禍神は珠に込めらた神力によって活力を奪われ、弱いものであれば数時間で浄化し、二度と復活できぬように存在力ごと消滅させてしまう程の力を持っている。では、禍神以外のモノを封じ込めたならどうなるのか?


 結果は同じであった。

捕らえる事を目的にしているが、それはあくまで強大な(マガツ)を対象としており、禍神の中には善悪にはかかわりもなく存在するだけで周囲に破滅の現象を与えるモノもいるので、罪の有無に関係なく作用した。


 タケミカヅチが掲げた数珠の一つ一つに人影が見えた。それは孫悟空が愛する妻と子供たちの姿であり、小さき三つ子以外の者は、各々ひとつの珠に封じられていた。


「封じて間もなく一時間となる。この意味が分かるな? 幼児ひとりではすぐ消滅してしまいそうだったから一つに纏めたが、それでも一番早く消えそうだ」


 数珠の中で弱っていく幼子の様子を眺めながら、タケミカヅチは楽しげに笑みを浮かべ横目で悟空を見た。その瞳には一欠片の情もなく、苦しみ助けを叫ぶ子供たちが徐々に存在力を無くして霞のように薄れて行くのを心の底から楽しんでいるように見えた。


「タケミカヅチィィィ!

罪もない子供たちにまで、よくもそんな酷い事を!」


 唇を噛み締め、端から血を滲ませながら孫悟空は叫んだ。タケミカヅチの手に数珠が握られている限り、下手に手を出すわけには行かない。溢れ出す怒りを必死に抑えながら、前に立つ、かつての弟子であり、友であった男の顔を鬼の形相で睨み付けた。


「罪がないだと? 罪ならある。大アリだ!!

お前達ハヌマンは、重大かつ赦されぬ罪を負った大罪人。我はその罪を浄化し、秩序を取り戻す為にここに来たのよ」


「何を言ってる! お前ぇの兵を懲らしめた時の事を言っているなら、あれは既に充分過ぎる対価を払ったはずだ。オラ達は領地を棄て、皆バラバラになって辺境の荒れた地に移り住んだ。オラ一人が罪を受ければそれで良かったのに、皆、な〜んも文句ひとつ言わねぇでついて来てくれた。それでも足んねぇとは言わせねぇぞ!土地神であるハヌマンが信仰地を捨てる事の意味が分からない筈はネェだろ!」


 土地神がその守護する土地を手放す。それは、神である事を捨てるに等しく、信仰の霊気を受けとる事が出来なければ、土地神はやがて衰退し、移り住んだ土地が栄えぬ場合はそのまま消滅してしまう危険すらある。事実上、何の加護も住処も持たぬ虚ろ神と同等の立場になってしまうという事なのだ。


「我とて、そんな昔の事など今さら持ち出したりはせん」


「なら何だ!? オラ達は何もしてねぇぞ」


「信仰だよ。孫悟空」


「―――?」


「あの一件がなく、お前達ハヌマンの存在に誰も注目しなければ問題にもならなかった。だが、貴様はその異常なまでに突出した戦闘力を素直に示し過ぎたのだ。土地神の獣神が持つには余りにも強大で、理解不可能な特殊な力をな」


「何の話だ?」


「いくら一族の中で英雄神と讃えられ、真祖神の生まれ変わりと崇められようが、所詮、土地神は土地神だと取るに足らぬと思っていた神々も、あの一件で大きな疑問を持った。バランス的にそれは、この三神界では有り得ぬ力ではないかとな」


「――――?」


「世の関心事は、お前達ハヌマン神の起源に向いた。そして知ってしまったのだ。お前達ハヌマンがとんでもない信仰を持った神族であり、その信仰が事実なら、この世の理そのものが覆る恐ろしき教えであるとな」


「言ってる意味が分からねぇ。どんな信仰だろうと、それで世がひっくり返るなんてことがある訳ねぇだろ!」


「それがそうでもないのだ。そうでなければ、こうして軍が動くはずもなかろう? もしやお前は、真祖神の生まれ変わりなどと呼ばれながら信仰の内容を知らんのか?」


「知らん!」


 孫悟空がそう答えると、タケミカヅチは驚き呆れる表情を見せた後、さも楽しそうに大声で笑った。隙あらば数珠を奪おうと構えていた悟空も驚き、そのタイミングを逃すほどに大声で。


「はははぁ〜、これは驚いた!

傑作だぞ、孫悟空! お前らしいと言えばその通りだが、まさか本当に知らんとはな。いいだろう。我が教えてやろうではないか」


 そしてタケミカヅチは、彼が知り得たハヌマンの信仰についてを語り出した。



―――ハヌマン神話『ヤマルの書』より


 大地は荒れ果て、混沌の闇に包まれた『審判の日』よりそれは始まる。神が去った滅びゆく世界で全ての生命は脅え苦しみ、死を待つだけの日々に絶望して、安らかな死を望む者が増えていった。しかし、それでも救いを求め神に祈る者は絶えなかった。それまでの信仰が、神は民を見捨てぬと説いていたからだ。


 どれ程の月日が流れ、どれ程の種族が滅んだ事だろうか?民の祈りは届かず、神の名を幾度叫べど応えはなかった。神の加護は完全に消え去ったのだと知り、もう滅びを受け入れようかと皆が思った。


 そんな時、遥か高次の神界よりひとりの大神が舞い降りた。天と地の境目が分からぬほど荒れ果て上下すら定まらぬ世界を、汚泥と洪水、熱と冷気が交互に襲い、生命という生命を根こそぎ滅ぼす大量絶滅の最中、あふれる禍神の大群によって全てが破壊され無に帰さんとするその世界に、光り輝く最後にして最強の御光が現れたのだ。


 その大神は、知恵ある者の命と全ての生命の種子を護る為、身を萬に裂いて弱き者たちに神力を与えた。永劫と思われた長き闘いのすえ、禍神と穢れ全てを滅ぼした祖の大神は、力を使い果たし御霊石となって死んでしまった。


 大神より力を授かりし者達は知恵ある者の神となり、ある者は人里離れ、ある者は人と交わりひとつとなった。やがて安定をもたらす高天津(たかあまつ)のツガイ神が現れ、新しき神を次々と産み出して行く。


 祖の大神が死んでしまい、混沌たる時代へと戻るのではないかと心配していた知恵ある民は、新しき神が安定と秩序をもたらしてくれる事に感謝し、敬い奉った。それぞれの代表が貢物を手に、美しく優しそうな女神伊邪那美に挨拶に行く。


 伊邪那美イザナミは、先程まで混沌と定まらぬ場所であった大地に、既に知恵ある者や多くの生物がいた事に驚いたが、慈悲深く物事に執着する事のない穏和で穏やかな、まこと産みの神に相応しき春風のような女神様であったので、どうしてここに居るのかなど追求される事なく祝福を下さった。


 新しき神も古き神も、ときの流れと共に交わり基礎が出来上がると、神の世(神代)は祖の神が繋ぎ止めてくれた様々な命の種子を育み、大きく発展を遂げて今の姿となった。


『生命の光』強ければ影もまた強くなり、やがて禍神を生むだろう。しかし、禍つが再び世に満ちるとき、祖の神は御霊石より蘇り、全ての闇と魔を討ち祓い、三神大代の世に永遠不滅の光をもたらす希望の御柱となるだろう。


 その神の名は『ヤマル・マ・ハヌマーン』

 真の守護者にして、真祖斉天大聖猿王尊そのひとである。


 ――――と、



「その伝承と『罪』が何の関係がある!?」


 悟空はタケミカヅチの口からハヌマン信仰の基となった伝承を聞いたが、そんなもので軍が動く理由になるものかと言い放った。


「まだ、分からんのか? 三神界が父イザナキと母イザナミが創った世界ではなく、どこかの神が見捨てて荒れ果てた地を再建して創った神界であり、その生態系ですら真祖神が護り残したものを引き継いだに過ぎぬとハヌマン伝承は説いている。極めつけは祖の神が蘇り、希望の御柱となるという下りだ。これが最高神、伊邪那岐命への冒涜でなくて何だと言うのだ? この世の全てを創造せし超上の神の御技を根低から否定したのだぞ!」


「仮に、何もなかったところに創った世界じゃなくても、この三神界は天帝様が創った事に変わりねぇ。弱き者が虐げられる事なく、皆が幸せに暮らせる世界ならそれでいいじゃねぇか。どちらが先か後かなんか関係ねぇと思うが、そんな事で軍が動いたのか!?」


「貴様と話しても平行線だな。価値観の相違というやつだ。今やハヌマン伝承の真祖神こそが真の護り手だと言う者まで出て来ておる。その教えが神聖化され、信仰が力を持てば、祖の神の生まれ変わりと崇められるお前に力が集まって来る。望もうとそうでなかろうと関係なくな。今のお前は危険極まりない存在なのだ。だから排除することにした。天照大神もそれを認めたのだ」


 タケミカヅチは、片手に数珠を握ったまま刀の柄に力を込めた。冷たく光る刀身がそれに応じ存在力を増して行くのが分かる。


「オラが危険だって? オラは平和が好きだ。皆が笑って幸せに暮らせる世界なら闘う理由もない。オラが危険だなんて事は絶対ねぇ!」


「ならば、それを証明してみせよ。お前が危険でないと証明できたなら家族を返してやろう」


「ああ、いいさ! 証明してやるとも。

そのかわり家族だけじゃねぇ。殺した村の皆も復活させて貰うぞ。アマテラス様ならそれが出来るはずだ!」


 悟空はそう言うと、左手で右の二の腕をぐっと握り「ふん!」と勢いよく一気に引きちぎった。飛び散る鮮血が一瞬で止まる。筋肉を絞め、流血を止めたのだ。


「ほう?右腕を差し出すか」


「右腕の価値はおめえが決めろ! だが、決して安くはねぇはずだ!」


「確かにな。たとえ10億の軍勢と引き替えにしてもつり合う価値がある。だが、天帝の威光と比べるにはいささか足らぬな」


「―――ぐっ」


「よし、ではこうしよう。

村人と同じ数だけ斬撃に耐えるのだ。我が軍の猛者からの攻めに耐え、膝を折らずに最後まで立っている事が出来たなら、村人とお前の家族を返してやろう。途中でお前が死んだ場合は、もちろんお前の家族も皆殺しだ」


 タケミカヅチはそう言うと、後方に控えていた小柄で女のような容姿の男に「村人は何人であったか?」と訪ねた。


「はっ、28世帯、877名です。

孫悟空とその家族を含めると全部で891名。それが今朝がた調べた数と報告されています」


「世帯数のわりに随分と多いな」


「はい。ハヌマンは大家族制ですので、親類縁者も共に住まうゆえ」


「そうか。人選は把倶羅(ハグラ)、お前に任す。支度せい」


 把倶羅(ハグラ)と呼ばれた男が、屈強の武神達に命令を下す。名を呼ばれた者が隊列から進み出ると恭しく頭を下げたところを見ると、かなり高い身分なのだろう。このとき孫悟空は知らなかったが、彼は櫛名田(クシナダ)の家から来た軍師であり、姉の阿美羅(アビラ)はタケミカヅチの妻であった。


 (クシ)とは古来より呪術的意味合いを持つ言葉であり、神霊術におけるの力の象徴でもある。櫛名田家はその名の通り、強力な神霊力を持つ者を代々産出し、天帝に仕えて来た名家であった。


 把倶羅に名を呼ばれた武神達が悟空の前に並び立つ。その数は総勢890名。立派な甲冑を身につけた大きく体格のよい武神達は、把具羅の「はじめよ」の声と共に一斉に抜刀し、ひとりが一振りづつ悟空に向かい己が自慢の神剣を叩きつけた。


 しかし・・・


 キンッ!と硬い音を立て刃が跳ね返り、カスリ傷程度のダメージしか与える事が出来なかった。だが、彼らとて馬鹿ではない。先の者が付けた傷と同じ場所に剣を打ち降ろし、200名を越えた辺りから悟空の体から血しぶきが上がりはじめた。


 そして600名に届くころ、悟空はその姿を徐々に変え、大きくえぐり取られた傷口から大量の血が吹き上がって地面を濡らした。それでも呻き声ひとつ上げず前を睨む悟空の凄まじき闘気に、群神は畏れを感じざわめき出した。統制のとれたタケミカヅチの軍にあって、それはとても珍しい事だった。


「信じられねぇ。あいつの体はどうなってるんだ? なんであの状態で立っていられる!?」


「まさにバケモノだ。見ろ、奴の下に転がる削ぎ落とされた肉の量を! 両耳はもちろん、傷ついていた右腕は肩口から先が無くなってる。他の箇所も骨がむき出しの状態だってのに・・・狂っってるぜ!」


 そのときボトリと音がし、切れかかっていた悟空の左腕が地面に落ちた。800名から先は隊長クラスの上位神だ。一撃の重さが今までの者達とは比べ物にならない。さしもの孫悟空も斬撃を受ける度に呻き声を漏らしはじめる。


 腹の肉が破れ、内臓がこぼれ出し、あばらが骨はちぎれて飛び、続く者がその傷口に容赦なく剣を突き立てる。こぼれた腸すらも断ち斬られ、悟空の体は原形を留めぬ程に凄惨な状態であった。それでも悟空の目には強い意思を示す光が爛々と輝き、衰えぬ闘志が彼の折れそうな足を支えていた。


 そして・・・


「よくここまで持ちこたえた。心臓と首は狙うなと命じていたが、それでも途中で事切れると思っていたぞ。本当に凄い奴だよ、お前は」


 890名からの斬撃に耐え、いよいよ最後だという場面で、悟空の前に立ったのはタケミカヅチ本人だった。抜き身の超神剣カヅチを手に悠然と振りかぶると、何の躊躇いもなくその切っ先を悟空の頭部に向けて打ち降ろす。


「ぐああっ!!」


 頭蓋を切り裂き脳にまで達した一撃は、額から左の頬を抜け顎を砕き、そのまま鎖骨を粉砕して脇腹に抜けた。超神剣が生み出す衝撃波が悟空の背中を突き抜け、背後の大地に大穴を穿つ、地形を大きく変えてしまう程の凄まじき一撃だ。それは、今までの攻撃とは比べ物にならぬ完全なる致命傷だった。


 しかし悟空は立っていた。

額から左頬に抜けた傷は彼の眼球を完全に潰し、大量の失血が意識を奪う。それでも耐えて膝を折らず、悟空はガクガクと震えながらも地面に踏みとどまり立っていた。


「信じられん奴だな・・・お前は不死身か?」


「―――どうだ?・・・耐えて、みせ、たぞ・・」


 その言葉を最後に、悟空は糸の切れた人形のようにガシャリと砕けるように膝をつき、自らの血の海に頭から倒れこんだ。


「や、約束だ・・・家族と・・村人を・・・」


「タケミカヅチ様、申し訳ありません。先程確認したところ、正午過ぎに赤子が四人産まれていたようです。なので村人は881名。孫悟空と家族を含めて895名です」


 把倶羅がそう告げると、タケミカヅチは「そうか。何事も確認が大切だ。以後気を付けよ」と楽しげに言った。


「聞いたか、孫悟空? 村人は881名だったそうだ。残念だが後4回分足りん。しかし、お前は既に膝を折ってしまった。もう少し頑張って立っておれば良かったであろうに、非常に残念だ。本当に残念でならんよ」


 含み笑いが大きな笑い声に変わる。

はじめからこうなるシナリオであった事は間違いない。孫悟空はハメられたのだ。


「き、きさまぁ・・・はじめからこれを・・!?」


「だとしたらどうだと言うのだ? 後もう少しのところで倒れてしまったのはお前の根性が足らぬせいであろう? 我はこれで終わりなどと、ひとことも口にしておらんしな」


 一頻り笑い終え、なおもクククと笑いながらタケミカヅチは悟空の目の前にしゃがんで顔を覗きこんだ。


「残念だったな、孫悟空」


「タ・ケ・ミ・カ・ヅ・チィィ」


「良かったではないか。これでお前が無害だという事が証明できたのだ。まあ、死と引き替えにだがな。お前が死ねば脅威は去る」


 悟空は悔しさに涙した。まんまと騙され、家族を村人を救えなかった事を後悔した。一度でも信用しようとした自分の愚かさを呪い、そして怨んだ。


 何度騙されれば気が済むのか?

もう昔のタケルは居ないというのに、なぜまた少しでも希望を持とうとしてしまったのか? 自分の甘さに心底腹が立った。しかしもう全てが遅い。孫悟空は本当に虫の息であり、生きている事が不思議な程の致命傷を負っていた。


「最後の情けに数珠はくれてやる。どちらが先にくたばるかは分からぬが、家族と共に死ねるのだ。有り難く思えよ?」


 数歩下がり、魂破珠(タマハタマ)を地面に置くと、タケミカヅチは踵を返し「終了だ。引き上げるぞ」と短く告げて歩き出した。悟空などもう振り返らない。用意された天馬に跨がって鞭を入れ、天高く舞い上がった。大将が先に行ってしまった事に慌てた兵達は、ドタバタと急ぎ軍馬に乗りあとを追って走り出した。天馬に乗る事が許されているのはごく少数の幹部のみだ。大半は地上を走り、白く光る旗頭を追った。


 燃え盛る炎の中にひとり残された悟空は、必死にもがいていた。両腕を無くし、内臓の七割以上に致命的なダメージを負いながら、それでも家族が閉じ込められた数珠に向って這うように進む。


 ただの穴でしかない耳に声が聞こえた。

か細く消え入るような声であったが、悟空にははっきりと聞こえた。


 泣いていた。泣きながら叫んでいた。

今にも消えてしまいそうになりながら、必死に頑張って叫んでいる子供たちの声が聞こえた。


 腹を裂かれ、内臓を引きずり、両の腕を無くした父の姿を見て子供達は泣いていた。足は骨が砕かれるのを避ける為に全霊力を傾けたため失ってこそいないが、肉を無惨に削ぎ落とされ、腱を失ない機能しない。頭蓋を割られ、片目を失ない大量の血を流しながら、それでも悟空は笑顔を作り「大丈夫だ。今オラがその珠から出してやる」と言って家族の元に近づいて行く。


 悟空に残された比較的無事な場所は背中と首の筋肉だけだった。もう命の灯も残り少ない。もってあと5分だろうと思った。それまでになんとか家族だけは助けなければ!その思いが悟空を突き動かした。首と背中の筋肉だけを使い、芋虫のように地面を這う。たった2㍍に満たない距離がとてつもなく長く、永遠のように感じられた。 



「父さん!」


 この声は最初の子、究悟(きゅうご)だ。

トトが父のように強い男になって欲しいと付けた名だ。オラに似たのは食べっぷりとお人好しなところだけだったな。気が優し過ぎて格闘家には向かねぇが、努力家でとても芯の強い子だ。弱いもの虐めが大嫌いで、敵いもしないのにいじめッ子に立ち向かうところを見たことがある。責任感も強く、立派に長男としての努めを果たしてくれた。


「「父さま!」」


 ハモッて聞こえたのは長女と次女の熾果と熾織だ。いつも二人一緒に居てトトをよく助けてくれた。世話好きで気立ての優しいいい子たちだ。最近めっきり女らしくなって村でも評判らしい。嫁に出すには早いが、相手がいい男なら別に文句は言わねぇ。オラに一撃食らわせる事が出来るような気骨のある奴ならな。


「お父さん、死なないで!」

「いっぱい血が出てる!ああ、目が・・お父さん!」

「死んじゃ嫌だよ!僕に武術教えてくれるんだろ!」

「動かないでパパ!死んじゃうよぉ!」


 二度目の出産で生まれた子供達・・・拓斗、鈴華、闘弥、春玲。お前達は揃ってイタズラ好きで遊びの天才だ。鈴華は花が好きだったな。拓斗と闘弥は格闘のセンスがある。将来きっとすげぇ武闘家になるにちげぇねぇ。オラ楽しみだ。春玲は賢い。顔もトトにそっくりだ。活発なのはいいがイタズラ以外の場所でその頭脳を使ってくれよ。オラの身がいくつあっても足んねぇ。あの花火には驚かされたな。お前の歳であんな仕掛け作れるなんてすげぇぞぉ。


「パパ!怖いよう!」

「助けてパパ!」


 おう。待ってろ、瑠威!樹里! 今パパが行って助けてやる。もう少しだけ頑張れ! もう少しだけだ!


「あなた! 浬衣、衣瑠美、菊花が!」


 トト、分かってる。もう3人の気がほとんど残ってねぇ!急がねぇと!


 悟空はやっとのことで数珠までたどり着くと、口にくわえ顎に力を込めた。腕も無く、足も動かない状態では、もう歯で珠を砕く以外に方法がないのだ。左顎はタケミカヅチの一撃で骨ごと持っていかれた。残る右の顎に全ての力を込めて悟空は魂破珠を噛みしめる。


 バキッ!!


 砕けたのは悟空の歯の方であった。


 珠には亀裂ひとつ入らない。

それでも噛み続けた悟空の歯は、全てが砕けて、破片は顎骨に食い込んでいた。


 ボキッ!!


 鈍い音がして、大量の血が悟空の口から流れ落ちる。顎の骨が完全に砕けた音だ。だらりと下がった顎は咬む事はもちろん、閉じる事さえ出来ずに、ただただ血を流し続けた。


 くわえていた数珠がぼとりと落ちる。

それを追うように、更に大量の血と共にぼとぼとと涙が流れ落ちて地面を濡らした。


「ずまぬうぇ・・みうナァ・・ずまぬうぇ・・」


 血で汚れた珠を悟空の涙が洗い流す。


 誰も救えない。

 悟空にはもう成す術が何もなかった・・・

 既に3人の小さき子供達の気配は消えている。


 トトの気配も限り無く稀薄になった。

残る9人の気配はまだ健在だが、それもいつまで持つか分からない。魂破珠は天帝の神力で造られた神器だ。もとより破壊など出来ようもない。それが出来るとすれば、同じ神格を持った神か、創った本人しかいない。


 しかし、その天帝様はもう居ない。

数年前に高天ヶ原をアマテラスに譲り、自身は終末限界を防ぐ為に他の高次元へと移ったのだ。


「あなた・・もういいのです。これ以上あなたが傷つくのを見ていられません。私達はここで朽ち果てる運命。あなたは逃げて生き延びて下さい。それだけが私の・・・最後の願い・・・」


 トトを見つめる悟空の目に光はない。

その最後の願いすら不可能な事は悟空が一番よく分っていた。妻を、子供達を救う事だけを希望に気力を振り絞り、生命の灯を繋ぎ止めて来たのだ。それが出来ないと分かった今、悟空の霊力は急速に力を失ない、心臓はその鼓動を止めようとしていた。


「トト・・・ずまぬぇ・・オラはもう・・」


 ダメだと言い掛けたところを、息子の声が遮った。


「父さん、まさか諦めるんですか!!」


「くゅう・・ご(究悟)・・・?」


「父さんは言っていました。一番恐ろしい事は自身が諦め、未来への努力を止めてしまう事だと!」


「う・・・」


「父さんは今、その一番してはいけない事をしようとしている。そんな父さんは僕の知る父さんじゃない。父さんは何があろうと絶対に諦めない最強の男のはすだ!」


 おとなしく気の優しい究悟が、怒りにも似た表情で悟空を叱咤する。初めて見るその男らしい姿に悟空は頼もしさを感じる反面、もうどうしようもないという事実を受け入れられぬ、若さゆえの言葉だと思ってしまった。


「僕は父さんのように強くない。武闘家を目指した事もあったけど、残念ながら僕には才能がなかった。でも諦めた訳ではありません。武術だけが家族を護り、村の皆を危険から救う手段ではないのです。司祭であった祖父は言いました。お前には神託者シャーマンの素質があると」


「・・・・・」


「タケミカヅチは、ハヌマン族を根絶やしにすると言っていました。そして次のターゲットはベジタハ叔父さんの村クヤルタです。クヤルタは何倍も多くの仲間が移住した土地です。襲われた時の被害はここの比ではない。後ろだてになってくれた沙悟の方々にも重大な被害が及びます。それだけは絶対に防がなければなりません!」


「しかし・・・オラはもう・・」


「僕はまだ諦めていません。聞いて下さい父さん!」


 そして究悟は語り出した。


 悟空は・・・あまりの恐ろしさに、ガクガクと身を震わせた。それは絶対にあってはならない最大の禁忌よりも、更に恐ろしい(まじな)い事だったのだ。



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