蛇神の聖域【1】ヤマタノオロチ
差し出されたヨムルの手を取りながら、彼女の心にはじめて触れた気がした。アリスを殺すと言った時のヨムルは本当に怖かったが、言葉の裏に隠された真意にやっと気付く事が出来た。
『神降ろし』の依代となれば、俺の体が耐えきれず自壊するかも知れない。アレンとの闘いを見てその可能性を危惧したヨムルは、儀式に必要な行為を交わしていないかを心配したのだ。
心配は無しと見ると、消失血統の存在を知りながら神の命に背いてまで俺の悲しむ事はしないように配慮してくれた。想像ではあるが、アリスの母や兄姉に忍ばせた使い魔にも認識阻害の術式が施されている可能性は高い。
ストレートに感情をぶつけて来るメリーサ。
破天荒で何をして来るか分からないが、俺の為なら全てを投げ売っても行動するゆかり。
見返りを求めず自己犠牲の愛を貫き通すアリス。
ヨムルはその誰とも違うが、俺の理解も及ばぬ次元で俺の為に最良の手段を考えて行動してくれている。メリーサが言ったように、彼女の内側には深く根強い暗黒面があるのかも知れない。しかし、その暗黒面を俺に向けて来る事などあるのだろうか?
ゆかりはヨムルを信頼していた。でなければ、半数以上の魔王を敵にまわす可能性がある計画に誘う訳がない。あまりにも強大な彼女の力に恐れを感じてしまうのも確かだが、俺の中ではヨムルは安全であり、信用できるように思えた。
「大婆様? ヨムルの婆さんか?」
「そう。私たち蛇族の祖であり、世界の始まりより以前から存在する大いなる御方。神と同じ力を持つ絶対的存在なの」
「もしかして、もの凄〜く怖い御方なんじゃないのか?先程の大蛇で子供って言ってたし、大きすぎるのはちょっとな」
「大丈夫。サイズは私の半分程しかない腰の曲がった小さな婆様だから。でも一切の反論をしては駄目よ。逆鱗に触れれば一瞬で存在ごと消されてしまうわ。私の数億倍は強いんだから」
怖いのは駄目だと言っているのに、怖がらすような事を平気で言うヨムル。ビビる俺をクスクスと笑いながら眺める様子は、どう見ても楽しんでいるようにしか見えない。彼女の真意に俺が気付いたのがよほど嬉しいのか、雰囲気的にも軽く感じる。
「場所は世界の核に当たる地の底よ。蛇脈を通るからビックリすると思うけど、食べられてしまう訳ではないから怖がらないでね」
言うやいなや、巨大な蛇が目の前に現れ、俺達を一瞬にしてパクリと呑み込んだ。ビビる隙もなく呑み込まれた俺は、絶叫を上げながら墜落するように蛇の食道をひたすら落ちる。
少し馴れて来ると、凄いスピードで流れる動物の胎内のような壁の所々に、何かが引っ掛かってぶら下がっているのに気付く。右目を凝らして集中すると、それらが白骨化した大小様々な動物の骨や人型をした何かの死骸だと分かり、俺は再び絶叫した。
―――これ、絶対、絶対、喰われてるよね!?
落ちた先が消化液の海だとかマジで勘弁だぜ!!
叫びながら落ちた先に、笑いを堪えながら覗きこむヨムルの顔が視界いっぱいに広がっていた。
どうやら俺は、途中から気絶してしまっていたらしい。ビックリして飛び起きると、腰に巻いていた唯一の布切れが無くなっていてた。今の俺はまる裸のスッポンポンだ。
慌てる俺を見て声を出して笑うヨムル。
その無防備な笑顔につられて俺も笑いだし、暫く二人はごく普通に笑いあった。
「ああ、可笑しい。期待どおりの反応に思わず笑ってしまったわ。でも安心なさい。はじめてここへ来た者のほとんどは正気を保てず気絶してしまうの。蛇脈の中は蛇気でいっぱいだし、耐性を持たぬ者なら死んでしまうわ」
「おいおい、俺に耐性がなくて死んじまったらどうすんだ?無茶するなよ!」
軽い調子でとんでもない事を言うヨムルに苦情を申し立てる。悪戯っぽく微笑んだ彼女は「問題ないわ」と言って、手の平を俺の胸に当てた。
「この私が、あなたの傷を治した時に何もしていない訳がないでしょう?タクヤの体内には、細胞レベルの極小サイズの使い魔が無数に入り込み、傷などの回復はもちろん、ウィルスや毒など障害となるもの全てを除去する働きをしているの。蛇気はもちろん、竜族の竜覇気にだって耐えれるはずよ」
「そうなのか?なんか色々して貰って悪いな」
「気にする事はないわ」
ヨムルが手を当てた場所に賢者の心臓がある。鼓動を確めるように暫くそのままでいたが、俺に視線を戻すと口調を変えて聞いてきた。
「タクヤ。これって辛くない?」
「賢者の心臓の事か?召喚された時から俺の中にあるから、辛いとかそういう感覚は無いよ。猿王が言うには、凄い負担を俺の体に掛けているらしいが、こうして普通に行動できるし、痛みや気だるさがあるでもない。これが普通だと思えばそうなんだろうなって感じだ」
「そう・・・」呟くように発した声に、ヨムルの体温が重なる。彼女は俺の胸にそっと頬を寄せ、心臓の鼓動を直に感じていた。
―――ちょっと言いにくい状況だけど、ヤッパこういう事は早く言っておかなきゃな。
「アリスの事な―――ん!?」
喋りだした途端、ヨムルの人指し指が俺の唇に押し当てられた。
「あの子の事は、心配しなくても悪いようにはしない。タクヤの気持ちは分かっているわ。アリスのことが好きなのでしょう?」
「なぜ、そう思う?」
「あなたが闘う姿を見た時から分かっていた。リンクの事も、絆の契約の事もね。驚いたのは、覚醒前の状態であれほどの能力を有しているという事実。あれはとんでもない娘よ?」
「知っていたのか!?」
「タクヤが想像しているより、私はずっと優秀なの。興味もないから大魔王の座など狙った事もないけど、本気を出せばゾーダにだって勝てる。猿王は別として、私とまともな勝負が出来そうのは竜王くらいのものよ」
望むなら大魔王の座を手にしてもいいわよ?と言うヨムルに、別に望んでないから必要ないと答え、話は戻る。
「アクヤの言いたい事は分かってる。私もね、放置しておけない事情があるの。ゾーダには報告したけれど、チョロスの調査隊は必ず来る。そうなるとね、私の立場が少しだけ悪くなるの。解決策は準備してあるけど、最後の詰めが必要になるからここに来たのよ」
「分かった。君を信用するよ。どちらにしても、俺では何の役にも立てないんだ」アリスの姿を想い浮かべなから、俺は悔しさで唇を噛む。
「自分を卑下したり、過少評価するのは良くないわ。事情を知らない者から見たら、無力で無知に見えるかも知れない。でもね、タクヤは本当は凄い存在なの。見る人が見れば、それは分かる。この奥に、大婆様の寝所があるわ。大婆さまなら私では分からない事まで分かる筈なの」
「ヨムルにも分からない事があるのか?」
「ええ、たくさんあるわ。タクヤの体は今までの常識を根底から覆す程に不思議で、未知の因子を無数に含んでいる。どうしてこの状態で存在できるのかさえ全く分からない。あまりにも儚く蜃気楼のように見えて、見る者を何故か期待させる不思議な存在感がある。数字では測れない未知の力が作用しているとしか思えない」
「未知の力?全く実感はないけどな。考えても分からない事は考えないようにしてるんだ。じゃなきゃこんな非常識な異世界で生活なんて出来ないよ」
俺は笑顔を見せながら意識して軽い口調でそう言った。分からない事を分からないと認める事から始めなければ前には進めない。どうにかして自分の考えに当てはめようとすれば、必ずどこかに無理が生じる。無理が続けば疲れてしまい、冷静な判断ができずに好機を見逃す。流されるのではなく、流れを見定め、利用する。それが俺の持論であり、生き方だった。
「ゆかりでさえ何ヵ月もふさぎ込み、この環境に適応出来ず苦しんだというのにタクヤは凄いわ。精神的なタフさは、この世界では実質的な力と同等の武器になる。この先も大変な事が身の回りで起こると思うけど、タクヤはタクヤらしさを失わないで欲しい」
そう言ったヨムルは少し距離を取ると、水平に上げた右手に魔法陣を展開させた。魔法陣に手を差し入れ引き抜くと、黒い布地の服を一揃え握っていた。
「その姿で大婆様に会わせる訳にはいかないから服を用意したわ。サイズはピッタリのはずだから着てみて」
渡された服を着てみると、誂えたようにピッタリだった。下着も絹のような感触でサラサラしていて気持ちよく、シャツやズボン、上着に至るまでオーダーメイドの上物だ。
ただし、ヨムルの趣味なのか、スーツの上下はラメがかった限りなく黒に近い紺色で、シャツは銀糸を編み込んだシルバー色。首には金色のカラーが嵌まり、執事っぽい感じもするが、これで直剣でも腰から下げれば何かのアニメに出て来そうなコスプレ風衣装だった。
「思った通り、凄く似合うわ。髪の色ともマッチしてるし、細身のあなたにはぴったりね。オッドアイがアクセントになって神秘性を増してる」
着替えた姿を見て、ヨムルは目を輝かせながら興奮しがちに喜んでいる。服に興味のない俺には分からないのだが、こういう事が好きな女はとことん好きなようだ。俺は、服なんて着れたら何でもいいというタイプだから、選ぶのも面倒なので服装は付き合う彼女任せだったりした。
「ありがとう。式典のときに着せられたハデな服装よりシンプルで動きやすいし俺好みだ。かなり高級品に感じるけど、値が張ったんじゃないか?」
俺は思った事をストレートに口にした。
「値が張る?値段なんて付けられないわよ。上着とズボンは貴重種ブラックユニコーンの鬣で作ったものだし、シャツはシルバーグリフォン、首のカラーはメデューサオクトパスの魔眼から削り出した魔力防具なの。不格好な鎧とか着せたくないから、ホビットの職人に特別に作らせた世界にひとつしかない逸品よ。これに魔法を付加させれば、レジェンドウェポンに並ぶ超級アイテムになる」
「え!! そんな凄いの!?
それほど貴重な物を簡単に貰う訳にはいかないよ。普通の服で充分だって!」
俺の悪い癖が出た。素直に好意を受けておけば良いものを、服にお金を掛ける習慣がない俺は、日頃の貧乏性がどうしても出てしまう。
「要らないなら棄てるわ」
案の定、ヨムルは機嫌を悪くした。
この後ヨムルの機嫌を直すのに悪戦苦闘した俺は、こんな事をしている場合ではないと現実に戻ったあとも、少しギクシャクしたまま大婆様の所に向かった。
巨大な空間を形成していた蛇脈は、奥に進むにつれ動物の体内のような外壁から硬い岩の様相へと変わり、遂には完全なる岩の洞窟となっていた。徐々に先細り、今では手を伸ばせば天井に届くほど狭くなっている。
先に進むにつれ洞窟内の重力が増して行き、足取りは重く、全身から汗が滴り落ちた。正直、かなりツライ。気温も高くなって呼気しづらい環境になる。
「もう少しよ。ここまで来ると魔法とかも使えないの。辛いだろうけど頑張って」
前方を歩いていたヨムルは俺を振り返ると、そう言って手を握り直して引っ張ってくれた。かなり前からこの状態。でなければ、とっくに動けなくなっていた事だろう。
「着いたわ」
ヨムルの言葉と同時に視界が開け、高重力も消え去り、急に体が軽くなった。気温も負担にならない程度に下がり、清んだ空気に汗がスっとひいて行く。
――あれれ?俺ってこんなに体力あったか?
汗のひき具合といい、猛烈に疲れているはずの俺の体は、感じた事のないスピードで回復していた。深呼吸ひとつで完全回復に近い状態になっている。
「使い魔達が馴染んできたようね。予想よりも遥かに早い。やはりタクヤの体は特別だわ」
「これってヨムルのおかげなのか?こりゃあ、なかなかに気分がいい。もう疲れが取れてきた」
「そう?喜んで貰えてよかった。もっと多くの使い魔たちが体に馴染めば、よほどの大怪我でも短時間で治癒できるようになるはずよ。召喚者は本来、はじめからこの状態に近い回復力を持っているんだけど、タクヤは賢者の心臓のせいで一般人とかわらないような回復力しか持たなかった。これで少しマシになったでしょう?」
「ああ、かなり助かる。アレンとの試合でも、俺の肉体的脆弱さは大きな障害になっていたからな。一撃で即死では、カウンターが恐くて使える技がかなり限定される。本当に大真面目に苦労したよ」
「でしょうね。あの子が存在力をあなたに送り続けなければならなかったのも、その脆弱性ゆえでしょうから。存在力は肉体の強度に直結しているの。存在力を分け与えて肉体の強度を上げる事は出来ないけど、別の方法なら私にも出来る。これでタクヤは、頭を一撃で潰されない限り即死しないわ」
「なるほど。では頭を守る為の兜が必要だな」
「ダメよ。そんな物で顔を隠すなんて私の美学に反する。首のカラーを使いなさい。メデューサオクトパスの魔眼の力で首から上を石化してガード出来るわ」
「石化?確かに凄いけど、石って割れないか?」
俺の頭の中では、石化というと石像みたいな物を想像してしまう。でかいハンマーで叩かれたら簡単に粉々になるような感じがした。
「石にもいろいろあるでしょ?鉱石も石なのよ?」
「なるほど!鋼鉄も石から作るんだもんな!」
ならば、このカラーの機能はかなり凄い。厚み30㌢近い鋼鉄の塊を一撃で粉砕するなど普通に考えて不可能だ。そんな話をしていると、上の方から深みのある老婆の声が降りてきた。見上げた先は霧が掛かっていてよく見えないが、ガラスのような透明な素材で作られた階段が伸びている。
「随分と久しぶりじゃな、ヨムル。遊びに来いと呼んでもなかなか来ぬくせに、頼み事がある時だけは来るのじゃから」
「お久しゅうございます大婆様。お元気そうで何よりです。今日はとても嬉しい報告に参りました」
「報告?まあよい。早く顔が見たい。早ようこっちへ来い」
早よ!早よ!と急かす老婆の声が霧の向こうから聞こえて来る。先程脅された事もあって凄いプレッシャーを覚悟していたのに、意外なほど何も感じられない。
ヨムルに続いて階段へと進むと、とんでもない長さだと分かってあからさまにげんなりした。200や300段ではない。数千段の階段が天まで続いているかのように永遠に続いているのだ。
ーー今度は上か?魔法で飛んで行けないのかな?
階段に足を掛けると、緩やかにステップが動き出す。
ーーエスカレーター式か? こりゃいい!
今の今まで不満顔を見せていたのも忘れヨムルを見ると、彼女は心なしか緊張しているように見えた。自分の婆さんに会うのに緊張するのもおかしな話だが、他人の家族関係にとやかく言うつもりもない。ヨムルの横に並んで、上へ上へと昇り始めた。
しばらく進み霧を抜けると、開けた視界の先には雲海が広がっていた。まるで雲の上を飛んでいるかのような情景に、驚嘆の声をあげる。
「凄いな!飛行機から見える景色のようだよ。地下にこんな巨大な空間が広がっていたなんて驚きだ!」
「まだまだ昇るわよ。ここの広さは地上と同じ大きさがあるの。この空間が大婆様の耳の中だと言ったらタクヤは信じる?」
「耳の中?そんな事がある訳ないじゃないか。またビビらせて楽しむつもりか?」
「大婆様の名は八叉大蛇
創世神話に出て来る焔の蛇神にして創造神『女媧』の娘。神格を奪われ、この地に封じらた、蛇神族最後の生き残りなの」
「なんだって!?」
「この世界は、大婆様の亡骸の上に創られた永遠の牢獄なのよ。体は失っても今もこうして生きておられる」
八叉大蛇とは、ゲームなどでもお馴染みの知った名前だが、この世界に存在しているなど想像もしていなかった。婆さんが神なら、ヨムルの緊張している様子にも納得がいく。神は往々にして気まぐれである事が多い。どんな小説や漫画でも、ほとんどの場合そういう設定になっている。気分次第で天罰てきめんの理不尽な存在なのだ。
動く階段は上昇をやめ、水平方向に進んで行く。その頃には雲海が消え、怪しい雰囲気のモヤモヤした空間が周囲を覆っていた。視界が悪く、光も少ない。その空間の中を進むと、目の前に巨大な石の蛇がうねり絡まるような姿で現れ、頭部が複数あるのに気付いた。
動く道になった階段は、俺とヨムルを乗せてかなりの速度で進んでいるが、いっこうに近づく様子を感じさせぬ程に像は圧倒的な質量を持っていた。
鱗の一つ一つが東京ドームに匹敵すると言えば想像がつくだろうか?近づくともう、その全貌が全く分からない。ただ鱗を持った巨大な壁が視界を埋め尽くすばかりだ。
「いよいよ御対面よ。覚悟はいい?」
いつの間にか言葉少なになっていた二人に、ヨムルの震えた声が響いた。彼女の緊張感が伝播し、早くなった鼓動を他人のもののように感じながら俺は無言で頷いた。




