いじめっ子を精神的に分析していじめる(I Not Die)
突然ですが、
戦争として考え生き残ることこそが最高の勝利です。
いじめを受けた人間は一度は死を考えたことがあると思いますが、
死んで楽になることもないし、あなたも魂が浮かばれない可能性も高いし、
いじめをした人間たちは生き続けています。
死の多くは苦しみであり、
死んだ後もいじめの事実も明らかにされないことが多く、
いじめっ子たちは結局として責任は追及されません。
いじめとは最悪やったもの勝ちとも言えますし、
以前に書いた通りのスクールカーストの身分相応としての、
対応性が十二分に証明されているとも言えます。
国家や法、それに大きな組織では決して裁かれず、
数多くの波紋を呼んでいる上に、人間の死と言う問題さえも、
不問にしようとする兆候が存在します。
いじめほど命の価値が軽い行為は存在しないと思いますし、
戦争の方がまだ国家や法、それに大きな組織も関係し、
人間の命の価値や尊厳、意志を重んじているとも思います。
戦争の方が現実的と言うか、表向きに見ると凄惨に見えますが、
国際法規や条約、国の意志に基づいたものであり、
戦う人間たちにも全員にではないですが、同意も得られています。
一方でいじめは本人の同意もなしに、
不意に対象が選ばれていじめられ人間としての尊厳を傷つけられ、
奪われ、最悪命の価値すらない存在と価値をつけられます。
対象に自身の命の価値を脆弱にとらえさせながらも、
死ぬ覚悟ができない人間の精神の脆弱性を利用し、
人間としての優位性をいじめっ子は証明したいのです。
いじめによっていじめっ子は、
自分自身の価値を高めようとしているのです。
対象こといじめられっ子をいじめることによって、
対象を自分よりも格下の存在として位置づけに成功させ、
自分自身が確固たる地位を得たと勘違いしているのです。
以前書いた通りの隠れナルシストとも言えます。
いじめる人間の個性を絶対的に否定し、
いじめる当然の価値がある存在とも勘違いしているとも言え、
正当な行為や扱い、処分とも考えていると思います。
いじめだと言われても責められても叱責されても、
いじめっ子には罪の意識と言うものはこの価値観上、
最悪決して存在しないと言えるのです。
仮にいじめられっ子が自殺したとしても、
いじめっ子にとっては価値観上いじめではないと言う認識が存在し、
いじめっ子たちはいじめを認めることは絶対にありません。
出てくる言葉の反省文はよくて、
「遊びとしてやっていた。」「この程度で死ぬとは思いませんでした。」
「申し訳ありません。」などです。
いじめなどがよく問題になっていて、
いじめが証明できないのはこの価値観が原因です。
極め付きに仮に証明されたとしても、
更生の余地や公共機関の動向、それに年齢的に、
被害者遺族から見て大甘な処分が下されます。
いじめられっ子で、
現在死のうかと考えている方に真剣に言わせてもらいますが、
死んだ後彼らが生きている世界を想像してほしいです。
死んでいじめがなくなると思いますか?
死んでもいじめは見えないし知らないだけで続き、
ほかのだれかがいじめられるだけで、
あなたの死が彼らに強い影響を与えると思いますか?
極め付きに、特定の人間を生きる価値もないと位置づけし、
1人の人間を精神的に死に追いやる低俗な人間たちが、
自分をおいて生き続けることを我慢できますか?
いじめを受けたならわかると思いますが、
いじめっ子が真に反省する事なんて、
余程の事情が無い限りは絶対にないです。
標的が変わるだけで、彼らはいじめを続けますし、
死んで呪い殺せる能力が覚醒する確証がない限りは、
自殺を絶対に推奨しません。
仮に解決できたとしても一時的なものにすぎず、
いじめは100%以上の可能性で再発しますし、
この数値は実質的に統計をとれば1000%を超えると思います。
最悪やったもの勝ちだとも表現し、呪い殺せる能力が、
覚醒する確証がない限り、自殺を推奨しないとしましたが、
一番重要なのはここでいじめっ子にならないことです。
やらなければやられ、自分の身を自分で守り、
戦う覚悟を決めなければいけないことも事実ですが、
戦うことを一歩間違えればいじめに早変わりする危険が存在します。
いじめは本人の同意もなしに、
不意に対象が選ばれていじめられ人間としての尊厳を傷つけられ、
奪われ、最悪命の価値すらない存在と価値をつけられると表現しました。
戦うにおいて相手を同じように考えるようになり、
同じような行為をすれば立場が変わるだけの、
本末転倒の結果になります。
立場を逆転させることによっていじめっ子は自業自得とも言えますが、
立場を逆転させたいじめられっ子は、
自身の立場を再認識する必要が存在します。
いじめられていたとしていじめていた人間が、
生きる価値もなく殺したい、死ねばいいと考えるのは無論、
当然の真理だと言うことは認めます。
認めますが、彼らもいじめる人間を同じように考えているし、
やったもの勝ちとも言いましたが、
同じような考えを持った人間になっていいのですが?
繰り返しますが、いじめは本人の同意もなしに、
不意に対象が選ばれていじめられ人間としての尊厳を傷つけられ、
奪われ、最悪命の価値すらない存在と価値をつけられます。
立場や集団、人間が違うだけで、いじめが形を変えて、
継続されているとも言え、いじめられているからこそ、
いじめるいじめっ子こそ、真のいじめっ子と言えます。
最悪命の価値すらない存在と価値づけられるとしましたが、
いじめられてほかの人間を似たような条件でいじめ、
価値づけし、いじめの連鎖が始まるのです。
弱いものいじめの弱いものいじめと言う連鎖で、
いじめは人間として非常に程度の低い行動化をしていきます。
いじめる人間の個性を絶対的に否定し、
いじめる当然の価値がある存在とも勘違いしているとも表現しましたが、
いじめる人間の価値基準など人間としての底辺の価値基準だとも言えます。
いじめほど人間として最低な行為は存在しないし、
過去に防止の標語などで格好悪いと言う内容が存在しましたが、
見苦しいし上幼稚で人間としての程度の低い行為とも言えます。
いじめっ子を生きる価値もなく、殺したい、死ねばいいと考えるのは無論、
当然の真理だと言うことは認めるとしましたが、
いじめられた人間の価値基準も同等に落ちる危険も存在するのです。
いじめを受けて死にたいと考えている方が存在するならば、
聞いてほしいのですが、あなたは自分がいじめられていて、
仕返ししたり、ほかのだれをいじめたりしたいと思いますか?
最悪殺したいと考えていますか?
思っていても実行することができないならば言いますが、
あなたは真のいじめられっ子であり、少し残念な人間だと言えますが、
物凄く立派な人間だとも言いたいです。
連鎖の中の最後に位置しているとも言え、
人間としての最低の行為の最低の立ち位置に存在し、
人間としての本当の価値が試されているのです。
戦争として考え生き残ることこそが最高の勝利としましたが、
生きて自らの価値を証明し、底辺の心情の人間を見届けるべきなのです。
結局精神論的なもので、
最終的には簡単に言うと耐えて我慢しろと言う無茶を言っていますが、
大切なことを自分自身の価値は自分自身で決め生き残ることです。
いじめる人間たちに罪の意識など存在しない場合も多く、
人間個人の価値観などよほどの事情が無い限り変えられないし、
いじめの根本にして最大の問題は価値観の問題です。
人間としての少しの違いを格下や異常、
狂気だと勝手に価値づけし、その評価こといじめの理由は、
本質的には低俗なもので、大した差は存在しません。
戦争の方がまだ国家や法、それに大きな組織も関係し、
人間の命の価値や尊厳、意志を重んじているとも表現しましたが、
戦争には人間としての大きな違いが存在しています。
国家や、法、宗教、企業、それに文化と言う集団が戦い、
戦争はそれらの価値観の違いが争いの火種ともなっています。
肌の色や生まれ、地域的な人種差別もふくまれ、
特に肌の色ともなれば偏見や差別、時代錯誤的になりますが、
別の人間とみられても仕方のない話です。
大規模な人間の組織集団が、
異なる思想を持った大規模な人間の集団と戦うのが戦争ですが、
いじめの場合は最終的には1個人同士の問題になります。
いじめは一見すると集団に見えますが、国家や法、企業、文化、
それに人種と言った、集団と言う組織の中で生まれた規則や模範、
価値観は決して存在しません。
いじめっ子たちのいじめは人間の勝手な価値づけにしか過ぎず、
似たような価値観の人間たちを集め価値の押しつけをする、
非常に低俗で下劣で卑怯者の集団なのです。
似たような人間を集めたことによって勢力を増すことで、
少数派こと、1人の人間を追い詰めると言う非人道的行動も必然で、
国家や法、企業、文化、人種間のたすけは決して存在しません。
集団化することで抑止力をも産み出し、逆に仲間を加え勢力を拡大することや、
巻き添えにならないようにほかの大多数は必要最低限の接触や無視するなど、
いじめられっ子は余計にいじめられていくのです。
戦争として考え生き残ることこそが最高の勝利だと表現しましたが、
いじめは人間が体験する世界一小規模だが、
世界一の問題を持った非人道的な戦争だとも思えます。
原因は国や法、宗教、文化、人種ではなく人間としての少しの違いで、
個性を否定された上他人の価値観を強制され、法の裁きが通用せず、
そして命の価値すら適当に扱われることです。
戦争は表面的には凄惨ですが、いじめの方が内面的にそれ以上に凄惨であり、
集団化する中で人間の精神の根底に潜む模範や価値観が失われ、
差異を見つめ直す正常な思考さえも失われて行くのです。
いじめられっ子が出す最悪の回答が自殺か復讐殺人だとも言え、
引きこもりなども一種の正当防衛とも言えます。
精神論的話になりますが、大切なのは戦争として考えると言うこともふくみ、
いじめと言うのは、人間の精神への宣戦布告や戦争、生存競争だとも言え、
復讐殺人と言った最悪の回答を出さないようにすることです。
いじめっ子は殺す価値もない人間であり、
殺せば人間としての価値を汚すだけです。
戦争と言うよりも正確には集団テロや紛争的で、
勝手に考えた言葉ですが、マインドテロリズムと言う表現をすべきで、
いじめっ子たちはマインドテロリストだとも言えます。
自殺や復讐殺人はある意味で自爆テロに似ているとも言え、
いじめが生みだしたマインドテロリズムの極致とも言えます。
テロとは本来政治目的達成のために、
暴力の行使をも迷わないと言う主義や集団などを意味しますが、
いじめも集団化すれば似たような思考や集団です。
繰り返しますが、国家も法も、宗教も、文化も、
それに人種と言う規則や模範や価値観以前に存在し、
決して通用しないのがいじめです。
特定の個人に対し別の個人または集団から、
個性を否定した上価値観を押し付けられ、命の価値を適当に扱われ、
法なども通用しません。
通用するのは自己陶酔の上に形成される自己保存のために確保した、
内面では決して通じあうことのない表面上だけの仲間意識であり、
自分以上の存在を必要としない統一性だけです。
仲間以外こと、集団以外の個性を持った存在など論外で、
共同して絶対的な排除をする事だけに協力すると言う、
表面上こと体面、彼らにだけ都合のよすぎる面が存在します。
法なども通用しないし、他人への精神的な、
テロ以外の行為の何物でもないと言え、
人間の精神を強く深く、負の方向へ侵食します。
人権侵害と言う領域までには到達しない可能性も存在しますが、
いじめといじめっ子こと、マインドテロリズムと、
マインドテロリストは目標のために手段は選びません。
法の裁きを受けず、やったもの勝ちとも表現し、
耐えて生きて見届けることしかすすめることはできませんが、
絶対に自殺はいじめと言う問題を解決しません。
本当に繰り返しますが、
戦争として考え生き残ることこそが最高の勝利と言えますし、
他人の価値観を変えることはよほどの事情がない限り不可能です。
いじめの、マインドテロリズムの果てには、
人間として本当に大切なものを得ることなど決して存在しないとしても、
いじめっ子はマインドテロリストして生き続けます。
特定の宗教のテロや時代のように、名誉の死など決して存在しませんし、
マインドテロリズムに決して負けてはいけません。
もしいじめを受けて死にたいと思い、
復讐殺人も考えている中でこれを読んだならば迷わずに、
眼の前で本気で大声で生きて欲しいと伝えたいです。
いじめは、戦争よりも卑劣です。
大切なのは自分自身の生きる価値を見極めることで、
生きる価値は決して他人が決める権利は存在しません。
他人の命の価値を見極め決める権利を持つと言うならば、
完全なる思い込みにしか過ぎず、
カルト集団の教祖並みの狂人だと言えます。
最悪カルト集団よりも厄介とも言え、
自分自身を神だとさえ勘違いしているとも言え、
狂人の相手をするだけむだです。
最後に、少し性質が悪いのですが、
死ねと言うように言われたらこう言い返すべきです。
死ねと言われて死ぬ人間がいればあってみたいし、
連れてきたらお詫びに路上のど真ん中で切腹してやる。