蛇神の聖域【9】禊ぎ
―――これが御祓だって!? こんなのって・・・
ゆかりが手伝い、婆さんの転生儀式を終わらせた後、俺たちは御祓を行っているヨムルの様子を見に空間を移動した。御祓に使われる場所は婆さんの子宮の中だ。
曾て、神を産み落とした神秘の球体。
肉体が滅んでしまった今では、石化した内壁が遠く見えるただ広いだけの空間だが、そこに充ちた神々しい神気が体内の使い魔達を通して感じられる。ここは神界に近い聖域のような場所なのだろう。
その中心に位置する場所に、全裸のヨムルが磔状態で四肢を伸ばし浮かんでいた。俺達が来たこと気付かないのか、先程からピクリとも動かない。
腕と足の先から伸びた細い糸のような管が、数億本に枝別れし蜘蛛の巣を思わせるような形で外壁へと伸びている。なぜ管だと分かったかというと、その中をヨムルの体液が流れているのが見えたからだ。
すぐ目の前にもヨムルの腕から伸びた細い管があり、中に流れる液が壁の方向へとゆっくりと流れているのが分かる。つまり、ヨムルの体液を子宮内壁が吸い出しているのだ。
血の気を失なっっているヨムルの肌は、白さを通り越して透明にさえ見えた。半透明のゼリーで出来た人形ように実感がなく、生気もまるで感じられない。その中で唯一確かな存在感を示すもの。それは透ける体の中心部にある心臓と、下腹部にある臓器、つまり子宮だった。その二つの臓器だけが存在感を保ち、ヨムルがまだ生きている事を示していた。
「どういう事だ? こんなのが御祓なのか!?」
想像はしていたのと全く違う光景に、俺は驚くと同時に動揺した。ゆかりも同じらしく、ヨムルを見つめる表情が固まっている。
「我ら一族は起源を水とするゆえ、その体液が生命の源じゃ。血を失えば、どんなに強い生命力があろうと死んでしまう」
婆さんは目を細めてそう言った。
「当たり前だ。血を失えば普通は死ぬぞ!」
「当たり前? それは違うな。
人間は我等と構造的に近いが、そうでない生命体はいくらでもある。例えば、夢魔がそうじゃ。奴らは半分が精神生命体じゃから、血液を全て失なったとしても死んだりはせん。更に精霊種ともなれば、死すべき肉体すら存在しない。
逆に、蝕王のように肉そのものが生命の場合もある。あやつは肉片ひとつあれば自己再生し、永遠に死ぬ事もなく元に戻る。命の形とは実に多彩で、定義などというものは有りはせんのじゃ。特に神は、人が持つ感性や感覚などは全く当てはまらぬと思っていた方が良かろう」
婆さんと俺とゆかりは、ヨムルから15㍍程離れた空間にバリアのような球体に守られ浮かんでいる。この球体が無ければ、ヨムルのように壁に繋がれてしまうらしい。目には見えないが、この場所は羊水のような液体で満たされており、既に個体として確立した者を分解して生命の根源へと変換してしまうのだ。
「ヨムルの意識が感じられない。まさか、これで死んだりとかしないよね?」
ゆかりが心配そうに訪ねた。
「もう何度も死んでおるよ。ヨムルはここで死と再生を繰り返しておるのじゃ」
―――なんだって!?
「今は気を失なっておるようじゃが、じき目覚める。ホレ、気配を感じるじゃろう?」
婆さんの言葉がまだ終らぬうちにヨムルの体に変化が表れた。心臓の鼓動が強くなると同時に血管に赤い血が流れはじめ、ゼリーのような半透明な肉体がみるみるうちに肉感のある体へと変貌して行く。
「これは!?」
「超再生の現象じゃ。命の源である血液の殆どを失なった時や、死の寸前でのみ可能な生命の足掻きじゃよ。ヨムルは生命のストックとも言うべき超再生の弾を幾つも持っておる。御祓はな、そのストック全てを使いきり、魔族である事を棄てる儀式なのじゃ」
「魔族である事を棄てる? なぜ!?」
「ヨムルの体を構成しておるのはワシの怨念が産み出した魔の因子じゃ。言い方を変えれば、堕落した神の力が産み出した暗黒生命そのもの。神を身籠るには、魔に大きく傾いたその命を使い切り、白紙の状態に戻すのじゃよ」
「堕落した神の力が残っていたらどうなるんだ?」
「それらが残った状態で転生体を受胎した場合、産まれるのは神ではなく魔神となるじゃろう。ワシの転生の儀式は、ゆかりが巫女の転生体であったので容易く出来た。じゃが、ヨムルの場合はそうは行かん」
ヨムルの体は、婆さんが話している間に完全再生を果たし、美しい肌と完璧な容姿を取り戻していた。彼女はゆっくりと目を開けると、俺の姿を確認して口元を緩める。
《大丈夫よ。そんな顔をしないで・・・》
ヨムルの思念が俺に届く。羊水の中では肉声が届かないから、この方法しかない。俺もすぐ思念を返すが、何の反応がないところをみると一方通行なのかも知れない。それともそんな余裕すらなかったのか、ヨムルから笑顔が消え、歯を食いしばり苦しみ悶え出した。
同時に、繋がった無数の管の中を凄い勢いで体液が走り出す。次第に薄れて行く意識と、容易く気絶を許さない激しい痛みと闘いながら、身を捩るヨムル。とてもまともな神経では見ていられない壮絶な光景に、俺はおもわず目を背けてしまった。
「背けるでない。これがヨムルの覚悟じゃ」
強い口調で婆さんは言った。
「ヨムルも真剣なのじゃ。愛に対し未熟で無知であろうと覚悟は本物じゃ」
無言のままヨムルを見つめるゆかり。
俺が背けてしまった光景をたじろぎもせず真っ直ぐに見るその瞳には、俺の理解が及ばない強さがあった。20年という年月をこの異世界で過ごした彼女には、言われてもなおヨムルを正視できない俺とは比べようもない厳しさと覚悟があった。
「後どれくらいコレが続くの?」
「それは分からん。命のストックが尽きるのが1日先なのか2日先なのか。じゃが、少なくとも今日1日はこの状態のままじゃろう」
「そう? じゃあ、ヨムルと直接話が出来る機会は当分先になりそうね。御祓が失敗する可能性はあるの?」
はじめこそ驚いたゆかりだったが、状況を把握して既に落ちついていた。ともすれば冷たく感じられる口調で質問をし、苦しみ悶えるヨムルの姿を見ても動揺する様子は感じられない。
「ある。苦痛に耐えきれず、自ら儀式を中断してしまえば失敗に終わる。この状態はヨムルの意思ではじめた事じゃから、止めるもヨムルの意思でいつでも出来る」
「仮に御祓が失敗したとしても、死んだりはしないのね?」
「ああ、死にはせんよ。寿命は著しく減少してしまうじゃろうが、本来の力を無くす訳でもない。魔王の加護を失って能力値が下がる事はあっても、それとこれとは無関係じゃ」
婆さんも淡々と話す。俺とは生きて来た環境が違い過ぎて、その感情をすぐには理解できそうにない。
「そう。それを聞いて安心したわ。私達に出来る事は何もなさそうだけど、お兄ちゃんはどうしたい? まだ見てる?」
結局、呼び方はお兄ちゃんのままにしたのか、ゆかりは俺に意見を求めた。無視してどんどん進められるよりはいいが、この状態で質問されても正直なところ困る。
「確かに、俺達に出来る事は何もなさそうだ。ヨムルがいないと地上に帰れないし、さっきの白い空間に戻るしかないんじゃないか?」
「そうだね。私もそう思う」
「うむ、そうするか」
頷いた婆さんは、俺達をもといた座布団がある空間に移動させた。来た時と同様に一瞬だった。
「して、これからどうする?」
「それは俺に聞いてるのか? 御祓が完了するのを待つしかないし、この空間には他に何も無いみたいだから、やる事と言えば話すくらいじゃないか?」
「いやいや、そうでもないぞ」
婆さんはそう言って、すっかりその存在を忘れていたゲーム盤を背中から取り出した。今までどこにしまっていたかなどと野暮な事は聞くまい。婆さんは神様なのだ。
「ゆかりよ。久しぶりにワシと勝負するか?」
「オセロかぁ〜。それも楽しそうだけど、私は孫くんの話の続きをして欲しいな。この先はプライベートな部分に踏み入るからって中断してしまった話の続きがどうしても気になって仕方ないんだ。孫くんは自分の事を本当に話さない人だから、今を逃したら知る機会は無いと思うんだよね」
俺も気になっていた。が、婆さんがあの場面で話を中断したのは、今後の関係に影響するかも知れないと配慮したからだろう。
「話しても良いが、孫悟空とはかなり親しい仲じゃろう?辛い思いをしても知らぬぞ?」
「そんなに辛い話なの?」
「ああ、ワシならば生きて行けぬ程に辛い話じゃ」
「なら、なおさら知っておかなくちゃ! 生きて行けない程に辛い経験をしている孫くんを、このまま独りにはさせておけないよ」
ゆかりは婆さんに詰め寄るようにそう言った。その言葉に頷きながら俺も口を開く。
「俺もゆかりと同意見だ。是非とも聞かせて欲しい。苦しみってのは、独りで抱え込んでも何も解決しないと思うんだ。俺なんかじゃ何の役にも立てないかも知れないけど、共に苦しむ事くらいは出来る。それにさ、頼るばかりで何も出来ないのは心苦しいんだよ」
婆さんはしばらく目を閉じて考えている様子だったが、ゆっくりと瞼を開き、俺とゆかりの顔を交互に見てからニコリと表情を崩した。
「孫悟空の奴は慕われておるな。そこまで言うなら話すが、その前に武尊神王について知っている事を話しておこう。この話をする機会はもうなかろうし、敵となる相手の事を知っておいて損はないからな」
そう言った婆さんの瞳に苦し気な景色が浮かぶ。全ての不幸の元凶となった相手の話だ。当然の事だろう。だが、俺と奴を勘違いした時のように荒ぶる様子はなく、感情を押し殺すように静かな語り口調で話しはじめた。
「奴はワシの敵である恨んでも恨みきれぬ相手じゃが、元からあのような荒神ではなかった。もとより戦神には違いないが、どちらかと言えば天下泰平をもたらす英雄神としての気質が強く、勇敢であり公平であり、才気溢れる若き武勇の神であった」
タケミカヅチの過去が語られてゆく。
しかしそれは、一部の限られた者のみが知る秘話というわけでなく、神々の世界では一般的に知られている話だという事だ。婆さんは先ず、神界のことから話しはじめた。
神界は大きく分けて三つの領域から成っている。
天界を『高天ヶ原』と言い、天上にある聖域だ。その下に広がる大地には八百万の神々と様々な生態系を持つ生命体が住む『葦原の中つ国』があり、その下に冥界と呼ばれる死者と死の眷族である神々が住む『黄泉の国』がある。
これは、俺が知るところの古事記に書かれている内容とほぼ一致している。ゲームや漫画などによる知識が大半だから合っているのかも怪しいところだが、三つの領域にはそれぞれ管理者となる神がいて、それは三貴神と呼ばれる特別な神様だった。
三貴神は太陽を示す光の神、天照大御神と月の化身であり夜の支配者、月読尊。それに須佐之男命であるはずなのだが、婆さんの話だとそこにスサノオは実在せず、伝説として名前だけが存在する荒ぶる破壊神の名前だった。タケミカヅチはその伝説の破壊神の絶対的力を欲し、事実にそう呼ばれる存在となったという。
婆さんは将来敵となる相手と言ったが、俺の今の目的はゆかりを復活させる事であり、正直そんな凄い神様と闘うなんて絶対無理だと思う。雰囲気に流され、一時は闘う気になった事も認めるが、冷静になって考えてみれば「そんなの無理でしょ? なに過度な期待してんだよ!」って気になる。
はっきり言ってしまうと、俺は自信がないのだ。
ヨムルとラヴェイドの闘いを見て、次元の違いを見せ付けられた。婆さんとゆかりの闘いなんて全く理解出来なかったし、ヨムルでさえ闘いに参加するのはごめんだと言わんばかりに逃げ腰だった。その婆さんよりも遥かに強い絶対的存在のタケミカヅチ相手に、俺が少々強くなった所でなんとかなるモノでもないだろう?
俺は強大で絶対的存在である敵の話を聞くうち、段々と不安になり卑屈になって行く小さな自分を感じていた。そんな俺の心の動きを知ってか知らずか、婆さんは坦々と語りを続けていく。
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武尊神王の幼名は武命という。
創世の神、天帝伊邪那岐命の子である彼がまだ成神前の若神であった頃、修行の為に各神域を廻る旅をした。その時、天帝の命により集められた護衛の中に孫悟空の名もあった。
親から命じられた旅を無事に終え帰国した武命は、旅の成果を天帝に報告した後すぐにまた旅に出た。前の旅の道中で特にお気に入りであった従者3名のみを連れた、純粋な修行の旅だ。
道無き道を開拓しながら進む、厳しく危険な強行軍とも言える旅ではあったが、その旅は彼を急成長させ偉大な神へと大きく近づける事になった。
その頃の彼は、誰もに好かれる若き神であり、少しワガママではあったものの誰もが彼に期待を寄せ将来を嘱望させる逸材であった。もちろん孫悟空もそのひとりである。
弱き神族の為に『禍神』を退治し、呪われた神域を解放する為に骨身を惜しまず土地神と共に大地を耕し、広大な神域を見事に浄化した事もあった。この旅で廻った数は実に1140諸国にのぼり、掛かった年月は人の時間感覚でいうならニ百年以上に相当する長き修行の旅となった。
武命の名は、いつしか『タケル伝説』として多くの神々の間でも語られるようになり、名声が広がると共に彼の神格もぐんぐんと上がっていった。そして武命が成神を向かえる頃、武闘神としての名を三神世界に轟かせる大成神となり、彼は目標である超神への道を順調に進んでいたのだ。
そんな彼に転機が訪れたのは、父である伊邪那岐命が後継者として姉のアマテラスを指名し、同時に彼が創造した神域である『高天ヶ原』を去ると決めた時から始まった。
『高天ヶ原』は産神の神域である。
天地開明時の原初の聖地であり、そこより発生し、植物の根のように広がった神脈の先には無数の神域が発生した。様々な生態系の動植物や、土地神などを産み続けながら成長し、それらの存在力が大きくなる程に高天ヶ原の神格も上がり、そこに住まう神々に大きな神力と恩恵を与えた。
高天ヶ原の主となる事は、派生した神域全てを支配する事と同意であり、唯一無二の絶対神となる為の絶対必要条件であった。タケミカヅチの興味とその原動力は絶対神となる事であったので、姉が選ばれた事は彼にとって受け入れがたい事であった。
「何故だ!? なぜ姉上なのだ!!」
タケミカヅチは、高天ヶ原の北に位置する北楊門の前で馬に跨がる男神に向かって叫んでいた。馬頭は門の外を向いており、彼らが門から出ようとした進路に立ち塞がったかたちだ。
「今それを言って何になる? 父上が決めた事だ」
12騎の従者を従えた黒く巨大な馬に股がったマントの男。漆黒の長い髪と、青白い肌の不健康そうな外見からは想像もつかぬ巨大な神気を纏ったその男神は、全く興味がないと言わんばかりの無表情さでタケミカヅチを馬上から見下ろし、唇を動かさぬ独特のしゃべり方でそう言った。
「兄じゃは不満ではないのか!
父の引退も、姉上の事も、我には何の相談もなく知らぬ間に決められていた。いきなり呼びつけてコレでは到底納得が行かぬ!」
タケミカヅチの叫びにフッと苦笑めいた、ともすれば侮蔑とも取れる笑みを浮かべた後、男神は彼から完全に視線を外して前を向いた。全身を厚く被う黒マントの端から出ていた馬の手綱を掴んだ腕が下ろされ、マントの内側に消えてしまうと男はまるで闇そのものであるかのように霞んで見た。
その後ろに同じく黒い馬に股がった従属神が亡霊のように付き従うが、その者達からは生気というものをまるで感じない。しかし、その者達が生者であるか亡霊であるかなど問題ではなく、彼等の持つ特別な神格は間違いなく最上神クラスであり、そのひとりひとりが苦もなく小さな神域くらい消し去ってしまえる程の力を持ってるのは疑いようもなかった。冥界の守護騎神、スペクターと呼ばれる彼専属の騎士達である。
タケミカヅチに『兄じゃ』と呼ばれたその男の名は月読。三神界のひとつ『冥界』の管理者であり、死と夜を司る神々の頂点にして、不死で不滅の神を超越した存在だ。
月を棲家とし、冥界を治める彼が、高天ヶ原に来る事は特別な用向きでなければまず有り得ない。何故なら、彼が動けば必ず大量の死者が出るからだ。寿命の近い年寄りはもちろん、病気や怪我などで生命力を弱めた者達は、彼が近くを横切るだけで死に至る。
彼の存在は死そのものであり、触れるだけで生ある者の命を確実に奪った。故に彼が生者の住まう神域の頂点である高天ヶ原に来る事は滅多になく、彼の姿を間近で見ようとする生者も居ようはずもなかった。
「不満などあるはずがなかろう。産まれた時より高天ヶ原の主になる資格など俺には無かった。どれ程大きな神力を持とうが、死しか与える事が出来ぬ者に創造神への昇華はない。生命と光の象徴であるアマテラスが後継に撰ばれる事は決まっていた事だ」
吐く息により死を呼び込まぬよう口を開かずにそう言うと、月読は馬の手綱を引き前に進むよう命じた。
「そんな事を誰が決めた!我は認めんぞ!
力ある者が頂点に立つ。それが正しき選択だ!
確かに、姉上は素晴らしい神力の持ち主に違いないが、精神的に弱いところがある。我の成長を待って三人が同じく超神となったとき、実力を見て後継者を決めるという話ではなかったか!?」
視線を外したまま通り過ぎようとする月読の進路に立ち塞がると、タケミカヅチは無造作に兄に近付いた。
「それ以上は寄るな。死ぬぞ?」
兄の言葉を無視して尚も歩を進めるタケミカヅチは、冥界馬という命を持たぬ特殊な馬に股がった兄のすぐ下にまで到達し、叫んだ。
「死ぬものか! 例え兄じゃの体に直接に触れようが、我は死なん! 触れたなら必ず死ぬと誰が決めた!」
「やめろ!!」
月読が叫ぶより早く、タケミカヅチは馬上の兄の足をその手に掴んでいた。そして真っ直ぐに兄の目を見てニコリと笑みを浮かべたのだ。
その唇の端から一筋の赤い血が流れ、足を握った手はみるみるうちに赤黒く変色し壊死してゆく。しかしそれでもお構いなしに更に力を込め、タケミカヅチは強く足を握った。
「タケル!・・・お前!?」
驚く兄の視線を正面から受け止め、タケミカヅチは満足気に頷いた。
「どうだ兄じゃ? 触れれば必ず死ぬなど無かったろう? 我は死んでなどおらんし、神力を奪われてもおらん」
唇から流れる血の量が増して行く。月読の神気にあてられ内臓の深き場所まで侵されつつあるタケミカヅチは、地獄のごとき苦しみと苦痛に耐え、それでも兄へと笑み掛けた。
「殺す事をおそれ、誰にも触れず、誰からも触れられぬよう生きて来た兄じゃの心が本当に欲しているものを我は知っている。兄じゃがどれ程に優しく、命を大切に思っているのかを弟の我だけは知っているのだ」
「もういい。本当に離せ・・・死ぬ気か!?」
「我は必ず兄じゃに追い付き、追い越してみせる。そして兄じゃをこの腕に抱きしめる。兄じゃの願いを我が叶える。だから諦めないでくれ。この三神界で最も強く、気高いのは兄じゃではないか! 今ならまだ間に合う」
父を除き、兄の月読に触れる事が出来る者は居なかった。冥界の守護騎神であってもそれは同じで、ただ彼らは死という現象を結界によって回避する術に突出して優れているに過ぎない。直接触れれば結界などは消し飛び、ツクヨミの持つ死を招く神気が彼らの命を容易く奪うだろう。
「分かった。
後継者の件は俺からも父上に進言しよう。今回の件は白紙に戻す。だから今すぐに手を離し治療を受けるのだ。こんなつまらぬ事でお前を失なう訳にはいかん」
その言葉を聞いてタケミカヅチは手を離した。しかし受けたダメージは深刻で、それでも膝を着かずに立っている事が奇跡に感じられる程に重傷だった。この場に、死に対し超絶的な抵抗力を持つスペクターが居なければ、彼は本当に死んでいたかも知れない。しかし彼は死なず、この一件から後、スペクター達から支持を受ける事となった。月読の願いを知る者は他にもいたのだ。
『闇の王』と三神界に怖れられる存在である彼達の王の心根が、如何に優しく生者に対して寛容で慈しみを持っているのか彼らははじめから知っていた。でなけば不死者である月読の護衛など必要もないのに着いて来る理由などないのだ。彼らはこの優しき王が大好きであり、その手に直接触れたくとも出来ぬ自分達に不甲斐ないと自虐の念を抱きながら、それでも近くにお仕えしたいと腕を磨き守護騎神となった者達であった。
故に、自分達ですら出来ぬ事を死の結界も張らずにやってのけた王の弟君に対し、尊敬と期待を持つのは極々自然な事であった。
冥界の守護騎神との間に信頼関係を築いたタケミカヅチは、この後、大きなインシャーティブを手にする事になった。彼は死からほぼ無縁の存在になったのだ。死を司る神々はタケミカヅチに決して死を寄せ付けなかった。タケミカヅチが超神となる事が彼らが愛して止まぬ王の最大の願いと繋がるのだ。協力しない訳がない。
そうして死の危険からの対象外となった彼は走り出す。まっすぐに力を求めた先にあるものが彼の理想とは掛け離れたものであるとも気付かず、タケミカヅチはただただ力を求め、ひたすら走り続けた。
そしてあの戦がはじまった。
天界を揺るがし、多くの神々の運命を狂わせた忌まわしき異界大戦の火蓋を切ったのが孫悟空の放った破壊の一撃であり、最大の友であり、最後の弟子であった若き日のタケミカヅチと孫悟空との決別を決定着けた戦でもあった。




