氏治の遺言
収蔵庫の灯りだけが、静かに机を照らしていた。
氏治は、自らの筆跡をじっと見つめている。
四百年前に書いたはずの文字。
しかし、その内容だけは、今の氏治にも思い出せなかった。
「……不思議なものだ。」
氏治は苦く笑う。
「書いた覚えはある。」
「だが、何を思って書いたのかが思い出せぬ。」
治彦はその紙を丁寧に机へ置いた。
「人の記憶は薄れます。」
「ですが、文字は残ります。」
「だから歴史学では、日記や書簡を重視するんです。」
氏治は静かに頷いた。
「四百年後の私が、四百年前の私を知るために史料を読むとはな。」
治彦は覚え書きの裏面をめくる。
そこには、短い文章が続いていた。
『子らよ。』
氏治の表情が変わる。
「……子らよ。」
その呼びかけは、家臣だけではない。
兵学館で学ぶ若者たちへ向けた言葉だった。
治彦はゆっくりと読み進める。
『我が教えを守るな。』
二人は思わず顔を見合わせた。
「守るな……?」
さらに続く。
『学び、疑い、改めよ。』
『師を越えてこそ、学は生きる。』
『坂東のためだけに学ぶ者は、真の学徒にあらず。』
氏治は目を閉じた。
「思い出した。」
「この言葉は、卒業生へ送ったものだ。」
「兵学館の最後の講義だった。」
治彦は驚きを隠せない。
「卒業式の訓示だったんですか。」
「ああ。」
氏治は懐かしそうに微笑んだ。
「皆、私の言葉を書き留めていた。」
「その中の一枚が残ったのであろう。」
治彦は続きを読む。
しかし、最後の一節だけは雰囲気が違っていた。
まるで未来を予見するような言葉だった。
『ただ一つ、忘れるな。』
『学は国を富ませる。』
『されど、思想は国を分かつ。』
氏治は深く息を吐いた。
「私は恐れていたのだ。」
「兵ではなく、人の信じる道を。」
治彦は静かに頷く。
「展示室で見た三つの理念。」
「坂東秩序。」
「西国統一。」
「奥州理想。」
「全部、この言葉につながっています。」
その時だった。
治彦は史料箱の底に、小さな封筒が残されていることに気付く。
封筒には一行だけ墨で書かれていた。
『治彦へ』
氏治は眉をひそめた。
「……治彦?」
「まさか。」
治彦も言葉を失う。
「そんなはずはありません。」
「四百年前に、僕の名前があるなんて。」
封筒は一度も開封された形跡がなかった。
誰にも読まれることなく、四百年もの間、収蔵庫で眠り続けていたのである。
治彦は震える手で、その封筒を持ち上げた。
氏治も固唾をのんで見守る。
そこに記された名前は、偶然なのか。
それとも――。
四百年前の氏治は、未来の治彦の存在を知っていたのか。
歴史の謎は、新たな局面を迎えようとしていた。




