兵学館最後の評定
資料修復室の机に、一冊の厚い評定録が置かれた。
革ではなく、黒く染められた和綴じ。
表紙には年月とともに薄れた文字が残っている。
『兵学館卒業評定録 秘』
治彦は白手袋をはめ直した。
「評定録は成績表ではありません。」
「学生一人ひとりの人物評価や将来性まで記された極秘資料です。」
氏治は懐かしそうに表紙へ触れる。
「卒業の前夜、教官全員で夜更けまで議論したものだ。」
「誰をどこへ送り、何を任せるか。」
「それが坂東の未来を決めるからな。」
治彦はゆっくりと頁をめくる。
最初に並んでいたのは歴代卒業生の名だった。
館林。
結城朝基。
宇都宮朝綱。
那須資忠。
小山義広。
見慣れた名が続いていく。
氏治は微笑んだ。
「あの頃を思い出す。」
「皆、若かった。」
さらに頁を進める。
やがて、一枚だけ紙質の違う頁が現れた。
右上には赤い印。
『特別留学生』
その下には大きく、
『伊達政宗』
と書かれていた。
「ありました。」
治彦は息をのむ。
評定は教官たちの発言形式で記録されていた。
最初に書かれていたのは学長モンケの言葉だった。
『知識の吸収、極めて優秀。』
『異国語にも強く、理解も早い。』
次は武芸担当。
『剣、馬、鉄砲、いずれも上位。』
『勝負勘は群を抜く。』
さらに築城担当。
『完成した城を学ぶだけでは満足せず、必ず改善案を持ってくる。』
治彦は苦笑した。
「先生泣かせですね。」
氏治も笑う。
「授業が終わるたび質問責めだった。」
「教える側も鍛えられたものだ。」
しかし、次の頁で二人の表情が変わった。
評定席で、一人だけ異なる意見を書いている人物がいた。
署名は、
『氏治』
治彦は静かに読み上げる。
『政宗は優秀である。』
『だが、優秀すぎる。』
修復室が静まり返る。
続く文章には、氏治自身の評価が綴られていた。
『教えられたことを覚えるだけでは終わらぬ。』
『必ず己の理へ変える。』
『やがて誰の教えにも従わなくなるであろう。』
治彦は氏治を見た。
「見抜いていたんですね。」
氏治は小さく頷く。
「教師としてな。」
「政宗は従順な弟子ではない。」
「自分の答えを探す弟子だった。」
さらに評定は続く。
『故に囲うべからず。』
『故に縛るべからず。』
『飛ばせ。』
『ただし、坂東を忘れぬよう見守れ。』
治彦は思わず声を漏らした。
「飛ばせ……。」
「はい。」
氏治は静かに答えた。
「政宗を坂東へ取り込む気は、最初からなかった。」
「奥州へ帰し、自らの国を築かせる。」
「それが兵学館の結論だった。」
その直後、一番最後の評定欄に、一行だけ別の筆跡が加えられていた。
墨の色も少し新しい。
まるで後年、誰かが追記したようだった。
そこには、こう書かれていた。
『氏治公の予見、ことごとく的中す。されど一つのみ誤算あり。』
治彦は息をのむ。
「誤算……。」
「何だったのでしょう。」
氏治も静かにその一文を見つめる。
その下には、追記を書いた人物の名が残されていた。
『宇都宮尚綱』
氏治は思わず目を見開いた。
「尚綱が……。」
評定録は、卒業の日だけで終わってはいなかった。
戦友となった宇都宮尚綱が、何十年も後に書き加えた「氏治最大の誤算」が、次の頁に記されていたのである。




