天下を望まなかった理由
研究室へ戻ると、夕日が窓から差し込み、机の上の古い史料を黄金色に染めていた。
治彦は湯飲みに茶を注ぎ、一つを氏治の前へ置く。
もちろん氏治は霊であるため口にすることはできない。
それでも治彦は毎回、二人分を用意していた。
氏治は少し照れくさそうに笑う。
「律儀なものだ。」
「習慣ですから。」
治彦も笑って席に着いた。
しばらく二人は黙って夕日を眺める。
やがて治彦が静かに切り出した。
「氏治さん。」
「政宗の問いに答えてください。」
「なぜ天下を望まなかったんですか。」
氏治は窓の外を見つめたまま、すぐには答えなかった。
長い沈黙の末、小さく口を開く。
「私は……敗れた男だからだ。」
治彦は首を横に振る。
「違います。」
「あなたはこの歴史では勝っています。」
「それでも天下を望まなかった。」
氏治は苦笑する。
「歴史というものは恐ろしい。」
「勝った未来でも、負けた記憶は消えぬ。」
治彦は静かに耳を傾ける。
氏治は遠い昔を思い出すように話し始めた。
「亡霊となってから、私は多くを見た。」
「織田も。」
「豊臣も。」
「徳川も。」
「誰もが天下をまとめた。」
「だが、その天下は永遠ではなかった。」
「やがて争いが起き、幕府も滅びた。」
治彦はゆっくり頷く。
これは、これまで氏治が何度も語ってきた原点だった。
「だから思ったのだ。」
氏治は静かに続ける。
「一つの家が全てを支配する国は、いずれ一つの失敗で崩れる。」
「ならば、支え合う国を作ればよい、と。」
治彦は机の上に置かれた日本地図を広げる。
坂東。
奥州。
西国。
三つの勢力が色分けされている。
「つまり。」
「天下ではなく、均衡ですか。」
「そうだ。」
氏治は地図の坂東を指差した。
「坂東は坂東を治める。」
次に奥州へ指を移す。
「奥州は奥州を治める。」
さらに西国を見る。
「西国もまた、自らの地を治める。」
「互いに競い、学び、時に争いながらも、一家が全てを支配しない。」
「それが私の考えた平和だった。」
治彦は静かに息を吐いた。
「だから政宗にも、自分の国を興せと言った。」
「うむ。」
氏治は微笑んだ。
「私は従わせたかったのではない。」
「育てたかった。」
その言葉を聞いた瞬間、治彦の頭の中で、一つの疑問がつながった。
「だから兵学館は……。」
氏治は頷く。
「敵国にも門を開いた。」
「優秀な者ならば、身分も国も問わなかった。」
「学は囲うものではない。」
「広げるものだからな。」
治彦は苦笑する。
「その結果、一番優秀な弟子が政宗だったわけですね。」
氏治も笑った。
「あれほど飲み込みが早い男はそうおらぬ。」
「毎日のように質問へ来ておった。」
「先生。」
「なぜですか。」
「どうしてですか。」
「もっと良い方法はありませんか。」
「本当に手がかかる弟子だった。」
二人は思わず笑い合う。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
治彦は政宗の書状を見つめながら言う。
「でも……。」
「政宗はあなたの答えを聞けませんでした。」
氏治も静かに頷く。
「そうだ。」
「だから私は、今答えねばならぬ。」
その時、研究室の扉がノックされた。
「失礼します。」
若い学芸員が慌てた様子で入ってくる。
「館長。」
「未整理史料の整理中に、不思議なものが見つかりました。」
「小田家文書なんですが……。」
「伊達政宗からの返書ではなく、氏治様が書きかけた返信の下書きらしいんです。」
治彦と氏治は同時に立ち上がった。
政宗の問いに対する答えは、四百年前にすでに書かれていたのかもしれなかった。




