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いじめっ子を精神的に分析していじめる 2 (I am No Human.)

突然ですが、


学名 ホモ サピエンス 人科、人亜科の総称であり、


人類とも呼ばれます。



これは何かと言えば、


人間の生物学的説明です。



本題はこの科学的な説明ではなく、


人間と言う生物はどのような生物でしょうか?



質問は科学的なものではなく、精神学や心理学、


哲学と、心と言うものが複雑に関わり、


科学では定義できない領域へと突入します。



答えを求める事こそ人間としての真価であり、


人間としてと言うか、


人生を生きることの最大の疑念とも言えます。



深く考えるには多くのことを知る必要があると思いますが、


肝心なことは人間としての価値です。



最近のことではないのですが、


いじめや悪口の類の中に人間ではないと言う種類が存在します。



人間ではない、人でなし、人間以下と、


本来は酷い人間に対してかける言葉ですが、


現在ではいじめの常套句となっています。



結構です。


あなたのような人間が人間なら人間でなくて結構です。


人間でなくて逆に光栄とさえ言え、胸さえ張れます。



いじめなどで仮にこのような言葉を受けた際、


このように言葉をかけてあげるべきです。



考えても見ても欲しいのですが、


人間ではないと言う人間にとって、


人間とはどういう生き物でしょうか?



答えを求めることこそ人間の真価であると書きました。



人間でないと他人を中傷することを踏まえると、


言う人間には自らが確固たる人間として自信を、


絶対的に持っていると思われます。



考えられますが考えて欲しいのですが、


人間を人間でないと扱う人間の価値観が、


人間らしいと言えますか?



万人に聞くとしてもこれは、


余程の事情がない限りは違うと言うと思います。



確固たる人間としての自信を持っていると書きましたが、


失礼ですが自己陶酔の勘違いで、


人間としての自意識過剰が過ぎると思います。



表面的には見えませんが、


人間としての自意識過剰な自信を持っていることを踏まえると、


隠れナルシストとも言えるでしょう。



いじめの対象とする人間を人間でないと見立て、


自らの人間としての確固たる地位を獲得したと誤解し、


自分と違う対象を人間として受け入れられないのです。



ナルシルトと言う言葉は本来ある神話に登場する、


ナルシスと言う神が登場する話が語源だそうです。



この神は水面に映った自らの顔に酔いしれ、


酔いしれすぎて餓死したと言う話が存在し、


これがナルシストの語源の発端だそうです。



いじめっ子で人間ではないと言うようなことを言う人間は、


水面に映った顔が自分ではなかったナルシスだと言えます。



自分自身の顔に酔いしれて見ていた中で、


不意に現れたのは自分とは異なる顔や、


見ることを邪魔する人間です。



自分と言う存在を最高の価値観として配置することで、


他人と言う存在の価値を低く見ることしかできないのです。



自分以外の存在を人間として認めることができないとも言えます。



いじめっ子の尊大な態度の背景には、


ナルシズムが存在するとも言えます。



口では表立って言うことはないと思いますが、


他人をいじめて人間ではないと言うほど、


自分はとても立派な人間だと言い張り誇示したいのだとも言えます。



行動と言動が確実な不一致を起こしているとも言えます。



ナルシズムだけではなく、


いじめられないために、自らの地位を守るための自分勝手さや、


同じ価値に相当する人間たちを集める集団性も持ちます。



集団性の中に存在する意識は仲間意識ではなく、


自らの価値観をお互いで共感し、補助し、誇示できると言う、


暗黙の中に潜む自己満足と自己崇拝、自己利益のための画策です。



ナルシスに例えると同じように水面に映った自分の顔を見るのが、


大好きな人間たちが集まっている状態とも言え、


水面にいて同じことをしない人間を仲間と認識しないのです。



水を顔を映すための道具として利用する事しかせず


仲間が死んだとしても、水面を守ることを優先し、


他の使用用途を認めようとは絶対にしません。



水面に映った自分自身の顔と言う空虚な存在に固着し、


水面を守るためならば仲間の命でも有効利用し、


実際問題としては水面の独占を考えているかもしれません。



仲間ではない人間が飲みに来たり、水浴びと言った別の使用用途や、


一滴の水でも飲むことができれば救われる命があることも考えず、


基本の自分の顔が写されることなど論外であると考えているのです。



自分が最後に餓死することも知らずに、


最悪競合して水面を利用しようとする仲間以外の人間を、


寄せ付けず追い払い、最悪殺す可能性も存在すると思います。



無論これは度が過ぎたたとえ話と言えますが、


同じような状況がいじめと言えませんか?



いじめっ子とは自己顕示欲が強く、


自己陶酔し集団で行動する珍妙な集団とも言えます。



いじめる相手を何としても人間ではないと認めず、


人間としての優位性を誇示しているとも言えます。



極め付けに集団的心理により、


いじめる対象を確実に人間でないと勝手に価値づけさせ、


価値観を麻痺させる異常者集団とも言えます。



価値観を麻痺していると言うか、


ナルシスのたとえ話でしたように水を守るためだけなのに、


価値観が麻痺しているとも言えます。



水本来の使用用途をも理解せず、


水面に映った顔を自分とも理解できず、


たとえ話としても人間としての能力を疑います。



人間ではないと言われたいじめられっ子に聞きますが、


あなたは本当に人間でいいのですか?



いじめを受けている人間にとって、


いじめた人間を人間とも思えないとも思えますが、


これが人間だと考えるとどう思いますか?



自己顕示欲が強く、自己陶酔し、自意識過剰で、


集団で行動し、他人の価値を勝手に人間以下に決める生き物が、


真の人間だと言えますか?



ナルシスは最終的に死にましたが、


現実のいじめで最大な問題なことは、


いじめっ子は死なないことです。



放置しておけば膨張するだけですが、


人間でないといじめを受けた人間として言わせてもらいます。



人間でないことに誇りを持つ時代が到来しています。



人間の価値を最終的に決めるのは他人ではなく自分自身であり、


人間を人間でないと言う人間に人間としての価値を認めてはいけませんが、


人間の価値とは簡単に決められるものではありません。



答えを求める事こそ人間としての真価であると書きましたが、


確実に言えることは人間を人間でないと言う価値観を持つことは、


人間としては持ってはいけないことです。



持ってはいけないことですが、


人間を人間ではないと言うのは結局は人間です。



人間として生きる価値は本当にあるのでしょうか?



人間でないことに誇りを持つ時代が到来すると書きましたが、


人間は神にも動物にも、植物にもなれません。



中世のように身分がわけられ、


人間外の扱いをされる人間が存在するわけでもありません。



苦悩しろとまでは言いませんが、


人間としての価値と言う疑念を、忘れてはいけません。



持ち続ける疑念を放置した時こそ人間は人間でなくなると思いますし、


赤の他人にその価値を勝手につけられる価値はまったく存在しません。



いじめで人間ではないと言われたならば、


いじめっ子と同じ人間ではないと言うことを、


逆に光栄に思うべきです。



いじめた人間がいじめっ子の眼の前で宣言したとも言えますし、


同じ人間ならば生きていて逆にはずかしいと考え、


人間でなくてよかったと逆に思うべきです。



人間ではないと言うことを言われていじめられた方がいるならば、


いじめっ子と言う人間ではないと言う証明がされたとも言え、


ある意味不謹慎ですが別の意味でおめでとうと言いたいです。



偉そうなことを書いていますが、


人間でないことを誇りに持てと言うような自分こそ、


疑念を放置した真の人でなしと言えるのかも知れません。



人でなしかもしれませんが人間のことを知っていく中で、


人間の価値観や歴史、異なる文化が存在することがわかりますが、


大切なのは人間を人間でないと非難しないことです。



真の人でなしと言えるのかもしれないとかきましたが、


似たような心境や共感、同意する人間が生まれる可能性は否定できないし、


生まれることは人間の価値の疲弊化の証明とも言えます。



大切なことは人でなしと呼ばれる人間を生み出したのは、


紛れもない人間であり、人間の価値を損ねないことですが、


廃絶することは確実に不可能です。



わがままにもなりますが疑念を持ち続けることも疲れますし、


一休みとして人間として生きることを一時的に放棄したくもなります。



人間外の存在として自分を考え思考することも、


1人の人間としての立派な価値観の1つだとも思います。



最後にもう一度繰り返しますが、


人間でないことに誇りを持つ時代が到来しています。



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