第1話:落日のシャッター
シャッターの規則正しいクリック音だけが、唯一の重要な音だった。
黒くボサボサとした髪の痩せた少年が、荒れ果てた廃工場の廊下を駆け抜けていた。肺が焼けるように熱かったが、重い一眼レフカメラを握りしめる手に迷いはなかった。ひび割れたファインダー越しに見る世界は、不思議と筋が通っていた。影、錆びた鉄骨、壁に忘れ去られた落書き――そこは静寂に包まれた確かな現実であり、失われた将来への不安など微塵も存在しない空間だった。
彼はふと足を止め、崩れかけた窓から差し込む薄暗い光を捉えるため、カメラを目の前へと掲げた。
――カチリ。
「おいおい、こんな所に入り込むなんて大いなる過ちだぜ、ボウズ」
暗がりから、冷徹で悪意に満ちた声が響き渡った。少年は息を呑んで硬直し、ゆっくりとカメラを下ろした。通路の闇から現れたのは、四人の巨漢たちだった。野良犬のごとき凶暴な怒りを宿した目をしている。ここは奴らの領域であり、彼は招かれざる侵入者だった。
「ぼ、僕は……ただ写真を撮っていただけで……」
一歩、また一歩と後退りしながらどもる。痩せ細った体は震え、カメラをまるで盾のように胸元へ強く抱きしめた。「すぐにここから出て行くから」
「あぁ、どこへも行きやしねぇよ」
リーダー格の男が不敵な笑みを浮かべ、指を鳴らした。
少年の体が逃げ場を探して振り返ろうとした瞬間、強烈な一撃が彼の顎を捉えた。世界が激痛の渦となって回転する。コンクリートの床へと激しく打ち付けられ、手から滑り落ちたカメラは遥か彼方へと転がっていった。
そして、暴力の嵐が始まった。
肋骨へ、腹部へと、容赦ない蹴りの雨が打ち下ろされる。少年は身体を丸めてうずくまり、血を吐き出しながら、耐え難い苦痛の底へと沈んでいった。本能的な恐怖が喉元を締め付ける。奴らは止마らない。自分を殺す気だ。
――嫌だ、こんなところで死にたくない!
狂乱と絶望の淵で、もがく彼の手が冷たく重い感触を捉えた。瓦礫にまみれた床に転がっていた、一本の錆びた鉄パイプだった。思考する間もなく、ただ生き残りたいという野生の本能だけに突き動かされるまま、彼はその金属を固く握りしめ、残された全ての力を振り絞って上へと突き上げた。
――グチャリ、と異様な音が空っぽの広間に響き渡った。
蹴撃がピタリと止まる。そして、リーダーの巨体が彼の胸の上へと崩れ落ちた。
少年は荒い息を吸い込み、重い肉体を自らの胸から押し退けた。呼吸が喉につかえたまま、後ずさる。ギャングのリーダーはコンクリートの上で微動だにせず、その腹部には錆びた鉄パイプが深く突き刺さっていた。足元から濃い紅色の血溜まりが急速に広がっていく。残された三人の仲間たちは恐怖のあまりその場で凍りつき、やがて悲鳴を上げて闇の中へと逃げ去っていった。
工場に再び静寂が戻った。だが、それはもはや平穏な沈黙ではない。あまりにも重苦しい、耳鳴りのような静寂だった。
少年は自分の両手を見下ろした。激しく震えるその掌は、温かくドロドロとした血の海に染まっていた。鉄の匂いが鼻腔を突く。自らのしでかした現実の重みに、精神が崩壊していく。
――殺してしまった。命を奪った。僕は、人殺しだ……。
彼押し殺したような苦痛の悲鳴を上げ、あざだらけの顔に涙を流しながら、血に染まった自分の掌を見つめていた。
しかし次の瞬間、世界が明滅した。
血の匂いが消え失せる。足元の冷たいコンクリートが虚空へと溶けていく。肋骨の耐え難い痛みが、忘れ去られた夢のように薄れていった。
彼はまばたきをした。もう廃工場にはいなかった。
再び自分の手を見下ろす。完璧にきれいだった。一滴の血もなく、かすり傷一つない。彼は直立し、完全に無傷だった。
ゆっくりと頭を上げた。果てしなく続く、無機質な白い空間に立っていた。しかし、一人ではなかった。肩越しに振り返ると、見渡す限り続く、光を放つ半透明の人々の途方もない列が見えた。
そして、彼はその最前線にいた。
「名前:雷樹冬。年齢:十七歳。死因:極度の精神的ショックによる心停止」
声は平板で抑揚がなく、共感を完全に欠いていた。
冬はハッと前を向いた。滑らかな黒曜石のデスクの後ろに女性が座っていた。純白のスーツを着こみ、髪をきっちりとシニョンにまとめている。その虚ろな目は、一千年もの間同じシフトをこなしてきた官僚特有の最高潮の退屈さを湛えながら、手元の光るクリップボードを見つめていた。
「こ、ここはどこだ?」
震える声で冬はささやいた。「血が……あの少年が……僕はまさか……」
「殺したのよ、ええ」
クリップボードから目を上げることすらせずに、係官が話を遮った。「過失で、正当防衛とはいえ、命が奪われたことに変わりはない。そしてその直後、自分の行動に対する純粋な恐怖から、心臓が麻痺してね。実にお粗末だわ」
冬の膝がガクリと折れた。罪悪感が先ほどよりも重く、再び押し寄せる。「僕は死んだのか? ここは……地獄なのか?」
「ここはコズミック・トランジット・キュー(宇宙の転移待合室)」
光るページをめくりながら彼女は答えた。「天国でも地獄でもない。ただの死後の事務手続きよ。だが、あなたのケースには特別なプロトコルが必要なの。時期尚早に命が奪われたことで、宇宙の均衡に波乱が生じた。これを修復するため、無の平穏は与えられないわ」
彼女がついに顔を上げた。その冷ややかな目が彼の魂を真っ直ぐに射抜く。
「あなたはセクター4-Bへ転移させられる。我々が『異世界』と呼ぶ魔法の領域よ。赤ん坊から転生することになるわ」
「転生だって?」
息を詰まらせる。「まるで……二度目のチャンスか?」
「これを報酬などと勘違いしないことね、ライキ君」
係官の声が凍てつくほど冷たいトーンに変わった。「これは宇宙の刑罰よ。前世の記憶を一切残したまま生きるの。手に付いた血の感触を思い出すでしょう。彼の臨終の息吹を思い出すことになる。十七歳の殺人鬼の精神を宿したまま、無力な赤ん坊の肉体に閉じ込められるのよ」
彼女が手を挙げると、空中に暗くうねる呪術的なエネルギーの刻印が実体化した。
さらに、あなたの魂には宇宙の呪いがかけられる。もし将来、あなたが前世の記憶や超越的な出自について語ったり、書いたり、あるいはほんの少しでも暗示させようとしたなら――その瞬間、あなたの魂は身動きが取れなくなるほどの激しい苦痛に苛まれることになるわ。あなたは自分の犯した罪を、完全なる沈黙の中で背負い続けるのよ。完全に孤独なままでね。
冬は息もできなかった。刑罰の重さが重く圧し掛かる。全く新しい人生を送りながら、忘れることもできず、告白することもできず、救いを求めることもできない。
光る判子を掲げながら係官は言った。「あなたの新しい名前は『九烏貝・輝礼』。その苦悶が宇宙に均衡をもたらさなんことを。――次の列の方、どうぞ」
冬が叫ぶことも、慈悲を乞うことも間に合わないうちに、係官はデスクの上へと容赦なく判子を叩きつけた。
白い空間が百万個の破片となって砕け散り、圧倒的なまでに息の詰まる漆黒の暗闇が、雷樹冬を完全に呑み込んだ。




